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六十九、異変
「ちちうえぇ、起きてくださりませ」
ぺたぺたと頬を叩く小さな手に、千珠は夢の中から引っぱり出された。目を開くと、まるで自分をそのまま小さくしたかのような顔が間近にある。千珠は微笑んで、その頭を撫でた。
「珠緒。……俺は、寝てたのか」
むく、と身体を起こすと、そこは青葉の寺の法堂だった。縁側でうたた寝をしていたらしい。空は茜色に染まり、ひぐらしの声が聞こえてくる。なんとも気持ちのよい風が、千珠の銀髪をさらりと撫でた。
「舜海さまが、もう剣は疲れたと言うのです」
「あぁ、そうか。え、今までずっとやってたのか?」
「はい」
宇月が山吹の傷の手当に定期的に通うため、千珠も仕事のない日は青葉の寺へ来ることもあった。珠緒と、生まれたばかりの娘・美月を連れて。
珠緒は齢五つになり、すでに忍寮で修行を始めていた。生まれ持っての素晴らしい身体能力を活かし、珠緒はまるで遊びを楽しむかのように剣術や体術を会得しているのである。
そして何より、歳を足していくごとに千珠に似てくるその美しい容姿は、見るものの目を引いた。薄茶色のさらりとした髪を束ね、前髪を眉のあたりで切りそろえ、まるで女の童のように見える。少し釣り気味の大きな目は、千珠のものと同じ形をしている。
「千珠さま、ここにおいでで」
「ああ、寝てたみたいだ」
「平和でいいでござんすなぁ」
と、美月を抱いた宇月が、笑顔を浮かべて隣に座る。千珠は微笑んで、まだ赤子の美月を抱き取った。首も座り、表情が出てくるようになった美月を、千珠はいたく可愛がっていた。美月は宇月に似た、くるりとした丸い目をしており、髪も目も黒い。美月は千珠を見上げて、嬉しそうにあーあーと声を発して手を伸ばす。
「おお、よしよし」
でれでれと娘をあやす千珠を見て、宇月は笑った。
そんな様子を見て腹を立てたのか、珠緒はむっとした顔をして宇月の膝によじ登る。
「あらあら、忍寮に入ったお方が、母親に甘えるでござんすか?」
「今日はおやすみだもの」
と、珠緒はくりくりとした目で母にすがる。宇月は笑って珠緒の頭をなでると、きゅっとその身を抱き締めた。
「はいはい、そうでしたね」
「ああーうー」
美月は千珠の髪を握りしめて、きゃっきゃと笑う。なんとも愛らしい表情を浮かべる美月に、千珠はすっかり骨抜きであった。
「美月もしのびしうにはいるのですか?」
と、すっかり上手に喋れるようになった珠緒は、母親の膝に座ってそう尋ねた。
「どうするかなぁ? まぁ、どんな力があるかにもよるけどな」
と、千珠は珠緒を見てそう言った。
「お前は強いから、忍寮でも立派にやっていける」
「へへっ」
褒められて、珠緒は少し頬を染めた。宇月は、少しばかり浮かない表情を浮かべていた。それに気づいた千珠は、宇月の顔を覗き込む。
「どうした?」
「……いいえ」
「何だよ、気になるだろ」
「美月は……戦いの場には向かわせたくないのでござんすよ」
「そう、だなぁ……」
「これからこの世界はますます泰平となり、力以外の物が必要になってくるでしょう。変化していく世の中を、一人の女として強く生きていくには、どう育てていってやるのが良いかなと考えているのでござんす」
「なるほど……。しかし、えらく気が早いことだな」
「わが子を思えばこそでござんす」
「夜顔に弟子入りさせて、医術を学ばせるか」
と、千珠が久方ぶりに夜顔の名を出すと、珠緒の顔がぱっと輝いた。
「よる? 夜のところに行くの?」
「お前は青葉で修行だ」
「ねぇ父上、よるに会いに行こうよ。ぼく、よるに会いたい」
美月を抱えていた千珠の袖を、珠緒はぐいぐいと引っ張る。千珠は困り顔で、うーんと唸った。
「まぁ、そのうちな。俺も会いたいし。でも、美月がもっと大きくなってからな」
「じゃあ早く美月を大きくして下さりませ!」
「無茶言うな」
と、千珠は苦笑する。
「珠緒がやきもちを焼かず、美月をしっかりかわいがってあげれば、すぐに大きくなるでござんすよ」
と、宇月が言う。
「本当ですか? 分かりました!」
赤子返りでわがままばかり言うようになっていた珠緒は、急に姿勢を正して美月をあやし始めた。それに応じてきゃっきゃと楽しげに笑う美月に、珠緒も調子を上げている。
千珠と宇月は、目を見合わせて笑った。
とてもとても、幸せだった。
+
――宇月……。珠緒……美月……。
――俺の、家族……。
