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七十三、信じがたい言葉

  「……俺はもう、お前とはおられへん」  水無瀬菊江の襲撃から三日後。  舜平の意識が戻ったと聞いて、珠生は急いで病院へと駆けつけた。病室には藤原と彰、そして敦もいて、肩で息をしながら現れた珠生を皆がどこか気遣わしげに見つめている。 「……舜平さん」  舜平ははっとしたように珠生を見て、そしてすぐに、痛ましげに目をそらした。  そして、そう言ったのだ。  一瞬、何を言われているのか分からなかった。珠生はベッドのそばに佇んだまま、腹を包帯でぐるぐる巻きにされ、病院着を羽織っている舜平を見ていた。 「……え?」 「……俺がお前にしてやれることは、もう、何もないしな」  舜平は眉根を寄せ、苦しげにそう言った。顔色は蒼白で、目の下には影がある。こんなにもやつれた舜平を見るのは初めてで、珠生の顔はこわばった。藤原は、ひとつ息を吐く。 「舜平くんの霊力は、やはり戻る気配を見せない。水無瀬菊江があのまま死亡していたならば、舜平くんの霊力が戻る可能性も考えられた。しかし、力は封じられたままだ。水無瀬菊江は、まだどこかで生存しているらしい」 「……そんな」 「……傷が治ったら、舜平くんにはしばらく、この件には関わらずにいてもらう。力を持たない彼を、またあの女が狙わないとも限らない。危険だからね」  藤原は静かな目で決定事項を伝えた。彰と敦も、顔を見合わせてから珠生を見た。 「そう、ですか……」 「別に君と会うなと言っているわけじゃないんだが……」 と、藤原が言いかけた時、舜平がまた口を開いた。 「いや……ほら、俺……もうすぐ試験もあるじゃないですか。それまで、ちょっと静かにしときたいんです」  舜平は取り繕うように笑顔を浮かべて、そう言った。 「あと二週間くらいしかないし、たまには勉強しなあかんから。俺にとっては、人生かかった大問題やし」 「もちろん、そうだね……」 と、藤原。 「だから珠生も……連絡、せんといてな」  そう言って目を上げて、自分を見つめた舜平の瞳に、珠生はひどくたじろいだ。舜平の眼は、今までに見たことがないくらい痛々しく弱い光しか宿してはいなかったからだ。  いつもそこにあったはずの黒く強い瞳はどこにもなかった。ただ憔悴し、混乱し、全ての煩わしさから離れてしまいたいと願うような、投げやりな色をしている。 「……いざとなったら、敦が霊力を補ってくれるてさ。不幸中の幸いやな」  舜平は敦を見て、少し顔を歪めた。 「お前かて、嬉しいやろ。俺のこと羨ましいって言ってたもんな。良かったやん」 「はぁ? お前、なんちゅうこと言うとんじゃ! 珠生くんの前で!」 「……だから!」  苛立った口調で声を荒げると、舜平は毛布を握りしめてうつむいた。 「なんかあったら、珠生を頼む。俺は……もう、珠生の力になれへん」 「そんなことないじゃろ! なにか手が見つかるかもしれんし、自然と戻る霊気だってきっとある!」  珍しく素直に舜平を励ます敦の言葉も、舜平はゆっくりと頭を振って拒絶する。彰と藤原は、顔を見合わせて表情を曇らせた。 「自分で分かんねん。もう、あの力は、戻らへんと思う。なんか……ほんまに文字通り気が抜けてしもた感じがして……全く力が入らへん」 「そりゃ、大怪我しとるから……」 「そんなんちゃうねん。俺には分かる」 「舜平! 何をそんな弱気になっとんじゃ! お前はそんな弱腰な男じゃなかろうが!!」 「黙れや!! お前に俺の何が分かんねん!」 「……ねぇ、何、言ってるんだよ」  敦と舜平のやり取りを今まで黙っていた珠生が、静かに声を上げた。ぎゅっと震える拳を握りしめ、珠生は顔を上げた。 「……何情けないこと言ってんだよ!!」  普段おとなしく穏やかな珠生の激高に、そこにいた全員がぎょっとした。しかし舜平だけは、そう言われることを覚悟していたかのような顔で、珠生をじっと見つめている。  つかつかと歩み寄り、珠生はぐいと両手で舜平の襟首を掴んだ。ぎらぎらと怒りの色を湛えて光る珠生の目を見て、舜平は小さく息を飲む。 「霊力が無いからなんだって言うんだよ!! そんなもんなくたって、舜平さんはは舜平さんだろ!! どうして、どうして俺を遠ざけようとするんだよ! 力がなくても、俺は、」 「この非常時に戦えもせず、お前の気を高めてやることもできひんのに、何で俺がお前のそばに居る必要があんねん。足手まといになるだけやろ」  舜平は襟首を掴んでいた珠生の手首を掴むと、そっとそれを外した。 「……痛いわ、阿呆」 「……っ」 「しばらく、一人にして欲しい。お前かて、何もできひん俺に構ってる余裕ないはずや。お前には、やらなあかんことが山のようにあんねんから」 「でも、でも、俺は……!」 「珠生」  不意に目を上げた舜平の目付きに、珠生はたじろいだ。諦観に満ち、冷えきった舜平の眼差しが、氷の矢のように珠生の心に突き刺さる。 「俺は、普通の人間になったってことやろ。……ええ機会や。もう何の役にも立たへんねやったら、俺は、ただの相田舜平としての人生を生きてみてもえてかなて、思ってんねん」 「え……? 舜平さん、何、言って……んだよ……」 「舜平……」 と、彰も困惑した表情を浮かべる。藤原は黙って、そんな流れを見つめている。 「……俺とのことも、なしにしようって、こと……? 全部なかったことにして、別の道を行くって……?」 「……俺は、」  なにか言いかけた舜平は、苦しげな表情で口をつぐんだ。舜平がなにか大事な言葉を飲み込んだようにも見え、珠生はまた表情を固くする。 「……もうええやろ……今は、そういう話やめてくれ。何も考えたくないねん。今の俺は、たぶん、お前を傷つけるような台詞を吐いてまう。……だから、もう帰れ」  舜平はふいと顔をそむけて、黙った。  珠生は尚も怒ったような、泣き出したいような微妙な表情を浮かべたまま、舜平の横顔を見ていた。ふるふると震える拳を握りしめ、珠生は目を閉じて一旦深呼吸すると、顔を上げた。 「……分かった、分かったよ。これからは普通の人生を生きて、幸せになればいいよ。忘却術でもかけてもらって、俺のことも……みんなのことも忘れて、平凡に生きていけばいい」 「……」  舜平は尚も珠生から目を背けたまま、黙り込んでいる。珠生はぎゅっと目を閉じた。ぐっと唇を噛み締めて、踵を返す。 「……お世話になりました。長い間」  音もなく、スライド式のドアを閉める。  珠生は病院の外へ出て、人気のない裏山の方へと足を向けた。  涙が溢れて止まらなかった。  後から後から流れる苦い涙に嗚咽が混じって、珠生は思わず口を押さえる。  完全に病院が見えなくなってから、珠生の全身から力が抜け、がくりとその場にうずくまってしまった。  この涙を拭ってくれるあの優しい指も、笑顔も、体温も、全てが遠ざかってしまった。  ぽっかりと虚ろな穴が、身体に空いてしまったようだった。 「……舜平さん……」  珠生は顔を覆って、しばらくその場でひとり泣き続けた。  重苦しい曇天の空から、湿った雪が落ちてくる。  泣き濡れた顔で空を見上げると、ちらちらと音もなく降る雪が、珠生の頬に落ちて消えていく。  

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