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七十六、チョコレート

 二月十四日は、月曜日である。  言わずと知れたイベント、バレンタインデーその日は、女子高校生たちにとっても男子高校生たちにとっても、浮き足立ってしまう一日だ。  天道亜樹はというと、今までそんなイベントに関心を持ったこともなかった。そのため、滝田みすずから『一緒にチョコレートを作ろう』と誘われた意味が、最初はまるで分からなかった。  女性から男性へ、愛の告白とともにチョコレートを送るという儀式。  真っ先に浮かんだ珠生の顔に、亜樹は頬を染めるのであった。  その日は深春も家にいて、亜樹の友人二人に愛想を振りまいていた。基本的に女性に対してはかなり社交的な深春に、みすずも百合子も楽しげに笑っていた。  本格的にお菓子作りに入ると、すかさずみすずが亜樹に詰め寄る。 「あんな可愛い従兄弟がおったなんて、聞いてへんで!」 「ほんま、男前やなぁ。愛想もいいし、可愛い」 と、百合子も絶賛である。亜樹はぎこちなく笑うと、「あぁ……まぁね」と曖昧に応じる。 「いいなぁ、毎日あんな子が家に居るなんて」 と、弟が居る割に会話がないというみすずが羨ましそうにそう言った。 「ほんまやわぁ。うちは一人っ子やし、羨ましい」 と、さっそく板チョコを刻みはじめた百合子もそう言った。 「あぁ……でも普段はあんなに愛想良くないし。女の子が二人も来てテンション上がってねん」  亜樹もチョコレートを刻みながら、そう言った。柚子に料理の手ほどきを受けているので、亜樹の手つきはしっかりとしている。一番慣れていないのはみすずで、包丁の握り方すら危ういため、柚子が側で指導していた。 「でもこんなに女の子がおると、華やかでええなぁ。ふたりとも、また遊びに来てねぇ」 と、柚子までも上機嫌である。 「はい、もうぜひ。ええなぁ、こんな優しい叔母ちゃんが保護者なんて。うちのおかんなんか、ガミガミうるさいばっかりでさ」 と、みすず。  みすずの両親は教師であり、家にいても学校みたいだと常々文句を言っているのだ。 「うちは運が良かっただけや」  亜樹が刻んだチョコレートをボウルに移しながら笑うと、百合子は微笑んでこう言った。 「でも亜樹、よく笑うようになったなぁ。中学んときとは別人やで」 「ほんまほんま、やっぱり環境って大事やな」 と、みすず。 「こんなええお友達ができたからやんなぁ。私も嬉しいよ」 と、柚子もにこにこしている。  ふたりとも、今まで亜樹が錦織家で過ごしていたことは知っている。そして、宮尾邸に移った理由については、『痩せぎすの亜樹を見かねたこの遠縁の柚子が、名乗り出て引き取ってくれることになった』と説明しているのである。そして深春については、父親が病気であるため暮らす場所に困っていた従兄弟が、一緒に暮らすことになったのだと説明していた。 「あとは恋の力かな」  みすずがようやくチョコレートを刻み終え、包丁についたチョコレートを名残惜しそうに眺めながら、そう言った。 「せやな、恋の力や」 と、百合子もにやりとする。 「ちょっとやめてや、柚子さんの前で……」 と、渋い顔をする亜樹を見て、柚子はふくふくと笑った。 「ええよもう、何となく分かってたし」 「ええっ! 嘘やん!」 と、亜樹が仰天しているのを見て、みすずたちは笑った。 「亜樹分かりやすいもん。そら分かるって」 「……ええー」 「それにそれ、沖野くんのために作ってんねやろ?」 と、百合子。 「沖野のためだけじゃないし! あげるなら何人か……」  ふと舜平の顔が浮かび、亜樹は言葉を切った。もう二ヶ月近く舜平の顔を見ていないし、湊も珠生も元気が無い。深春は舜平に会ったと言っていたが、舜平もやはり元気がなく、なんと声をかけていいか分からなかったと言っていたものだ。  チョコレートを渡すのを口実に、舜平に連絡を取ろうと思い立った亜樹は、少しやる気を増加させてお菓子作りに取り組み始めた。 「あれ、みすずは誰にあげんの?」 と、百合子。 「えっとね、本命は……吉良くん」 「ええーっ!? そうやったん!?」 と、亜樹と百合子は同時に声を上げた。