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六十四、素性
翌日、亜樹は宮尾邸で人を待っていた。
事後検分というものがあり、亜樹にも話を聞きたいという宮内庁職員からの申し出があったためである。
昨日のことは一切ニュースにもなっておらず、まるで何もなかったかのように一日が始まった。結界術を為すのに、体力と霊力を使った亜樹は、その日はなかなか起きることもままならず、青白い顔で客人を待っている。
夜になって葉山から聞いた情報によると、職員室で倒れていた教師たちはすぐさま病院に運ばれ、命に別条はないということであった。しかし、舜平が掘り返したグラウンド、捕まった男が爆発させたプール、そして珠生が妖を斬った時の衝撃波で割れた窓ガラス……被害は想像以上のものだった。
よって表向き、部活は全て大雪を理由に中止。各業者には、三ヶ日までには全てを復旧させるべしという行政命令を藤原が下しているらしい。そのため、明桜学園には土木作業員たちがせわしなく行き来しているとのことである。これは、深春が早朝に学校を覗きに行って仕入れてきた情報だ。
亜樹は着替えを済ませ、リビングの窓から外を眺めていた。すると、呼び鈴が鳴った。
複数の人間の気配に、亜樹は振り返った。そこには、黒いスーツを着た小柄な女と、すらりとした男が立っている。
「天道亜樹さんですね。私は宮内庁特別警護担当官の、更科 と申します。本日はお時間を取っていただき、ありがとうございます」
「あ、はい……」
「座りましょう。顔色が優れないようですね」
「あ、はい……」
更科は、先にソファに腰を落とした亜樹の斜向かいに座った。そして、更科の隣りに座った女性を紹介する。
「彼女は僕の同僚で、五條 といいます」
「はじめまして、五條菜実樹と申します」
柔らかい京都弁でそう名乗った五條は、亜樹を見てにっこりと微笑んだ。見るからに京都の似あう柔らかい容姿と物腰で、育ちのいい雰囲気を漂わせている。歳は更科よりもかなり下のようで、だいぶ若く見えた。
「昨日は大変でしたね、疲れは取れましたか?」
「はい……大丈夫です」
更科のねぎらいの言葉を適当にやり過ごしながら、亜樹は昨日のことを思い出していた。気になるのは他の面々のことばかりだ。自分の事情聴取よりも、こちらがそちらの様子を聞きたい気持ちでいっぱいだった。
更科がひと通り昨日の状況を説明している間、五條菜実樹は膝の上に乗せたノートパソコンで、亜樹の話をもれなく記録しているようだった。物凄い速度で動く五條の指に、思わず亜樹の話が止まってしまうほどであった。
逆に亜樹が現状の説明を求めると、更科はひとつ咳払いをしてから話をしてくれた。
捕まった男は、水無瀬菊江の実弟、水無瀬文哉 であるという。
年齢は三十四歳であるが、定職には就かず、結婚もしていない。文哉は高校を卒業後、ずっと石川県七尾市で一人暮らしをしていおり、ここ数ヶ月は水無瀬菊江もそこに身を寄せていたものと思われた。修行に戻ると言って紗夜香のもとを離れた後、弟のもとに身を隠していたのであろう。
文哉はバイクで逃走を図ったものの、珠生によってバイクを破壊され、大小合わせて二十箇所あまりを骨折するという重症を負っていた。が、すぐに職員による手当が施され、命に別条はない。藤原の命令により、両足の骨折だけは治療を遅らせ、逃げられないようにしているということであった。
珠生がどんな手を使ったかということは、菜実樹がその目で見ていたという。彼女は女だてらに大型バイクを運転することができ、昨日の追尾隊にも加わっていたのである。北側から回りこみ、道路を封鎖していた時に、珠生の超人的な行動を目にしたという。
うっとりとした目付きで珠生の勇姿を語る菜実樹を見ながら、亜樹はまたため息をついた。そして、そんな珠生の行動を目にできた菜実樹のことを心底羨ましく思った。
また、捕縛された水無瀬文哉はなかなか口を割ろうとせず、ついには藤原が動いたらしい。普段温厚な藤原が、一体どんな手を使って文哉から情報を抜き取ったのかは、更科も菜実樹も教えてはくれなかった。だが二人の強張った表情から察するに、かなり手荒な方法を藤原が使ったのであろうということは想像できた。
そこから得た情報によると、水無瀬菊江が珠生を脅しに来たあの日から、すでに文哉は学内に潜んでいたというのだ。水無瀬菊江の思念は潜伏場所から送られたものであり、幻術は遠隔地から発動されたというのである。つまり、弟を明桜学園に潜り込ませるための目くらましであったのだ。
そして、昨日の襲撃。
珠生を幻術で襲撃したあの日から、菊江は文哉に向けてずっと霊気を送り続けていた。そして準備が整った雪の日、生徒たちを襲撃する準備が整った。しかもその日は都合のいいことに、転生者のひとりである湊、そして巫女である亜樹が学内にいた。この好機を逃してなるものかと、水無瀬菊江は攻撃を決行したのだ。結界を裏返したのも、菊江の遠隔操作であるという。
いわば、文哉は受信機のようなものであるらしい。文哉自身は、大した霊気を持っていないのである。菊江に持たされた式に菊江の霊力を蓄え、術を発動するための下ごしらえをしていたのだ。
菊江は、遠隔操作能力に熟達した能力者であるということが分かった。しかも、自分の居場所を悟らせず、気を送るだけで何かしらの術を発動させることのできる能力。部下たちにそれを話す藤原の顔は、いつになく険しいものであったという。
それでも、受信機にかわる人物や呪具がなければ発動はできない。藤原は、引き続き捜索範囲を広げつつ、文哉からさらなる情報を抜き取ることを当面の目標とした。
「沖野や、柏木は? それに……舜兄も……」
「彼らは元気ですよ。しばらくは交代で見廻りにも参加されるそうで」
「そうなんや……」
ただでさえ冬休みで、珠生たちの顔を見ることができないというのに……。皆はそれに輪をかけて忙しくしているようだ。亜樹は少しばかり表情を曇らせる。
「……時に、その後夢見の方はいかがですか?」
と、菜実樹がパソコンから顔を上げてそう尋ねた。
「あぁ……あれからまだ何も、それらしい夢は見ていません」
「そうですか。それならば、ひとまず京都での脅威は払われたということになるのでしょうかね」
五條が更科を見ると、彼は重々しく首を傾げて言った。
「まだ油断はできないよ。水無瀬菊江が捕まっていないんだからな。次は一体どんな手を使ってくるやら」
「……そうですね」
亜樹はそう呟いて、窓の外を見上げた。
昨日とは打って変わってすっきりと晴れた青空だが、ちらちらとまた粉雪が舞っている。太陽の光できらめきながら落ちてくる粉雪は、こんな状況でもうっとりするほどに美しい。
――珠生に会いたい。
珠生の笑顔を思い出すたび、胸の奥がぎゅっと痛む。フルフェイスヘルメットから珠生の笑顔がこぼれた瞬間の、あの安堵感。涙を拭ってくれた指の感触。
――会いたいな……。
亜樹はいつになく素直にそう感じながら、自分の手を握りしめた。
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