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四十八、終業式の日
十二月二十四日。明桜高等学校の終業式である。
亜樹は、ぼんやりしていた。担任の言葉など、一切頭には入って来なかった。
珠生からの誘いが嬉しくて、あの日の晩は眠ることができなかったほどだ。ああして面と向かって珠生と会い、その笑顔を見てしまうと、改めて自分がいかに珠生のことが好きのかということを認識させられてしまう。
「天道、一緒に帰らへん?」
ふとそばに立った少年に、亜樹ははっとして顔を上げた。すでに担任の姿はなく、皆が楽しげにわいわいと冬休みの予定などを話し合っている。
亜樹のとなりに立っていたのは、同じクラスの小泉圭人である。
ここ最近、圭人はちょこちょこと亜樹を誘って一緒に帰宅したり、ファーストフード店に誘ったりと、亜樹を気にかけている様子のある男子である。
男性と二人きりになる経験などほとんどなかった亜樹にとって、そういう誘いは緊張を強いられるものでしかない。それでも圭人はいつも笑顔で亜樹に接してくるのである。
しかし、誰と帰る約束もしていないため、圭人を頭から邪険にすることもはばかられ、亜樹は渋々頷いた。
「あ、うん……ええけど」
慌てて立ち上がった亜樹のそばを、湊が通りかかる。すると、圭人は楽しげに湊に声をかけた。
「柏木、お前もデートか?」
湊はちらりと圭人を見下ろして、鞄を肩にかけ直した。そしてちらりと亜樹の方を見て、少し小首を傾げている。
「おう、まあな。何や、お前らもどっか行くんか」
「それは分からへんけど」
お前も……ってことは自分たちもデートのつもりなのか……? と亜樹は訝しみながらも立ち上がった。
「柏木はどこ行くん?」
と、圭人に尋ねられ、湊は淡々と「百合んち」と言った。
「おぉ、まじでか? そりゃ……頑張れよ」
ぽん、と肩を叩かれ、湊は肩をすくめた。亜樹は何を頑張るのかとまた不思議に思いながら、相変わらず仲の良さそうな湊と百合子を羨ましく思う。
「別に何も頑張らへんし」
と言い残し、湊は時間を気にしつつその場から去って行く。その背中を見送って、亜樹は圭人とともに教室を出た。
亜樹はマフラーを巻きつつ廊下を歩きながら、上機嫌な圭人を見た。
「あのさ、うちらもこれからデートなわけ?」
「え、あ、いや、深い意味はないねんけど! もし良かったら、どっか行かへん?」
亜樹の問に、圭人はびっくりしたような顔をした。亜樹は目を瞬かせ、ため息をつく。
「いや、うち、そういうのは……ちょっと」
「まぁまぁ、いいやん。今日はイブなんやしさぁ」
亜樹の気持ちなどお構いなしといった様子の圭人は、クリスマス・イブという空気に亜樹を巻き込んで、まるで付き合いたてのカップルかと見紛うような距離感で隣を歩く。亜樹は圭人のそういう行動に嫌悪感を抱きはじめていた。
校門を出て、なんとなく駅の方面に歩き出した圭人とともに歩いていたが、突然馴れ馴れしく腰に手を回され、亜樹はぎょっとしてその手を振りほどく。
「ちょ、なんやねんあんた! 触らんといて!!」
「え、いいやん別に。減るもんじゃなし」
「はぁ?」
路地でぴたりと立ち止まった亜樹を見て、圭人も一緒に立ち止まる。何故亜樹がそんな態度に出ているか分からないといったような、不思議そうな表情だ。
「え、どうしたん? なぁ、カラオケでも行こうや」
「は? 嫌やわ、うち、帰る」
「え? 何でやねん」
「何で急に馴れ馴れしくしてくんねん。キモいわ」
「まぁまぁカリカリすんなって。今日くらい付き合ってぇな」
