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七十一、絶望的な不安
千珠が振り返ると、舜平を守るように立ちはだかった彰が、複雑な印を結んで立っていた。
胸を掻き毟りながら暴れ狂う水無瀬菊江の霊体に、今度は別の術がかかる。
「黒縛牢! 急急如律令!!」
じゃらじゃらと菊江の霊体に黒い鎖が巻き付いていく。ガシャン、ガシャン、と幾重にも南京錠が施されていくさまを、千珠はじっと見上げていた。
術をかけているのは、更科である。必死の形相で歯を食いしばり、水無瀬菊江を抑えているのだ。
「閃火暴砲 ! 急急如律令!!」
今度は敦の声がして、紅蓮の炎が水無瀬菊江の霊体を攻撃する。
断末魔の悲鳴とともに、水無瀬菊江の霊体が霧散して消えた。
どさ、と水無瀬紗夜香の肉体が崩れ落ち、陰陽師たちが術を解く。すると、再びその場に静寂が訪れた。
更科が、がっくりと膝をつく。
その物音にはっとした千珠は、舜平に駆け寄ってその身を抱き起こした。
「舜……! 舜海!」
舜平の顔からは血の気が引いて、今もどくどくと脇腹から夥しい量の血液が流れ続けていた。バタバタと外からも大勢の足音が響き、葉山が駆け寄ってきた。
「傷の手当をします!」
「……ああ、頼む……」
千珠は舜海を抱きかかえたまま、すぐにフルパワーで舜平の腹の傷の手当を始めた葉山の険しい横顔を見つめた。そして、ふと顔を上げ、彰を見上げる。
「……佐為」
「千珠、また会ったね」
微かに笑う彰の表情も、どことなく重く、冴えない。その背後に立った敦も、眉を寄せて苦い顔だ。
舜平の首筋にも、二つの裂傷ができている。大した出血ではないが、そこからも滲みだす舜平の血を、千珠はそっと指で押さえた。力なく脈打つ舜平の心臓の音と、薄く開かれたままの白い唇、そして硬く閉じられた瞼は、千珠の心臓をもぎゅっと締め付けるように、きつい痛みをもたらした。
舜平の身体からは、あの熱く力強い霊力の破片すら、感じ取ることができなかった。
全てを奪われたのだ。水無瀬菊江に。
「……あの女は……?」
千珠はのろのろと彰を見上げ、彰にそう尋ねた。彰は首をゆっくりと振る。
「今の攻撃で、彼女の霊体はかなりの損傷を受けている。再び動き出せるのは、かなり先だと思うが……本体をどうにかしないことには、終わったとは言えないな」
「……そうだな」
千珠は、手当を受けている水無瀬紗夜香の姿を見た。身体自体に目立った傷はないが、千珠に締め上げられた首は、赤く腫れ上がっていた。
――舜海に止められなければ、本当に殺していた……。
千珠は、苦々しい思いを噛み殺すように歯を食いしばると、目を伏せた。
「こいつは……どうなる」
「舜平は……この怪我だ。それに、霊気も奪われてしまった。しばらくは、前線から外す」
「……そうだな……」
「舜平はもうすぐ院試もあるしね。ま、ちょうどいいさ」
千珠をなだめるように、彰は敢えて軽い口調でそう言って、笑ってみせた。しかし千珠は笑うこともなく、ただぎゅっと舜平の身体を抱き締める。
「……」
「とりあえず、身体の傷を治すのが先だ。霊気の封印を解く方法については、僕らが調べるから」
「……ああ」
葉山はたらたらと汗を流しながら、じっと集中して舜平の脇腹を治療している。しかし、あまりに深く抉られている傷は、なかなか塞がってはくれない。そこへまた、数人の黒いスーツの男たちが現れ、葉山の肩を叩いた。
「替わろう。一人じゃ無理や」
「……ええ、そうね……」
「それに、場所を変えたほうがええ。応急処置だけして、病院へ搬送しよう」
「病院?」
と、千珠がその男を見ると、葉山よりも一回りほど年上に見える男が、はっと目を見はって千珠を見つめた。しかしすぐにごほんと咳払いをして、説明を始める。
「我々は、京都市内に霊的な医療行為を行える場所をいくつか確保しています。そこへ彼を運び、集中的に治療を施します」
「……そうか」
「ひょっとして……千珠、さまなのですか?」
「……それがどうした」
その男は、千珠の琥珀色の瞳をしげしげと見つめて、感嘆したように息をついた。
「……お会いできて、光栄です。この青年のことは、我々にお任せを」
「あぁ、頼む……」
担架を持って現れた男たちに、千珠は舜平の身体を渡す。舜平の身体から流れた血が、着衣をべっとりと赤く染めている。今しがたまで感じていた重みと体温を失って、千珠は心細げに運ばれていく舜平を見つめていた。
