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七十、舜平への攻撃
元日、早朝。
舜平は実家で家族とともに年を越していた。
久しぶりに兄弟揃ってテレビを見ながら、早貴がクリスマス後に彼氏と別れたのだという愚痴を夜中まで聞いていた。
妹の男関係の話など聞きたくもないが、兄二人は辛抱強く妹の話を聞いてやった。
午前二時頃に寝静まった相田家であるが、舜平は一人起きて大学院試験のために専門書を読んでいた。ここのところ、ずっと珠生のところで過ごしていたため、学業がおろそかになっていたのである。
午前六時頃まで集中して本を読み進めていた舜平であったが、ふと外の空気が吸いたくなった。
ダウンジャケットを部屋着の上に羽織り、階段を降りて家の外へ出た。
まだまだ空も暗いこの時間帯に、なんとなく法堂へ行ってみようと思い立った。年も明けたことだし、本尊に一礼しておこうと思ったのである。
ぎぃい、と重たい木の扉を開き、凍り付くように冷えきった法堂の中へと入る。電気は本尊の周りを照らすための明かりにしか通っていないため、舜平は靴下裸足で氷のような木の床の上を進んだ。
手探りで電気をつけると、恭しく祀られた木造の阿弥陀如来像が暗闇に浮かび上がる。
普段は宗円が座る大座布団の上に、舜平は胡座をかいて座り込んだ。じっと阿弥陀如来像を見上げていると、その暗闇の中で、神と対話しているような気持ちになってくる。
——願わくば、皆が傷つく事の無いように……。
舜平は合掌し、目を閉じた。本当に神の加護があるのならば、今ここで見せて欲しいと思った。
しかし……。
「……神に祈って、何か足しになりますか」
全てを塗りつぶすような暗闇の中から、女の声がした。舜平は咄嗟に印を結んで身構えると、じっと目を凝らして暗がりを見据える。
「誰や」
ひた、ひた……と足音がする。電球の明るさの及ぶ場所まで出てきたのは、制服姿の女子高生だった。
「お前……水無瀬、紗夜香……」
何度か面識のある水無瀬紗夜香が、見たこともないくらいに冷ややかな表情でそこに立っていた。
普段の紗夜香であれば、決して浮かべないであろう冷笑を唇に乗せて、まっすぐに舜平を見据えている。
「何で……」
「私は、水無瀬菊江と申します。娘の身体を、こうして借りて出て参りました」
「何やと……!?」
水無瀬紗夜香の身体から漏れだす冷たく不気味な霊気が、舜平の足元から身体を搦めとるように満ちていく。すっと肝が冷えるような感覚に、舜平は気を引き締めて印を結び直した。
「縛!」
じゃらじゃらと、金色の鎖がどこからともなく湧き出でて、紗夜香の身体に巻き付いた。がちゃん、と巨大な南京錠が、仕上げにその鎖に錠をかける。
身体を縛られても、紗夜香は動じる様子すらなく、尚も笑みを浮かべて立っていた。
「……お前は遠くから見てるだけか? 娘の身体なんか利用して、卑怯やとは思わへんのか!?」
「卑怯? くくくっ……あっはははっ!!」
紗夜香は……菊江は面白くて仕方がないといった様子で、大口を開けて笑った。馬鹿にされているということがありありと伝わってくることに、舜平はぐっと眉を寄せた。
「何がおもろいねん」
「いえ……さすがは舜海さま。今も昔も真っ直ぐなお人柄。皆に好かれるわけですわ」
「……前世のことを……」
「千珠さまについて調べれば、いやでもあなたはついてきますもの。そして、ここ数日……見させていただきました。あなたと千珠さまの関係と、そこで何が起こっているのかということ……」
「何やて」
菊江が低く笑うと、法堂の中の空気が震える。舜平は油断なく術を締めたまま、じっと菊江を睨んでいた。
「交わりによって、千珠さまの気をなだめることも高めることもできる術者……それがあなたなのですね」
「……」
「現世でも、あなたは千珠さまの精神的な支え……その強くて熱い霊気……それが千珠さまとあなたをつなぐもの」
「何が言いたい」