圭人は急にぞんざいな口調になり、普段はさわやかな顔にいらだちをはっきりと見せた。亜樹は更にげんなりとして、くるりと踵を返して学校の方へと戻ろうとした。しかしそんな亜樹の腕を、ぐいと圭人が掴む。
「待てって。ええやん、カラオケでヤろうや」
「……はぁ?」
「イブやし、そんくらいええやろ? お前も一人じゃ寂しいんちゃうの。俺が慰めたんで」
かぁああ、と亜樹の顔が真っ赤になる。圭人はにやりと笑って、亜樹をぐいと引き寄せた。
「沖野にふられて、寂しいんやろ?」
「はぁ……!?」
「花火、一緒に行ったんやろ?そのわりになんも進展なさそうやん。それに、最近ずっとへこんでたみたいやし……ふられたんやろ?」
「な……な、なに……」
「ま、沖野やもんなぁ。学園のアイドルと天道じゃ、釣り合わへんて。……な、俺が付き合ったるから」
腹の底から怒りがこみ上げてくる。亜樹はぎゅっと拳を硬め、それを圭人にぶつけようとした。その瞬間、ぬっと黒い影が現れたかと思うと、どんっと圭人の身体がビルの壁に弾かれる。
「って……! 誰や……」
怒りのこもった目で相手を見返す圭人の顔が強張った。すぐそこに、本郷優征の大柄な身体があったからだ。
「本郷……」
戸惑いがちに自分を見上げる亜樹を見下ろし、すぐに優征は圭人に歩み寄る。そして、ぐいとその襟首を掴み上げた。
「お、誰かと思ったら、陸上部のエース、小泉くんや」
「ほ、本郷……何やねん」
「お前、俺がツバつけてた女に手ぇ出すとは、ええ度胸やな」
「えっ……いや、俺は……」
ゆうに二十センチは身長差のある優征にぐいぐいと揺さぶられ、圭人の顔がみるみる青くなっていった。優征はにやりと笑うと、ぱっと手を離した。圭人はその場に尻餅をついて、歪んだ顔で優征を見上げている。
「もうええやろ。はよ帰れや」
「……え? でも……俺……」
「お互い、進学のためにも問題は起したくないやろ。それとも、マラソン出られへん体になりたいんか」
「……!」
圭人は慌てて立ち上がり、じろりと亜樹を睨んでから走り去っていった。さすがに陸上部だ、見る間に豆粒のようになっていく。
「やれやれ、モテへん男がクリスマスにがっつくからこうなんねん」
「……あ、あんた、何してんの」
制服の下に黒いセーターを重ねただけの優征は、学校指定のダッフルコートに身を包んだ亜樹を見下ろして笑った。
「嫌がる女を無理やりカラオケに連れ込もうなんて、最低やな」
「あんたも前、おんなじようなことしようとしたやろ!」
「あれ、そうやっけ?」
優征はすっとぼけて、スラックスのポケットに手を突っ込んだ。亜樹は自分の身を守るように鞄を抱え、じっと威嚇するような目付きで優征を見あげている。
「そんな目で見るな。もうお前には何もせぇへんて。珠生のオトモダチやから」
「……沖野?」
「俺は最近珠生と仲良しやから、お前にも手出さへん」
「……あ、そう。ほんなら、ありがとう……」
思いの外素直に礼を言われ、優征はしばしきょとんとして亜樹を見下ろした。そして笑い出す。
「素直やな。イメージとえらい違うから、びっくりしたわ」
「五月蝿いな。あんたはこんなとこで何してんの」
「今日はクラスのやつらと遊ぶねん。俺は担任に呼び出されてて遅れたから、今向かってるとこ」
「ふうん。そうなんや」
「お前も来る? 珠生もおるで」
「行かへんわ……何で皆して珠生珠生って……」
「どうせそのうちくっつくんやろ?」
「くっつくわけないやろ!! アホか!!」
怒り出す亜樹を見て、優征はふっと笑うと、そのまま繁華街方面ヘ足を向けた。
