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七十七、バレンタインデーは受難の日

 月曜日。  昨晩も遅くまで修行をしていた珠生は、重たい身体を引きずって学校へ向かっていた。  あの日、優征に諭されてから、ようやく修行に集中できるようになってきたのである。  戦闘場面を頭に思い描き、妖気を解放すると、千珠の人格が強く表に出てくる。そういう体験というのは、珠生にとっても心地良いものなのだ。まるで、麻薬のように。  何でも出来る、どこまででも跳べる、自分は強い……という全能感に浸る感覚は、一度覚えてしまうとたちが悪い。  しかし妖気を解放し続けてしまうと、その後にやってくる身体を焼かれるような痛みや、覚めやらぬ異常な攻撃性に苦しめられる。もっと血を見たい、この手で妖を斬りたいと願う鬼の本能が、人間の心を持つ珠生を苦しめるのだ。  だからこそ、人としての精神力を高めねばならないのだが、その修業はなかなかに難しいものだった。力の置所がつかめず苦労する珠生に、相田将太とその師・比叡山延暦寺僧都の淡州(たんしゅう)からの指導にも力が入る。  将太を見ていると、どうしても舜平のことを思い出す。  舜平よりもずっと線は細いものの、二人の顔立ちはやはり似ている。舜平のことを思い出すたび、修行に励まなければという気持ちが逸るのだ。  将太はいつでも、穏やかで優しい。舜平との関係についてどこまで知っているのかは分からないが、将太は舜平の話をすることもなく、珠生の学校の話や部活動の話などを聞きたがった。そうしてこの一件から離れた内容を話していると、幾分か気分が軽くなるような気がした。  将太の支えもあり、珠生の修行は比較的順調に進んでいる。しかしながら、土曜日曜とほぼ終日修行に励んでいるため、月曜の朝はへとへとなのだ。  しかし、ここのところ集中している修行のおかげか、珠生の力は少しずつ安定へと導かれている。わずかながらではあるが、感じることのできつつある手応えに、少しばかり気持ちが上向きになっているのを感じている。肉体は疲れているが、先週よりも明るい気持ちで学校の門をくぐることができているような気がする。そこへ……。 「あ、あの、沖野先輩!」  緊張し上ずった女子生徒の声に呼び止められ、珠生は足を止めて振り返った。ちょうど校門をくぐって昇降口へと向かう途中で、周りにはたくさんの同じ制服を着た生徒たちが歩いていた。そんな彼らも、皆が驚いたようにその声の主を見た。 「こ、これ……! 受け取ってください!」 「え?」  ずいと押し付けられたのは、ピンク色の小さな紙袋にリボンを飾ったものだった。それが何かを確認する暇も、受け取るかどうか考える間もなく、珠生はそれを押し付けられ受け取った格好になっている。 「手紙……入ってるんで読んでください!」  生真面目そうな眼鏡をかけた女子生徒は、一度も珠生を見ることなく一気にそう言って、ダッシュで昇降口へと消えていった。珠生はぽかんとして、ピンク色の袋を手に抱えたまま、マフラーを派手に揺らして消えていく女子生徒の背中を見送る。 「……なにこれ」 「沖野先輩……あの……」  呆然と佇んだままの珠生のところへ、便乗するように女子生徒が歩み寄ってきた。今度は少しばかり髪の茶色い、垢抜けた印象の女子生徒であるが、面識は一切ない。 「これ……もらってください」 「え? 何?」  珠生が彼女の声に応じたことで、その女子生徒は顔を真赤にしてうつむいた。差し出されたのは、今度は茶色い包み紙に金色のリボンの着いた箱である。 「チョ、チョコレートです。バレンタインだから……」 「あ、そっか……今日」  珠生は目をばちくりさせて、今日という日が自分にとってえらく賑やかしい一日であるということを思い出した。  しかし、修業の成果が少しばかり現れて気分が軽くなっている珠生は、今までずっと忘れていた営業スマイルを、久方ぶりに出現させた。 「ありがとう」  そう言って微笑むだけで、女子生徒は赤かった顔を更に赤くして、呆然と珠生の笑顔に見ほれている。そんな様子を見ていた他の女子生徒達が、じりじりと珠生に近寄ってきていることに、珠生は気づかなかった。 「先輩、天道先輩と付き合ってるんですよね……?」 