「あなたを消せば、あの方はきっと冷静ではいられないでしょうね。一体どんな暴れ方をするか……とても楽しみですわ」
「な……」
にぃ、と菊江は不気味に笑った。舜平の動揺を、心底楽しんでいるかのような表情だ。
「……お前、今自分がどんな状況か分かってんのか。動けへんねんで」
なぜだか足元から冷えてくるような嫌な予感を拭い去れないまま、舜平は強がってそう言った。
菊江の霊気は、自分のものと比べても大したことはないというのに、体中にまとわりつく正体の分からない不気味な不安が、舜平の背中に汗を伝わせた。
「お前には聞きたいことが山のようにあんねん。すぐに応援も来る。おとなしくしとけ」
「……そのように震えるお声でそう言われましても、何も怖くありませんよ」
「震えてなんか……」
「分かるでしょう? ……その不安。ただの気の迷いではありません。足元をご覧なさい」
「え……」
舜平は目を見開いた。さっきまで冷えた木の床を踏んでいたはずの舜平の足元は、黒黒とした蛇の群れで埋め尽くされている。
ぬらぬらと蠢き濡れたように光る蛇の身体が、するすると舜平の脚を這い始めた。
「うわ……っ! 何やこれ!」
本尊の安置してある舞台の上に飛び乗った拍子に印を解いてしまったため、金色の鎖の呪縛がじゃらじゃらと音を立てて菊江の身体から消えた。その途端、 五メートルほど離れていた菊江が、一気に舜平に詰め寄ってくる。
「祓い人の術、喰らうのは初めてでしょう?」
紗夜香の白い手が、微かに舜平の脇腹に触れる。咄嗟に身を翻して距離をとった舜平であったが、再び蛇の海の中に脚を取られ、思わず膝をついた。
菊江が素早く手を伸ばし、一言、こう言った。
「爆ぜよ」
瞬間、舜平の脇腹が血を吹いた。まるで、内側から何かが爆発したような感触だった。
「あぁああああああ!!」
あまりの痛みに傷を押さえ、たまらず蛇の中に手をつくと、掌からぬるりとしたおぞましい感触が襲う。舜平は全身が粟立つのを感じた。
「くっそ……!」
ぼたぼたと血が流れ落ち、その血を喰らうかのように蛇が舜平におぞおぞと寄り集まってくる。
舜平はどうすることもできず、脂汗の滲んだ顔で菊江を見あげた。菊江はうっとりとした表情で舜平を見下ろして微笑む。
「その苦痛の表情……なんと甘美なのでしょう」
「く……そ……ぉ!」
「次は頭を吹き飛ばしてあげましょう」
動けない舜平に、菊江の手が伸びる。そこから逃れるべく立ち上がろうとしたが、痛みで下半身は何も言うことを聞いてくれない。尻もちをついた舜平を、菊江は憐れむような目付きで見下ろした。
「……ふふ……もっとお強い方かと思っていましたのに。これでは物足りないですわ」
「ち、くしょう……!!」
「あの世で、どうぞ見ていてください。現世がぼろぼろに滅びてゆくさまを……」
菊江の指が、舜平の額に触れた瞬間、ぴた、と菊江は動きを止めた。
「あの世へ行くのは、お前だ」
怒りのこもった静かな声とともに、ごぉお……と青白い妖気が法堂中を舐めるように燃え上がった。
弾かれたように振り向いた菊江の目の前に、目を爛々と光らせた千珠が立っていた。
千珠の中から生まれる凄まじい怒りの気が風となり、短い髪が逆巻いて立ち上る。黒い蛇を一瞬で焼き尽くした青白い妖気を浴びて、菊江はばっと壁際まで後退した。
「……なんだ、この妖気は……」
菊江は憎々しげにそう呟いて、法堂全体を青く光らせる千珠の妖気を見回す。真っ暗闇だった法堂は、炎で全体を焼かれているかのように青く光りながら、じりじりと菊江を責め立てている。
「お前、水無瀬菊江といったか。俺のものに手を出すとは、いい度胸してるじゃないか」
ざ、と舜平を背に守るように菊江の前に立った千珠は、尚も怒りのこもった視線を向け、静かな声でそう言った。そして一歩一歩、千珠は壁を背にしている菊江に歩み寄ってゆく。
「……沖野珠生……じゃなさそうですわね」
「どちらでも同じ事だ。……お前はここで死ね」
琥珀色の瞳が、どろりと赤く染まる。すうっと縦に裂けた瞳孔に、菊江は足をすくませた。