珠生は目を開いて、見慣れぬ天井を見あげた。カーテンの隙間からうっすらと入ってくる光の帯が、天井に細い筋を作っている。フワフワと漂う小さな埃が、まるで蜉蝣のように見えた。
ぼんやりとそんな光の粒を見上げていると、ぱたぱたとスリッパの音がして、誰かがリビングに入ってくる気配があった。
亜樹が、昨日皆が飲み食いしたカップや皿を片付けている。見るともなくそんな亜樹の行動を眺めていると、珠生の視線に気づいた亜樹がぎょっとして手を止める。
「お、起きてたん? びっくりした」
「……宇月……?」
かすれた声を出してぼんやりしている珠生に、亜樹は怪訝な表情で近づいた。ソファに膝をつくと、「え、何? リビング寒かった? 風邪でもひいたん?」と珠生の額に手を添える。
亜樹の手はひんやりとして、気持ちが良い。なんだかほっとして、珠生はまた目を閉じた。
無防備に目を閉じている珠生を前にして、亜樹の心臓はばくばくと大暴れだ。もう少し珠生に近づきたい……そんな想いに突き動かされ、珠生の傍に膝をついた時。
「おい、お前ら。そういうのは二人きりの時にやれ」
と。湊の冷静な声がして、亜樹は飛び上がった。振り返ると、湊がソファに腰掛けて頬杖をつき、じっと二人を眺めている。
「か、柏木……お前も起きてたんかい……!」
「まぁな。寝ぼけた珠生を襲うつもりかぁ?」
「ちゃ、ちゃ、ちゃうわボケェ!!!!」
「まったく……珠生もそろそろ起き、」
むくりと身を起こした珠生の顔を見て、湊は言葉を切った。
珠生の瞳が、明るい琥珀色に染まっている。
「お前、目……」
「柊……?」
「え?」
「ここは……現世か」
「え、せ、千珠さま……?」
亜樹は座り込んだまま、湊と珠生のやり取りを見上げていた。琥珀色の瞳には見覚えがある。霧島で鬼の本能に染まった珠生が、まるで千珠をその身に蘇らせたような瞬間があったからだ。あの時と同じ雰囲気を、珠生はその身に纏わせている。
「何で俺……またこんな……」
と、珠生は自分の手を見下ろして呟く。
「どんな感じや、身体は?」
と、湊が珠生の隣に座ってそう尋ねると、珠生は琥珀色の瞳を上げて、じっと湊を見た。
「霧島の時と同じ……妖気が、湧いてくるような……」
「何でや」
「知るか」
どことなく不機嫌な顔になる珠生のきっとした目付きに、湊は思わず少しばかり身を引いた。まるで本当に千珠が蘇ったかのような迫力だ。
「何で京都 でそんな事に……? すぐに藤原さんに連絡せな」
そんな事を言う亜樹を、じっと珠生は見上げている。亜樹はぎょっとして、後ずさった。
「お前は誰だ」
「えっ……な、何言うてんの、あんた……」
「変やな。霧島んときとは様子が違う。天道、お前、藤原さんに電話してきてくれ。俺は千珠さまと話すから」
亜樹を警戒して睨んでいる珠生と、珠生の状態に困惑している亜樹を分けるべく、亜樹に指示を出す。亜樹は小さく頷いて、リビングから出ていった。
湊は珠生をしげしげと見つめた。
「千珠さま」
「なんだ」
「珠生は?」
「知らん。というか、俺は珠生でもある。あいつの記憶も何もかも、知っている」
「でも千珠さまなんやろ?」
「そうだ」
「ほんまにややこしいな」
「お前まで」
と、千珠は湊をじろりと睨んだ。
「すいません、でもまたこうしてお会いできて、俺は嬉しいですよ」
湊が微笑むと、千珠はあぐらをかいて上目遣いに湊を見た。
「困ってるくせに」
「そら、少しは。でも、あなたが蘇るということは、きっと何か理由があるんやろう」
「俺は知らんぞ」
「ははっ、相変わらずですなぁ」
ぷいとそっぽを向いて拗ねたような顔をしている千珠が可愛らしく、湊は笑った。楽しげにしている湊を見て、千珠も少しばかり安心したように表情を緩める。
「都はすっかり荒れているな。どうしたというんだ」
「え? 荒れている?」
「ああ。十六夜結界では、この地に仇なす人間の力までは、抑えられないようだな」
「まぁ、十六夜は鬼門を開かへんようにするためのもんですからね……」
「それにしても……」
不意に、千珠の瞳から色が失われた。
まるで意識を失っているかのように、呆然とした表情に変化している。
「千珠さま?」
湊の問いかけに千珠は何も言わなかった。すうっと千珠を取り巻く妖気が冷えていく。
「千珠さま……どうし……」
湊が言葉をかけ終わる前に、千珠の姿は消えていた。
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