と、その女子生徒は勇気を振り絞り、早口にそう言った。 「え? あ、うーん……何というか……」  付き合っているわけではないが、それをきっぱり言ってしまうと、この女子生徒は自分に愛の告白をしてくるのではないかという不安に駆られ、珠生は曖昧に言葉を濁していた。するとその女子生徒は頭を振って、「い、いいんです!! それでもいいんです! ただ……私の気持ち、知ってもらえればと思って……。なんなら二番手でも三番手でも……!」と叫んだ。 「え、ええ?」 「すいません! 変なこと言って……じゃ、じゃぁ、失礼します!」  その女子生徒も、最初の眼鏡の女子生徒と同じく、ダッシュで消えていった。ピンクと茶色の包みを抱えた珠生は、またぽかんとしてその背を見送る。  はたと周りを見回すと、珠生の周りをぐるりと取り囲むように女子生徒の群れができていた。珠生はぎょっとして、獲物を狙う肉食獣のように目をギラつかせている女子生徒たちを見回した。顔が引きつる。 「先輩! これも受け取ってください!!!」 「沖野先輩!!! かっこいい!!!」 「ずっと好きでした!!!」 「先輩! 私も愛人にしてください!! よろしくお願いします!!!」  わっと群がってきた女子生徒たちの群れに、珠生はあっという間に呑み込まれていた。集団戦法で強くなった女子生徒たちにもみくちゃにされて、珠生は目を白黒させながらチョコレートを受け取る。受け取ると言うよりも、押し付けられている。  そんな珠生の周りにできた黒山の人だかりを眺めて、百合子と湊、そして亜樹はぽかんとしていた。想像以上に後輩たちから想われている珠生を見て、湊はゆっくりと首をふる。 「……こら、すごいな」 「亜樹、ドンマイ」 と、百合子。 「……うるさい」  亜樹はやれやれと溜息をつきながら、マフラーに顔を埋めた。  + 「お前、今年もか」  職員室の若松の机の上には、渦高く積まれたチョコレートの山がある。若松がもらったものではない、珠生がもらったものである。  軽くパニック状態の女子生徒たちをなだめつつ珠生を救出してきたのは、バスケ部顧問の大林教諭であった。両手にも抱えられないほどのチョコレートを持ち、ぼろぼろになっている珠生を連れて、とりあえず担任の若松の元へと連れてきたという次第だ。 「……はぁ」 「去年のことがあるんだから、自分で何か準備してこいよ」 「だって今日がバレンタインデーなんて知らなかったし。それに自分で準備してくるとかおかしいでしょ普通」 「普通はそうでも、お前は普通じゃないんだから、分をわきまえろ」 「はぁ」  何故だか怒られていることに不本意さを隠せない珠生は、ぶすっとして若松を見おろす。隣の席に座る女性教諭が、けらけらと笑っていた。 「すっごいわねぇ、沖野くん。こんなの、わが校始まって以来じゃないですか?」 と、その向かいに座るベテランの老人教諭にそう尋ねている。 「せやな、こんなの見たことない。しかもそれで怒られてる生徒ってのも珍しい」 と、よぼよぼとした老人教諭はそう言った。 「チョコレート持ち込み禁止令を出したほうが良かったですかねえ、勉強にも集中できないだろうし」 と、また女性教諭が言うと、若松は、こう言った。 「いいえ、沖野を出禁にしたほうが早いでしょう」 「先生、ひどい」 と、珠生。 「若松先生は僻みが入ってるから。気にしなくていいわよ、沖野くん」 と、女性教諭がにこにこしながらそう言った。 「僻んでなんかないですよ!」 と、若松。この狼狽ぶりを見ると、本当に僻んでいるらしいと珠生は感じた。 「とりあえず、このチョコは職員室で預かってやるから。何か……袋でも準備しておいてやる」 と、若松はぶっきらぼうにそう言った。 「ありがとうございます。すいません」 「全く……何から何まで世話のやける……」 「すいません……」 「まぁいい、三年連続担任のよしみだ。さっさと上がれ、すぐにホームルーム始めるからな」 「はい」  失礼しました、と珠生は職員室を出ていった。  若松は溜息をついて、自分の机の上に山積みになっているカラフルな包みを見上げる。  自分が学生時代の頃は、このバレンタインデーという世間が浮かれている一日を、無関心を装いながらクールに過ごすことに心を砕いていたものだ。