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最終話 絆の証

「よぉ、珠生」  無言のまま、まるで幽霊でも見たかのような表情をしている珠生を見て、舜平は気持よく笑った。それはいつもの、彼の笑い方だった。 「どうした、こんな夜中に何やってんねん」 「……舜平、さん……なの?」 「ああ、そうやで」 「なんで……ここに」 「……何となく、桜が見たくなっただけや」 「こんな夜中に?」 「それ、お前に言われたくないねんけど。お前こそ、何でこんなとこにいんねん」 「え、えと……じょ、ジョギング……?」 「なんやそれ。こんな夜中にか? ははっ、寒がりのくせにようやるわ」  そう言いながら、舜平は一歩一歩と珠生に近づいてきた。  力強い光を宿した舜平の瞳から、目が離せない。  誘われるように、引き寄せられるように、珠生は一足飛びに舜平に掴みかかると、ダウンジャケットの襟首を掴んで脚を払い、舜平を鴨川の畔に引き倒した。  舜平の上に馬乗りになり、珠生はぎゅっと唇を噛み締める。ダウンジャケットの首元を掴んだ拳に、ぎりぎりと力がこもる。腕が震える。  舜平はなおも穏やかに微笑んだまま、珠生をじっと見上げていた。 「……殴りたかったら、殴ればいい。それでお前の気が済むなら」 「……っ」 「酷いこと言って、悪かった。お前のことを忘れるなんて、できるわけないのにな」 「……ばか、やろう……っ」 「せやな、俺は馬鹿や」 「違うよ……!! ずっとずっと……俺、謝ろうと思ってたのに……何で先に謝っちゃうんだよ!」 「え?」  珠生は気が抜けたように、すとんと舜平の膝の上に腰を落とした。舜平は慌てて起き上がって後ろ手をつき、珠生の身体を支えた。そして、間近にある珠生の顔をしげしげと見つめる。  珠生は切なげな、物言いたげな瞳をして、じっと舜平を見つめ返している。少し伸びた前髪の下で、眉根をきつく寄せ、涙を堪えるような表情で。  思わず、その頬に触れていた。  指先が触れた途端、堪えていた想いがどっと流れだす。  舜平は強く強く珠生を抱きしめて、甘い桜のような匂いを、懐かしく吸い込んだ。 「珠生……っ」 「うっ……ううっ……」  珠生の泣き声が、身体に直接伝わってくる。しなやかな腕が首に絡まってくるのを感じて、舜平はなお一層珠生の背中を抱きしめた。 「珠生……ごめんな……ごめん」 「もう、やめてよ……悪いのは俺なんだ! 舜平さんの気持ち……なんにも考えずに酷いこと言ったのに……!!」 「もういいねん。情けないこと言って、ごめんな。お前にああ言われてもしゃあないわ」 「ごめん……舜平さん。ごめん……っ……」 「ええって。お前は悪くない」  舜平は珠生の肩に手を添えて少し身体を離すと、子どものように泣きじゃくっている珠生の顔を見つめた。泣き濡れた頬を拭ってやるが、後から後から涙が流れてその上を濡らしていく。 「ほんま、泣き虫やなぁ、お前は」 「う、うるさい」 「もう大学生やろ? まったく」 「大きなお世話だし」  珠生はぐいと目元を拭い、恥ずかしそうに俯きつつ舜平の上からどいた。軽やかに笑いながら立ち上がった舜平は、ぱんぱんと尻をはたいている。  舜平を見ていた珠生は、もう一度不思議そうに、こんなことを訊ねた。 「……なんで、ここに?」 「そうやなぁ……」 「ひょっとしてストーカーしてた?」 「阿呆、んなわけあるかい。……夢、見ただけや」 「夢? 前世の?」 「いや……お前とここで会った日の夢。三年前の今日の夢や」 「え……?」  舜平はダウンジャケットのポケットに手を入れて、桜の木を見上げた。  枝越しに見える月の周りには、もう雲ひとつ見当たらない、抜けるように澄んだ夜空が広がっている。 「眠れへんくなったし、ちょっと来てみようかなと思ったんや。そしたらお前がおるから、ほんまにびびったわ」 「そっか……」 「呼んだのはお前か?」 「ううん……。俺はただ、目が覚めて走りたくなっただけだし」 「ははっ、そうか」 「……」  珠生はちょっと気恥ずかしそうな顔をして、目を伏せた。舜平はそっと珠生の頭を撫でて、微笑む。 「会えて良かった。お前の顔、見たかったけど……なかなか連絡、できひんかった」 「……うん。俺も」 「まだ例の一件は落ち着かへんようやな。霊気がなくなっても、都の結界が動いてるのが分かるねん」 「そうなの?」 「あぁ、感知能力については体質なんちゃうか? 俺はちっさい頃から幽霊見えたし、今も見えるし」 「見えるの……? そっか、ちょっと安心した」 「そうか?」 「もう何も、感じないのかと思ってたから」 「まぁ、俺もそう思っててんけど。……身体の傷が治って、落ち着いてきたら……またいろいろ感じるようになってな。