みすずは顔を赤くして、うつむく。 「一年の時、しゃべるようになってから、ちょこちょこ学校で会えば喋ってて……」 「そうなんやぁ。吉良くん、ええやつやもんな」 と、亜樹が同意すると、みすずは嬉しそうに笑った。 「そうやねん、気持ちいい奴やねん」 「うまくいくといいなぁ」 と、百合子が微笑む。みすずは髪をシュシュでポニーテールにしている百合子を見ると、「あんたは柏木と順調やな」と言った。 「うん、まぁね。でも最近……何か元気ない気がする」  亜樹はぴく、とチョコレートを湯煎する手を止めた。百合子は心底心配そうな顔をしている。 「あいつに元気ないとかあるとか、そんな変化あるん?」 と、常にポーカーフェイスの柏木湊の表情の変化を読み取れないみすずは、首をひねった。 「分かりにくいけど、あんねんな、これが。たまにぼーっとしてるし、突然時代劇みたいな口調になったりするし、こそこそ電話したり……」 「謎やな」 と、亜樹は一応口を挟む。 「浮気はしてないと思うけど……」 と、百合子はほうとため息をついた。 「柏木が浮気? ないない、ありえへん」 と、亜樹はゴムベラを振り回してそう言う。 「そうやんな」 と、百合子はホッとしたように笑う。 「まぁ放っといたらいいんちゃう? 柏木のくせに、百合子に心配かけるとかありえへんな」 亜樹は暗くなりがちな百合子を励まそうと、明るい声でそう言った。みすずも笑って「ほんまや、柏木のくせに」と同調する。 「もー『くせに』、とか言わんといてよ」 と言いつつ、百合子の顔にも笑顔が戻った。  生クリームの分量を計りながら、今度はみずずは亜樹に矛先を向けた。 「しかしさ、沖野くん、どえらい量のチョコレートもらうやろうな」 「ほんまや。ライバル多いで。去年もすごかったしなぁ」 と、百合子は昨年、担任の若松から紙袋を与えられるほどにチョコレートをもらっていた珠生の姿を思い出しながらそう言った。 「うちは、別に……。まだあいつにあげると決まったわけちゃうし」 「またまたぁ。クリスマスもデートしてたくせに」 と、百合子が亜樹の腰をつんつん突つく。 「デートちゃうし」 「沖野くんもなんか最近暗いしさ、亜樹からチョコもらったら喜ぶんちゃう?」 と、百合子は溶けたチョコレートに生クリームを混ぜ込みながらそう言った。 「目に見えて暗いねん、最近」  百合子は珠生と同じクラスだ。亜樹はここのところ、珠生の姿をちらりとも見ていなかったが、百合子は毎日見ているのである。 「そんなに?」 「うん。せやし、後輩の女子どもは少し距離をとってる感じがあるから、チャンスやで!」 「何のチャンスや」 と、亜樹も生クリームを混ぜ込みながら淡々とそう言った。 「なんかあったんかなぁ、沖野くん」 と、みずずは吉良佳史そっちのけで珠生の心配をし始めた。 「……あいつんちも家庭が複雑やし、何か色々あるんちゃう?」 と、亜樹は努めて自然な口調でそう言った。 「あ、そっか」  家庭の事情と言われると、みすずも百合子も黙る他ない。しばらくくるくるとボウルを混ぜながら、三人は黙っていた。 「沖野くん、最近本郷と仲いいねん。空井と梅田は相変わらず、沖野くんにべったりやけど」 と、百合子。 「あんなに仲悪かったのにね」 と、みすず。 「へぇ、そうなんや」  亜樹はまたどぎまぎしながらそう言った。  あの学校での事件以来、本郷優征と空井斗真の記憶は消されていないままだ。珠生や自分たちのことを知っても態度を変えないでいる二人に、亜樹は少なからず感謝の気持ちを抱いていた。舜平のことで落ち込んでいる珠生のそばに、複雑な事情を知っている友人がいるというのは、心強く思えた。 「本郷も最近女の子はべらさへんくなったな。なんか落ち着いたというか」 と、みすず。 「そうやなぁ。なんか最近、まともになったな」 と、百合子。酷い言われようである。  そういえば、クリスマス・イブの終業式のあの日。本郷優征には助けてもらったっけ……と亜樹は想い出した。  このチョコレートの破片くらいは、あいつにやってもいいかなと、亜樹は思った。  

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