それでも、一つや二つは、誰かが自分に小さな包みを渡してくるのではないかと、内心ドキドキしながら一日を過ごしていたものである。それでも何もなかった日は、帰宅時までクールさを貫きつつ、帰り道を狙って誰かが声をかけてくるのではないかという期待を持ちながら、ゆっくりと帰ったものである。それでも何もなく、あっさりと帰宅できてしまった日の虚しさと言ったらない。母親が気を利かせてスーパーで買ってきておいたチョコレートを見て、肩を落とした青春時代……。  それを、あの沖野珠生はこの様子だ。  自分が一生かかってももらい切れないほどのチョコレートを、珠生はこの二年でごっそりと手にしている。去年よりも多いのではないかと、若松は目分量で推量していた。 「いやいや、すごいな」 と、珠生を救出したバスケ部顧問の大林が給湯室から戻り、コーヒーを片手にそう言った。 「まるでアイドルやな」 と、ガハハと笑い、「うちの本郷よりもモテてんちゃうか?」と、大林はどかりと若松の向かいに座ってそう言った。 「本郷ね……あいつもうちのクラスですから、一体どんなことになっているやら。きっと教室中甘い匂いでいっぱいでしょう」 と、若松はげんなりとした顔だ。 「ええやんええやん。こういうことでもないと、この学校のおとなしい生徒たちは青春出来ひんねんから」 と、大林。 「それはありますね」 と、女性教諭も応じる。 「まぁ変なトラブル起こす子でもないし、いいんちゃいます? 本郷みたいにすぐに女子に手ぇ出さんだけえらいですって」 と、大林はまた笑った。どうやら面白がっているようだ。 「……まぁ、そりゃあ。沖野はおとなしい生徒ですからね」 と、若松もその部分は肯定した。 「まぁ、女子たちには指導しますよ。不要なものを持ってこないようにって」 と、女性教諭。 「不要ちゃう、って反抗されると思いますけど」 と、大林。 「僕はあまり触れないでおきます」 と、若林は弱気である。 「せやな、先生は若いからもらえるかもしれへんしな」 と、また大林はガハハと大笑いした。 「嫌味ですか、まったく。ほっといてくださいよ」  先輩教師たちのからかいが面倒になった若林は、チャイムと同時に名簿を持って立ち上がり、浮かない気持ちのまま職員室を出た。  歩く廊下は、どことなくいつもよりも甘い香りが漂っているように思え、学生時代の虚しさを思い出しつつ、教室へと向かう。  +  案の定、本郷優征、空井斗真の周りにも女子が群がっていて、楽しげにチョコレートの受け渡しをしていた。沖野珠生と違うのは、ふたりとも楽しげに女子達を話をして盛り上がっているというところであろうか。 「ありがとうな、一日くらい、俺と付き合ってみる? 今夜空いてんで」 と、本郷優征は軽い口調で女子に囁いては、「もう、やだぁ」と満更でもない笑みを浮かべる女子に肩を叩かれたりして、非常に楽しげである。  空井斗真はその隣でほこほことした笑みを浮かべ、一緒になって笑っていた。その机の上にも、軽く見積もって二十個はチョコレートが乗っている。  沖野珠生の姿が見えないことを怪訝に思い、若松は教壇からぐるりと教室を見回す。すると、廊下側できゃっきゃと女子の声がするので、もう一度顔を出してみると、珠生が他のクラスの女子に捕まって、またもや山盛りチョコレートを渡されていた。 「……お前は自力で逃げるってことができないのか」  首根っこを掴まれて教室へと救い出された珠生は、チョコレートを抱えたまま若松を見つめて苦笑いした。 「……はぁ、なんか断れなくて……」 「これから先、Noと言える大人にならないと駄目だぞ! 特にお前みたいな奴はな!」 「そうですねぇ」  困り顔で眉を下げている珠生は、若松の目から見ても可愛らしい。やれやれとため息をつき、珠生を解放してやる。 「まったく。ほら、お前らもさっさと席につかんか!! 浮かれすぎだ!」  ばんばんと教卓を叩く若松を、優征と斗真の周りに群がっていた派手目の女子達が恨めしげにちらりと目をやってから去っていく。  何で当たり前のことを注意しているだけなのにあんなにも嫌な目で見られるのだろうかと、若松は理不尽ないらだちを感じつつ、出席をとりはじめた。

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