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八十五、桜の下で

 珠生は起き上がり、しんと冷えた空気に身震いする。  無性に外の空気を吸いたくなった。きっと、この時間ならば人気はないはずだ。久しぶりに、疾走りたいと思ったのだ。  珠生は夜闇に紛れるよう、黒いジャージを身に着けて、ベランダからひょいと外に飛び出した。  三階から身軽に地面に降り立つと、珠生は鴨川の方向へと地を蹴った。  鴨川へ出たら、そのまま北へ上ってもいいかもしれない。山の空気を吸えば、もっと霊気が高まりそうな気がする。  そんなことを考えながら、珠生は身軽に夜の道を走った。なるべく人気のない、暗い道を選んでひたと疾走る。  植物園の裏手を抜け、鴨川へと到達する。  珠生の呼吸は、まるで乱れない。珠生は一度立ち止まって鴨川を見渡した。  この付近は、植物園の街灯の光がほとんど届かないため、ひどく暗い。しかし、珠生は夜目がきくため、それでも全く問題はないのである。  それに今日は満月の少し手前。  雲が晴れれば、十分に明るい月夜だ。  車の音も人の気配もない夜の中で、鴨川の流れは、いつもより存在感をもっているように感じられた。数百年の中を、ここにずっと横たわり続けていたこの川は、なおも人の暮らしを彩るようにそこにある。  ジャージのポケットに手を突っ込んで、しばらく川の流れを楽しむように歩くと、川面にせり出した見事な桜の木の下に出た。  はっとした。  ここは、初めて舜平と出会った場所だ。  いや、再会した場所と言ったほうがいいのかもしれない。  珠生は立ち止まって、ちらほらと、白く美しい花びらのつきはじめた木を見上げる。去年はすでに満開だったが、今年はまだ三分咲きといったところだろう。控えめに開いた桜の花弁に月の光が反射して、それはそれは幻想的で美しい風景だった。  あの日ここで、千珠の幻を見た。  あれは誰によってもたらされた幻だったのか、未だによく分からない。  その幻影によって、珠生と舜平は引き合わされ、物語は始まったのだ。  誰かの意志か、それとも、都に眠る記憶か……。  ざぁっ……と冷たい風が吹く。そんな風に負けることなく花を咲かせている桜の木がざわざわと揺れている。  その時、ふわりとした桜の匂いに紛れて、珠生はふと、懐かしい匂いを嗅ぎとった。  珠生は息を呑む。  ゆっくりと、振り返った先を見て、珠生は目を見張った。雲が切れて、月明かりがあたりを照らす。  少し離れた場所に、舜平の姿がある。    ゆっくりと歩いていた舜平が、ぴたりと足を止める。  その黒い瞳にしかと珠生を認めた舜平は、ゆっくりと、微笑んだ。

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