口元まですっぽり毛布で覆われて運ばれる舜平の姿が見えなくなると、千珠はふらりと立ち上がった。
「千珠。きみはどうもないのか?」
と、彰がその肩に手を置いた。
「あぁ、俺はな」
「……そう。でも……妖力を放出しすぎると、珠生の身体に傷がつくんじゃなかったっけ」
「……そうだな。道理であちこち痛いわけだ」
「そもそも、何で千珠の人格が外に……」
「知るかよ」
千珠は不機嫌にそう言って、痛ましい表情のまま彰を見つめた。
あまりにも不安げなその表情に、彰ははっとさせられた。
今までずっと、珠生も、千珠も、舜平の霊気によって抑えが効いていた。それがなくなった今、千珠自身もひどく不安を感じているのだろう。抑えるためだけではない。千珠にとっても、珠生にとっても、舜平の存在は何にも代えがたい精神的な支えだった。
そんな舜平が、今はいない。
「千珠……怖いんだね」
「怖いだと?」
「舜平がいなくて、不安なんだろ?」
「そんなこと……」
「僕らは全力を挙げて彼を治す。少しだけ、待っててくれ」
「……俺は、別に……」
体が熱い、そして重たい。急激に襲ってくる眠気と身体の鈍痛に、千珠はふらついて膝をついた。
咄嗟にそれを受け止めた彰は、千珠の耳元で、ゆっくりと語りかけた。
「……僕のでよければ、霊気を分けるよ。純粋な霊気ではないが、ないよりはマシだろう」
「……佐為が?」
「僕のも妖気が混じっているから、舜平のほど美味ではないかもしれないけど、我慢してくれる?」
「……」
舜平は嫌がるだろうな……と、ついつい考えてしまう。二人の絆の濃さを知っているだけに、珠生と気を交わすこと、彰も気がすすまない。しかし、珠生の肉体を放って置くわけにはいかないのだ。
「ああ……頼む」
彰の肩につかまって、千珠は苦しげにそう言った。ゆっくりと顔を上げ、千珠は重たく瞬きをしながら、掠れた声で呟く。
「……佐為、頼む」
「いくらでもどうぞ、僕ので良ければね」
千珠が彰に身を寄せる。彰は千珠の肩を抱き、目を閉じた。そして千珠は薄く唇を開き、彰のシャツの襟を掴む。
「もらうぞ、遠慮なく。口を開け」
「どうぞ」
千珠は彰の襟首を掴んだまま、自分から唇を重ねた。そして、すうっと彰の気を胸一杯に吸い込む。
弱り始めていた心拍が強まり、じりじりと内蔵を焼かれているかのような痛みが、少しずつ落ち着いていく。身体を燃やしつくさんとするかのような妖気の炎も、次第に落ち着いていくのが分かる。
舜平のそれとはまるで異なる感触、そして、まるで異なる力。妖気混じりであるが、彰の霊力は確実に傷ついた珠生の肉体を癒していく。
しかし、まるで足りない。舜平の霊力を与えられれば、細胞のひとつひとつまで気が潤い、気持ちまでもが柔らかく緩んでゆく。しかし彰の力では、何もかもが、足りない。
たっぷり二、三分は千珠に唇を塞がれていた彰は、両手を千珠の上腕にかけたまま、目を閉じていた。千珠は角度を変えて唇を塞ぎ、ゆっくりと呼吸をしている。
すっと唇が離れ、がっくりと力が抜けたように、千珠はその場に崩れ落ちた。慌てて彰が腕を強く掴むと、ぼんやりとした表情の千珠が、じっと彰を見上げている。
「……千珠、もう、いいのか」
「……先輩……」
「え、あ、君……珠生?」
「……はい」
「珠生……! 良かった」
彰はぎゅっと珠生を抱きしめる。
珠生は縋るように彰の背中に手を回し、苦しげに呟いた。
「……先輩……、舜平さんは……どうなっちゃうんだろう……」
「今は、なんとも言えない。とりあえず傷を治すのが先だから」
「……俺、何ができる?」
「君のおかげで、舜平は死ななかった。水無瀬菊江の霊体にもかなりのダメージを与えられた。それで、十分だよ」
「もっと……何かしなきゃ、何か……!! じゃなきゃ、舜平さんの霊力だって、戻らないんだろ……!?」
「今は何も考えるな。君も身体が傷んでいる。しっかり休まなきゃ駄目だ」
「先輩……どうしよう……俺、どうしたらいい……?」
「大丈夫、僕らがそばにいるから。舜平のことも、僕達に任せて」
「……うん……」
彰にすがりつきながら、珠生は目から涙を流した。震える珠生を抱きしめて宥めている彰の表情も、痛ましく、暗い。
敦は何も言えなかった。これ以上二人を見ているのも憚られ、目を逸らせて法堂の戸口の方へと視線をやった。
舜平の家族が起きだして、何事かと騒いでいる声が聞こえる。相田宗円に話をしなければと、敦はそちらへ歩を向けた。
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