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七十五、優征からの示唆
とある日。
珠生が学校を休んだため、連絡事項や配布物を届けるべく、本郷優征は一人で珠生の自宅へと訪れていた。
斗真も同行したがっていたが、あいにく卒業のかかった補習が入っていたため、泣く泣くついてくるのは諦めていた。実は内心、優征も斗真と一緒に行けた方が気が楽だったのであるが、そういう事情では仕方がない。
正直、緊張するのだ。
別に珠生の力が怖いとか、そういうわけではないのだが、優征はいつになくそわそわしていた。ばくばくと軽く暴れる心臓を抱えつつ、優征は珠生のマンションのエントランスまでやって来た。そして、インターホンを押す。
『……優征?』
「お、おう。色々渡すもんあったから、持って来てやったで」
『あ……ありがとう。あがって』
どことなく眠たげな珠生の声を聞いた途端、どくんとひときわ大きく心臓が跳ねた。
しかし、ここまで来て引き返すわけにはいかない。優征は左右に開いた扉の中へと、足を踏み入れる。
玄関が開き、私服で現れた珠生は、とても疲れた顔をしていた。やつれた、と言った方が正しいのかもしれない。白い肌は青白く、目つきには覇気がない。髪は乱れ、唇も少しかさついていて、その表情はどこか心ここに在らずといった様子だった。
「お、お前。どうしたんやその顔。体調悪いんか!?」
「へ……ぁあ、えと、今まで寝てて……」
「今何時やと思ってんねん! 親父さんは?」
「一昨日から、学会で北海道なんだ。明後日、帰ってくるんだけど……」
「ったく。飯は? 食ったか?」
「ううん……」
「おいおい、どないしてん。とりあえず上がるで」
「あ、うん……」
以前珠生の家に上がらせてもらった時とは比べ物にならないほど、部屋の中は散らかっていた。優征はぐるりとリビングやキッチンを見回して、とりあえず冷蔵庫の中をチェックしたりしてみた。
「……なんもないやん。俺、なんか買って来るわ。ただでさえガリガリやねんで? それ以上痩せてどうすんねん」
「ガリガリ……? え。なにそれ、俺のこと?」
「そうやで。お前、鏡で自分の顔見てみろや。もっと食わなあかんで!」
「……食欲、ないし」
「そんなん、あかん。ちょっと待っとけ」
優征はコンビニまでひとっ走りすると、食パンやレトルトパウチの総菜、スポーツドリンクや甘い菓子などをカゴいっぱいに購入して珠生の家に戻った。
優征が戻る頃には、珠生は顔を洗って着替えを済ませており、最初に見たときよりは張りのある表情になっていた。部屋の中も幾分片付いていて、キッチンでは湯が沸いている。
「あ、ありがと、こんなにたくさん……。あの、お金、」
「いい、いらん。……こないだ助けてもらった礼や」
「あ……」
ビニール袋の中を覗き込んでいた珠生が顔を上げたため、間近でばっちりと目が合ってしまった。ドクン、と大仰に心臓が跳ね上がり、優征は慌てて珠生から目をそらす。
――いやいやいや、何照れてんねん俺……。
「優征も食べていかない? ……一人で食べるのも、つまんないし……」
「お、おお。せやな。ええで」
「ありがとう」
弱々しい笑顔を浮かべ、珠生はどこかホッとしたようにそう言った。そして、キッチンの方へと踵を返す。
背を向けた珠生を見て、どきりとした。
あの日、学校で不気味な妖から助けてくれたときの珠生とは別人のように、儚い背中をしている。庇護を求めるかのように頼りなく、ぬくもりを求めているように見えた。
優征は思わず、珠生を背中から抱きすくめていた。
あれだけの強さを持っているくせに、吹けば飛ぶような弱々しさをまとっている珠生を、放ってはおけなかった。腕の中にすっぽりと収まってしまう華奢な身体を抱きしめて、ぐっと腕に力を込める。
「ゆ……優征……?」
「何か、あったんやろ」
「……」
「俺に言えるような内容じゃないかもしれんけど……。もし、話して楽になるようなことなら、何でも聞く」
「……優征」
「俺はお前の味方や。守ってもらった恩もある。俺にできることがあるなら、何でもしたいねん」
「……」
珠生の手から、どさりとコンビニの袋が落ちた。か細い指が、優征の腕にそっと触れた。制服のワイシャツ越しでもわかる。珠生の指は、小さく震えていた。
「俺……、」
珠生がくるりと向き直り、ぎゅっと優征にしがみついてきた。
ここ最近、ずっとひどく元気が無いのは分かっていたが、その理由を聞いてはいけないような気がしていた。でも、もっと早くに理由を問うておけばよかったと、今更ながらに後悔する。
「っ……う……っ」
「……珠生」
優征のシャツにすがり、珠生は小さく嗚咽を漏らし始めた。熱を持ち、小刻みに震える珠生の身体を、優征はただただ強く抱きしめた。
すがってもらえることを、嬉しいと感じた。ほんの少しでもいい、珠生の力になりたかった。頼って欲しいと思っていた。
こうして抱きしめていることが、どれだけ珠生の救いになるのは分からない。でも、珠生がそう望むのならば、いくらでも抱いていてやりたい……優征は珠生の髪の毛に頬を寄せ、声を殺して涙を流す珠生をずっと抱いていた。
しばらく無言でそうしていると、珠生はぐずっと鼻をすすり、優征の身体から少し身を離した。そして、バツが悪そうに目を伏せたまま、ぐいと拳で涙を拭う。