ま、不幸中の幸いやな」  軽い口調でそう話す舜平の様子は、以前と変わらず明るい。救われる思いで、珠生は舜平を見上げて笑った。  久々に間近で見る珠生の笑顔に、舜平の心臓が大きく跳ねる。  ――愛おしい笑顔。どうして俺は、こいつのことを忘れたいなんて、考えたんやろう……。 「良かった。本当に。本当に……もう一生、会えないのかと思ったこともあったんだ」 「……ごめんな、変なこと言うて」 「ううん……こっちこそ、ごめん……」  上目遣いに見つめられながら、素直に謝る珠生がかわいい。かわいくてたまらない。舜平は何度か目を瞬かせ、やれやれと首を振る。結局、こういうところは何も変わっていないらしい。  見たところ、珠生の方はかなり気の操作に長けてきている様子が感じ取れる。兄・将太の話では、まじめにコツコツと努力するタイプの珠生は、ある日を境に急激に力をつけてきたという。それ以来、ある程度は自らの霊気を高めることを自力で行えるようになった珠生は、いくら妖気が高まりを見せても、時間をかければ自分で収めることができるようになっているのだと。  今夜の珠生も、落ち着いた気の流れを呈しているように感じた。それを本人に伝えると、珠生は得意げに笑った。 「そうだろ、昔もできたんだから、俺にもできるよ」 「すごいやん。これで俺も安心や」  寂しいなどと思ってはいけない。  珠生は、自分の力で乗り越えた。  ――そこに追いすがるなど、してはいけない。 「……これで俺も、お役御免ってわけやな」  努めて明るくそういったつもりだったが、寂しいと思う気持ちが顔に出てはいないだろうか。舜平はあえて珠生を見ずに、鴨川の流れに目を落としながらそう言った。しかし、珠生はぐいと舜平の肘の辺りを強く掴むと、怒ったような顔でこう言った。 「……ばか言うな、そうはいくか」 「え?」 「舜平さんの霊気は、必ず俺が取り戻す」 「え……?」  珠生は怒った顔をしているくせに、大きな目に涙を湛えて、強気な口調で更に続けた。 「舜平さんの全ては、俺のものだ」 「……珠生」 「それに昔、舜海は俺に言っただろ? 絆ってのは、そう簡単に切れるもんじゃないって」 「……」 「俺は、この絆を信じたい。いや、信じてるよ。俺は舜平さんと離れない、離れたくない。これからもずっと、ずっと、俺のそばにいて欲しいから」 「……」  ぽろ、と珠生の目から涙が流れる。珠生は嗚咽をこらえるように深く呼吸をしながら、両手で舜平のダウンジャケットを掴んだ。 「馬鹿のくせに、小難しいこと考えるな。抱きたい時に俺を抱けばいいんだ。離れるなんて……言うな」  舜平は、たまらず珠生を抱き締めた。  大昔に、同じ台詞を千珠に言われたことがあった。  あの頃からずっと変わらぬ想いが、舜平の胸に湧き上がる。  珠生は肩を震わせて、声を殺して涙を流している。ぎゅっと背に回る珠生の手が、縋るようにダウンジャケットを握り締めた。 「……珠生……珠生」 「ううっ……う……」 「……まだ俺が、必要なんか?」 「……当り前だろ! 馬鹿! 分かりきったこと言うなよ!」  顔を上げて自分を見上げる珠生の目線に、舜平はまたどきりとした。珠生が、こんなにも自分を求めている……それが嬉しくて、ホッとして、胸が締め付けられるほどに、幸せだった。  珠生は涙に濡れた唇を薄く開いて、舜平の襟首をぐいと乱暴に引き寄せた。  重なったふたりの唇から、吐息が漏れる。舜平は、柔らかく吸い付く珠生の唇の感触を確かめるように、何度も何度も角度を変えては、その唇を感じていた。  もうそこに、吸い取る霊気もないだろうに、珠生は飽きることもなく舜平に食らいつく。舜平がぐいと珠生の腰を抱き寄せると、珠生の腕がより強く首に絡みついた。  ぴったりと重なった身体が、熱を伝え合う。  心地良い体温と、懐かしい鼓動。愛おしい香りと、確かな肉体の感触。 「珠生……」  名前を呼ぶと、珠生の身体が震える。熱い涙の、味がする。  ――愛おしい、何よりも。  お前が俺を求めるのなら、俺はそれに応えて生きるだけ……。 「……お前を愛してる」  舜平がそう囁くと、珠生が笑い泣きの吐息を漏らした。珠生がそうして笑ってくれるだけで、何よりも、何よりも幸せだと感じる。  今も互いの魂に絡みつく、甘い呪縛。因縁の鎖。  それがふたりの、絆の証。 「……珠生……」  再び結びあうふたりの頭上で、ひら、ひら、と桜の花びらが舞う。  しんと冷えた春先の夜風が、その花びらを再び空へと、舞い上げる。  春先の雪のように、ひらひら、ひらひらと夜空を彩る。  続  

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