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七十四、深春と舜平
学校に着くと、A組の前で湊と亜樹、そして戸部百合子が廊下で立ち話しているところに出くわした。一番最初に珠生に気づいたのは百合子で、大きく手を振って珠生に笑いかける。
忘却術のおかげか、百合子はあの後、何の不調も起こしてはいない。珠生はさりげなく百合子の表情を窺いながら、三人の元に近づいた。
「おはよう、沖野くん」
「おはよう。何してんの。こんなとこで」
珠生がマフラーを外しながらそう尋ねると、まだコートを着たままの亜樹が振り返り、珠生の顔を見て少し頬を染める。
「ただの世間話や」
つんとした亜樹の言葉に、百合子が苦笑する。湊は眼鏡の奥から心配そうに珠生を見つめているだけで、何も言わなかった。
「ふうん」
「沖野くんってさ、甘いもの好き?」
と、百合子。
「え? ああ、うん……好きだよ」
「そうかぁ」
「なんで?」
「ううん、なんとなく聞いただけ。ほら、教室いこっか」
百合子は珠生を促して、亜樹と湊に手を振りながらE組へと向かった。
結局珠生に何も話しかけることのできなかった湊は、並んで廊下を歩いて行く百合子と珠生の背中を見つめながら、ため息をつく。
「どうしたん、柏木」
「……いや。珠生、元気ないな」
「せやなぁ。でも……舜兄も、霊力がないんやったら危ないし、仕方ないやん」
珠生と舜平の関係を深くは知らない亜樹は、至極もっともなことを言っている。湊は亜樹を見て、軽く頷いた。
「そらぁな。でも……あいつら仲よかったからな」
「そうやんな……。舜兄も、試験終わったらまた顔出してくれたらいいのに」
「こっちは忙しいやろうって、気ぃ遣ってんねやろ。お前、メールでもしたれよ」
「そうしよかな。てかあんたもしたらいいやん」
「いや何となくさ、なんて言葉かけていいかわかれへんから」
「……あんたにも分からんことがあるんやな」
亜樹は何の気なしにそう言って、教室へと入っていった。しかし湊は、その言葉が妙に引っかかった。
あの二人と一番長く居るのは自分だというのに、その二人に掛ける言葉が見つからない。
前世から今に至るまで、二人の関係のことはよく知っているつもりだった。なのに、何も言葉が見つからないのだ。
――いや、知っているからこそ……か。
湊はバタバタとギリギリに登校してきた生徒達にまぎれて、教室へと入る。
賑やかな日常はここにある。
しかし、今朝は過去の夢を見たせいもあって、柏木湊としての心はここにはないような感じがしていた。
美しい青葉の国の風景。
まだ年若かった千珠と舜海と柊が、いつでも行動を共にしていたあの頃のことを、思い出す。
千珠の笑顔が眩しかった。馬鹿なことをいう舜海を、からかうのが楽しかった。
でも今は、皆それぞれに暗い顔をしている。
普段感情の起伏のない自分ですら、水無瀬菊江に怒りや憎しみすら感じてしまうほどに寂しいことだ。
珠生は一体、何を考えているんだろう。
何を思いながら、このひと月を過ごしてきたのだろうか。
+ +
紺色のマフラーを巻いた織部深春は、今日も水無瀬紗夜香は欠席であるという話を通りがかりの女子生徒に聞いて、少し表情を曇らせる。
事の顛末は湊から聞いていた。
あの日、宮尾邸に泊まっていた珠生は消えてしまったが、湊と亜樹は待機を命じられていたため、じりじりしながら二人がリビングで過ごしていた。そんな事情も知らず、深春は呑気に大欠をしながら起きてきたのであった。
結局深春は何もできないまま、その事件は終わっていった。
水無瀬菊江に身体を貸した格好になった娘の紗夜香は、隔離状態だ。怪我をしているということもあり、彼女は即入院という運びになった。その怪我は千珠によってなされたものであると聞いた時、なんとも言えない苦い味が、口の中に広がったように感じた。
紗夜香がどういう経緯でその身体を貸したのか、あるいは乗っ取られたのかは分からないが、菊江の血縁者である以上、今後紗夜香の立場も悪くなることは十分予想できる。
それは深春にとっても、ひどく心を締め付けられるような事態だ。
紗夜香や瑛太、迅に対して芽生え始めた仲間意識と、珠生や亜樹たちに感じる家族の絆にも似た思い……深春はその板挟みに戸惑っていた。
この状況下に怒りを感じても、それをぶつける相手も見つからず、宙ぶらりんになった自分の感情を、どうすればいいというのだろう。
舜平が霊力を失ってからというもの、珠生はずっとふさぎ込んでいるし、それにつられてか湊も、亜樹も元気が無い。今まで、舜平のあの明るさにどれだけ皆が支えられていたか、今になってようやく分かる。