「ごめん……急に」
「いや……」
珠生はコンビニの袋を拾い上げると、それをキッチンカウンターに置いた。そして力無いため息をつき、ぽつりとこんなことを言う。
「何て説明したらいいか……。仲間が一人、前線から離れなきゃいけなくなって……」
「それって、あいつのことか。お前といっつも一緒におる、あの大学生」
「えっ……何で分かったの?」
「いや、何となく……。けどあいつ、むっちゃ強かったやん。何で?」
「あの人が一人の時に攻撃されて、大怪我をしたんだ。……それで、霊力まで、全部奪われて……」
「霊力? あの、目に見えへん力のことか?」
「うん……。やつら、俺を狙わず、俺の大事なものばかりを攻撃する。……俺が憎いなら、俺を攻撃すればいいのに、俺の、せいで……」
珠生は再び、息を詰まらせて目を瞑った。固く閉じられた瞼から滲み出す大粒の涙が、白い頬を伝ってフローリングの床に落ちる。長いまつ毛を濡れそぼらせて、珠生は悔しげに唇を噛んでいる。
「俺のせいだ。俺のせいなのに……っ、何であんなこと、言っちゃったんだろう。俺はずっと、あの人に守られて、支えられてきたのに、どうして俺、舜平さんのことを突き放すようなこと……っ!!」
「……珠生」
「馬鹿だ、俺。本当に……!! 弱くて、幼稚で、自分のことしか考えられない、大馬鹿だ……!!」
「珠生、落ち着け。……そんなふうに思ってるんやったら、謝りに行ったらいいやん。そうすれば、」
「会えないよ……! もう俺とのことも終わりにしたいって、言ったんだ。……けど、俺は……会いたくて会いたくて死にそうなのに、あの人と離れて生きていけるわけないって、分かってんのに、どうして……」
泣きながら自分を責める珠生を見ているのがつらくなり、優征はもう一度珠生を強く抱きしめた。珠生の熱い涙が、優征のワイシャツを濡らす。
あの穏やかな珠生が、こんなにも取り乱している。
それはつまり、あの男への珠生の想いの強さの表れだ。珠生の気持ちを知ってしまった瞬間、優征の胸は小さく痛んだ。
でも、自分は蚊帳の外だとしても構わない。それが当然なのだから……と、思っている。でも、珠生の口からあの男のことが語られると、少なからず苦い想いに囚われてしまう。そういう自分の感情の動きに戸惑いを感じながらも、今は珠生を抱きしめていたい。壊れそうな珠生を守ってやりたかった。
「珠生。……あのさ」
「……」
「あの、舜平とかいう人は……。こうなったこと、お前のせいとか、思ってへんと思う」
「……でも、」
「力、なくなってしもたこと、まだ受け入れられへんねやろ、多分。あんだけの力やし……それに、その力で、ずっとずっとお前のこと守ってきたっていうんやったら……そんなん、情けなくて、つらくて、お前の顔なんか、まっすぐ見てられへんのとちゃうかな」
「……」
珠生が、ゆっくりと顔を上げた。泣き濡れたひどい顔だが、目を赤く腫らしていても、鼻先を真っ赤に染めていても、それでも珠生の美しさが霞むことはなく、儚げな愛らしさが増す一方だ。優征は珠生の肩に手を置いて、親指で珠生の頬をぐいっと拭った。
「俺は、あんな力持ってへんからよく分かれへんけど……。でも、ずっと当たり前にあったもんが、急に奪われてしもたら……そら、しんどいて。しかも敵に盗られたんやろ? 不甲斐ないやろうし、いくら大人でもパニクるやろうし」
「……うん……」
「失くしたもんが大きければ大きいほど、喪失感……っていうかな、そういうの、めっちゃつらいと思う。すぐには、受け入れられへんと思う」
「……」
珠生はじっと優征を見上げて、しばらくの間黙っていた。余計なことを言ってしまっただろうかと、ひやひやしたが、珠生はふと我に返ったように目を瞬き、「……うん……」と小さく頷いた。
「……そう、だよね……。俺、全然冷静になれなくて、そういうこと、考えられなかった」
「……そらまぁ、そうやろうな」
「舜平さんは、強い人だから。何が起こっても揺らがないって勝手に思い込んでて……あの人のつらい気持ちを、ちゃんと読み取ってあげられなかった。……本当に、馬鹿だ。……ずっと一緒にいたのに、俺は、あの人の何を見てたんだろう」
「……」
ゆっくりとした動きで瞬きをしながら、珠生は窓の外を見やった。
空は澄み、美しい夕空へのグラデーションを描いている。きっと、明日も晴れるのだろう。しんとした清浄な空と、葉を落とした木々を揺らす木枯らしが、孤独と寂寞のあまり痺れていた思考を凪いでいくようだった。
――舜平さん……。
「……優征、ありがとう」
「え、あぁ……」
「俺、なんだか、目が覚めたような気がする」
「そうか……」
――舜平さん、どうしてるんだろう。何を思って、今、この空の下にいるんだろう。
珠生は、気を緩めれば流れてしまいそうな涙を、ぐっと堪えた。
あの人に甘えるばかりじゃ、だめなんだ。自分で、妖気をコントロールするんだ。舜平さんがいなくても、自分で何とか出来るだけの力を、身につけなきゃいけない。
――そうすればまた、一緒にいられるようになるかもしれない……。
珠生は優征を見上げて、柔らかな微笑みを見せた。珠生のそんな表情を見て、優征の頬が薄く染まった。
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