——……一歩も動けない。なんだ、この凄まじい威圧感は。今まで測っていた沖野珠生の力とは格段に上だ。このままでは、本当に……。
「この身体は、娘の紗夜香のものですのよ。あなたにそんなことができるのですか……」
強張った顔に何とか笑みを貼り付けて、菊江はそう言った。しかし、千珠は小首をかしげたかと思うと、一瞬で間合いを詰めてその首を捕らえ、紗夜香の身体ごと菊江を壁に打ち付けた。
「かっ……は……っ!」
「俺には関係ない。都を脅かし、雷燕の封印を解こうとしている貴様を、ここで見逃してやる義理はない」
「あっ……ぐっう……!」
まるで骨ごとへし折られてしまいそうな痛みに、菊江は空気を求めたもがいた。
「千珠……やめ……やめろ……! その子は、……紗夜香ちゃんやで……お前かて……よう知ってるやろ……!」
「その小娘とこの国と、どちらが大切だ。寂しくないように、親子もろとも俺が殺してやるさ」
「お前……なんちゅうこと……!」
「こいつはお前を傷つけた。情けを掛ける必要がどこにある」
「俺は……俺は大丈夫や……! だから、殺したらあかん! あかん……やめろ、千珠」
「……」
千珠の怒りに染まった瞳に迷いが揺らぎ、指からやや力が抜ける。
その隙をつき、菊江はにたりと笑った。
ぬるりとした黒い大蛇が、菊江の口からどろどろと吐き出され、千珠は思わず手を離し、舜平の手前まで後退する。
粘液でてらてらと濡れた身体をくねらせる大蛇は、菊江を守るようにとぐろを巻くと、千珠に鋭く牙を剥いた。
大蛇に周囲を固められ、菊江は締め上げられた首を押さえてゆらりと立ち上がった。
「……お優しいこと……。それに、あなたの言葉、千珠さまには本当に効きますわね……」
「小癪な真似を……」
千珠はすうっと掌から宝刀を抜き、軽い足音で床を蹴ったかと思うと、菊江の大蛇の頭を一刀のもとに斬り捨てた。どしゃぁ……と湿った重たい音を立てて、蛇の頭がごろんと床に転がる。
しかしすぐさま、その切り口から無数の小さな蛇が千珠に襲いかかり、宝刀を握る右手にも絡みついた。
「くそっ、次から次へと……!」
忌々しげに奥歯を噛む千珠を見下すように、菊江は高笑いをした。
「ふふ……これならいかがですか!?」
菊江が再び舜平の方へ手を伸ばす。
その指先から白い蛇が、弾丸のように舜平に向かって跳んだ。
「く……そっ!」
その蛇は、舜平が片手で咄嗟に張った結界を突き破って、舜平の首筋に噛み付いた。
「う、あ……ああぁぁああ!!」
「舜!!」
白い蛇は舜平の霊力を吸って、みるみる肥え太り始めた。千珠がその蛇に向かって太刀を振りかざした途端、白蛇は煙とともに姿を消し、後には、首から夥しい血を流した舜平が倒れているのみであった。
「舜海……!」
「もらった……ふふふ……わたしのものだ……」
「貴様ァ……!! こいつに何をしたんだ!?」
千珠が再び妖気を爆発させると、菊江の身体は再び壁に激突し、苦痛に顔を歪めて崩れ落ちる。その手から、ころりと白い石がこぼれ落ちた。
「封じた……」
「何だって」
「舜海の霊気……全てここに封じてやった……。くくくくっ」
「貴様……本当に死ぬか……!!」
菊江は唇の片端を釣り上げて意地悪く笑うと、すぐさまその石を拾い上げ、拳の中に閉じ込めた。
次に手を開いたとき、そこにはもう、何も握られてはいなかった。
「……これであの男は使いものにならない……ふふ……ふふふっ……」
「貴様……!! その腹、掻っ捌いてやる!!!」
千珠がぎゅっと宝刀を握りしめた時、背後から涼しげな声が響いた。
「陰陽五行、幽体剥離! 急急如律令!!」
金色の光が、千珠の青白い妖気をも吹き消して法堂に満ちた。べりべりと無理矢理に霊体を剥がされていく水無瀬菊江の悲鳴が、法堂の中でおぞましく響き渡る。
「ぁ……あがぁあああ!!!」
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