深春は教室へと歩を進めながら、ため息をついた。
「舜平に会いに行ってみようかな……」
深春はそう呟いて、マフラーの匂いを嗅ぐように、顔を埋めた。
+
思い立ったが吉日。深春は舜平に連絡をとって、会うことにした。
講義が終わったら京都駅まで出てくるという舜平に合わせて、深春もぶらぶらと地下街を見て回りながら時間を潰していた。待ち合わせ時間になり、指定されたコーヒーショップへ向かうと、店の前ですでに舜平が待っていた。
久しぶりに見る舜平の姿は、以前とまるで変わらない。深春は嬉しくなって、小走りに舜平に近づいた。
「舜平! 久しぶり!」
「おお、深春。元気そうやん。また背ぇ伸びたんちゃうか?」
「へへ、分かる? もうモテモテで困ってんだよ」
「ははっ、羨ましい話やな。コーヒー、もう買ってん。大階段行こか。お前は寒いの平気やろ」
「ああ、そうだな。あんま大声で出来る話じゃねぇし」
時期はすでに一月末だ。極寒の京都で、屋外の大階段に座ってお茶を飲もうという者はほとんどいない。
最上階から急斜面に降りていく階段を見下ろしながら、湯気の出るコーヒーと、舜平が気を利かせて買っておいてくれたサンドイッチを頬張った。
「元気そうじゃん」
「まぁな。怪我は大方治ったから、今は週一で葉山さんの手当を受けてんねん」
「そうなんだ。じゃ、色々状況は知ってるってことか」
「いや……あんまり聞かへんようにしてるし。向こうもあんまり言ってこーへん」
「……そうなのか?」
「前線から離れるってことは、そういうことやねん。知りすぎてもあかんからって」
「ふうん……。じゃあ俺も、あんまり色々しゃべんないほうがいいの?」
「それはお前の自由やから、任せる」
そう言って、舜平は微笑んだ。
「そっか。……とは言っても、俺も詳しく聞かされてねーんだ。今日は舜平がどうしてんのか、ただ気になっただけだしさ」
「なんや、心配してくれてんのか」
舜平は笑って、わしわしと深春の頭をなでる。くすぐったい思いを感じながら、深春はぷいとそっぽを向いた。
「ええ色のマフラー巻いてるやん、似合ってんな」
「ああ、これは珠生くんと亜樹ちゃんが……」
珠生の名を出した途端、舜平の表情が固くなる。その反応に、深春ははたと黙った。
ゆっくりと表情をほどき、淋しげな笑を浮かべた舜平に、深春はわけも分からずどきりとした。
「珠生……元気してんのか?」
「いや……。亜樹ちゃんが言うには、全然元気ないって。俺は会ってねぇから分かんねぇ」
「そっか……」
舜平はうつむいて、コーヒーを一口飲んだ。
二人の間に何かしら深い関わりがあることは察しているが、ここまで淋しげな顔をされると、二人が一体どういう仲なのかということを知りたくもなってしまう。しかしそんなことを言い出せる雰囲気でもなく、深春はごくりとコーヒーを飲んだ。
「珠生くんには……会わねぇのか?」
「……せやなぁ。会った所で、どうというもんでもないし」
「でも……顔だけでも見せてやれば、ちょっとは元気になるかもだぜ」
「そんなことないやろ。あいつは俺を見れば動揺する」
「そ、そんなことねーだろ! だって、お前ら二人、やっぱ何かあるんだろ? 前世からの付き合いなんだろ!? 動揺なんて、」
「いいねん、これで」
全くそれでよさそうではない舜平のすっきりしない表情には、様々な感情が見て取れた。
不安、焦燥、悲哀、苦痛、寂寥……。そういった重たい感情全てを、今の舜平は抱え込んでいるように見える。そんな彼に、深春はなんと声をかけていいか見当もつかなかった。
ただ舜平の隣に座り、コーヒーを飲むことしかできない。いつも舜平が自分にしてくれるように、気の利いたことを言って笑わすこともできない。前線から引いている彼に、相談事をすることもできない。
「……」
「何を気遣ってんねん。そんな顔すんな」
逆に気を遣われて、深春は情けない顔で舜平を見た。舜平はいつもの様に笑って、コーヒーを飲み干す。
「ごめんな、こんなことになって。まぁ落ち着いたら、またみんなとも会えるようになると思うから」
「……ほんとか?」
「あぁ……多分、な。今はまだ、気持ちの整理がつかへんだけや。だから、そんな心配そうな顔すんな。お前は珠生や亜樹ちゃんの心配だけしてればいいねん」
「……」
「優しいな、深春は」
優しいなんて、言われたのは初めてだった。
そんな風に自分を認めてくれる相手に、自分は何を返せばいいのだろうか。
何も言えないまま、深春は少しばかり潤んでくる目元をぐいと拭った。
そんな深春を見て、舜平はまた少し笑った。
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