「まぁええわ。ほんなな、良いクリスマスを」
優征は小走りに去って行った。とはいえ、ここ最近付きまとわれていた圭人のこともすっきりすることができたことについては、優征に感謝したいと思った。
それに、明日は珠生と会える。
亜樹も小走りに、駅の方へと足を向けた。
+
優征がクラスの男子たちが屯するボーリング場へ合流したときには、すでにワンゲームが終わろうとしていた。男ばかりがイブに十人も集まってボーリングをしているというのは、いささか色気のない話であるが、皆楽しげに盛り上がっている。
優征は珠生、斗真、直弥がいるシートに座ると、スコア表を見あげた。
「うわ、珠生すげぇな」
脈々とストライクを重ねている珠生のスコアを見上げて、優征はため息をついた。珠生はジャケットを脱いでシャツの袖をまくり、コーラを飲んでいた。スペアを取れなかった斗真が、悔しげに席に戻ってくる。
「遅かったやん」
「ああ、ちょっと道端でお姫様を助けてた」
「は? ナンパか?」
「ちゃうわ。天道が小泉にからまれてたんを助けてやったんや」
「え? 天道さんが?」
亜樹の名に、スコア表を見上げていた珠生は優征を見た。優征はにやりと笑い、「カラオケに連れ込まれていやらしいことされそうになってたみたいやで」と言った。
「えっ? 天道さんが?どこで!?」
「何慌ててんねん。だから俺が助けたって言ってるやろ、無事やから大丈夫や」
「あ、あぁ……うん、ありがとう」
「何故お前が礼を言う」
と、直弥がずずっと珠生の飲んでいたコーラをすする。
「え? あれ、なんでだろ」
「怖がってたみたいやし、今電話でもしてやれば?」
と、優征もジャケットとセーターを脱ぎながらそう言った。
「え、でも俺が電話とか変だし……。それに、どうせ明日会うし」
「ええっ? そうなん!? クリスマスやで!?」
斗真と直弥と、そして優征もが驚いた声を上げて珠生に詰め寄った。つるつるした椅子の上で思わず身を引いた珠生は、迫ってくる三人を見上げてぱちぱちと瞬きをした。
「……何でそんなにびっくりするの? 別に二人で会うわけじゃないよ」
「なんや……そうなんか」
と、斗真がほっとしたように椅子に腰掛けた。そんな斗真を見て、直弥がまた不審げな目付きになる。
「だから何でお前がほっとしてんねん」
「えっ!? だ、だ、だってさ、寂しいやん!! こいつばっか女の子に囲まれてさ!!」
「素直になれ、斗真」
と、優征が斗真の肩を叩く。
「ばっかやろう! 何がやねん! おい優征、はよ投げろや」
「へいへい」
「もうええやん珠生、天道と付き合えばええやん」
と、直弥が恨めしそうな顔で珠生を見ている。
「お前が落ち着けば、女子どもももっと落ち着くわ。お前がはっきりせぇへんから、女どもも無謀な希望を抱くねん」
「そうすりゃ俺らにもチャンスが巡ってくるかもしれへん」
と、球技大会以来仲良くなった、サッカー部の小嶋英司が頷きながらそう言った。
「ええ……? 無理だよ」
苦笑いの珠生を見て、直弥はぐりぐりと拳で珠生の脇腹を責め立てた。
「お前ばっかモテやがって! この野郎! 腹立つ!」
「あはっ、ちょ、くすぐったいって」
身をよじって笑っている珠生を見て、斗真がまたぼんやりと見とれている。そして優征も、斗真ほど呆けた表情ではないものの、珠生の可愛らしい笑顔に見惚れているようだ。
直哉と英司はバスケ部二人を見くらべて、やれやれと首を振った。
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