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八十四、再び、京都の春

 運転免許の合宿は、水無瀬文哉逃亡の一件から一週間後に予定されていた。  二週間、まるまる京都を留守にするということに気が引けて、珠生と湊は行くのをやめようかと思案していたところであった。しかし、彰に確認をとったところ、それは行ってきた方がいいと言われたのだ。  葉山の言う通り、三日後には彰はいつもの彰だった。二人の間でどんな会話がなされたのかは珠生には分からなかったが、落ち着いた彰を見てほっとしたものだった。  兵庫県豊中市の山奥での合宿は、滞り無く終了した。  結局、直弥は実家の宿の手伝いがあるからといって、合宿ではなく通いで取るということになり、参加したのは珠生、湊、優征、斗真、英司そして正武の六人であった。  なにぶん山奥であるため、教習が終わった後はすることがなく、夜な夜なトランプやウノなどをして遊んでいたため、もうしばらくカードゲームは見たくないという気持ちにさせられた。  同じような年頃の男女が他にも数組参加しており、英司は優征と斗真を誘って「ナンパしようやぁ!!」と大騒ぎしていたが、優征がまるで乗り気ではなく、英司ひとりでは成功する自信がないせいか、ナンパ熱はすぐに下火になった。  あとは京都で筆記を受けるだけという状態で、六人は教習所から出たバスに乗り、京都まで帰ってきた。なんだかんだと、一般的な社会からは隔絶されたような環境から、住み慣れた土地へ戻ってきてホッとする。  気づけば時期は三月下旬に入っており、京都市内はほんのりと暖かくなってきていた。  今まで山奥で過ごしていたため、そんな季節の変化にも敏感になる。ちらほらと桜が咲き始めている京都駅前の街路樹を眺めながら、六人は地下鉄やバスに乗るべく駅構内を歩いた。  世間は春休み。  行楽旅行や学生旅行の集団が、賑やかに京都駅を歩き回っているのを眺めつつ、珠生は三年前にここへ引っ越してきた時の気持ちを思い出していた。  慣れない土地、聞きなれない言葉、久しぶりに暮らす父親との生活……あの時は不安しかなかったような気がする。  しかし今は、こんなにも大勢とのつながりができた。懐かしい再会もたくさんあった。  いろんなことが、あった。 「どしたん?」 と、急に言葉少なになった珠生を見下ろして、湊がそう尋ねた。珠生はぱちぱちと瞬きをして湊を見上げると、「三年前にこっちへ引っ越してきた時のことを思い出してさ」と言った。 「ああ、そっか。もう三年かぁ……」 「色々あったねぇ、ほんと。こんな濃い三年、なかったよ」 「確かになぁ。でも、まだこれからやろうな」 と、湊は斜めがけにしたスポーツバックの位置を直しながらそう言った。  そう、まだ片付いていない事件があるのだ。  おそらく四月以降、珠生らも能登行きを命じられることだろう。そこでの戦いは、きっとまた壮絶なものになるに違いない。 「……そうだね」 「でもま、お前も修行は順調みたいやし、さらに無敵に磨きがかかるな」  湊は敢えて気軽な口調をしているのだろう、そう言って笑うと、バシバシ珠生の肩を叩いた。珠生は苦笑いして、「まぁね」とだけ答える。 「もっと深春に活躍してもらわないとな。舜平さんもいないしさ」 「……せやなぁ。お前、あれから会ったん?」 「ううん。……謝りたいとは、思ってるんだけど……なかなかきっかけがなくてさ」 「きっかけねぇ」  三ヶ月、舜平の顔を見ていない。  元気でやっているのかすら、分からない。  春休みになり、健介の出張がまた増えているため、舜平の話を健介から聞く機会もない。ただでさえ、自分から舜平の様子を尋ねることには抵抗があった。健介に問えば、大学で舜平本人に言うに決まっているのだ。珠生が君のこと気にしてたよ、と。  四月から新生活だというのに、すっきりしない。  珠生はうつむいて、軽くため息をついた。 「……とりあえず今日は、疲れたから寝たい」 「せやな。結局トランプばっかして二週間寝不足やし」  あーあ、と湊はあくびをする。  だいぶ日が長くなり、午後五時とはいえ、まだ辺りは明るい。バスのりばで正武と斗真と別れ、湊、優征、珠生は地下鉄乗り場へと降りていく。  優征はドアにもたれたまま眠たそうに欠伸をして、混みあった車内を見下ろした。これだけ身体が大きいと、きっと人ごみなんかも苦じゃないんだろうなぁと珠生は思った。 「柏木は大学でも弓道部か?」 と、優征。 「うん、せやな。そのつもりやけど。珠生は?」 「美術部なんかあるかなぁ。満寿美先輩が、サークルから部にしといたる、とかなんとか言ってたけど……」 「お前もなんかスポーツやれよ。バスケ来るか?」 と、優征。 「本家のバスケ部は優征とか斗真とか……本気の人たちのための部活だろ、俺はついていけないって」 「ほな弓道部にきいや! お前結局一回も見学にこーへんかったやん!」 と、三年前のことを今更湊は引っ張りだす。 「う、うん……。まぁ、考えとく」 「またそれかい」 と、湊は鼻を鳴らす。  とりとめのない話をしながら、三人は地下鉄に乗って帰路につく。  珠生の高校生活も、これで終わりである。  +  +  大学への入学式を三日後に控えた、三月末日。  珠生はふと夜中に目を覚まして、暗い天井を見上げた。  携帯電話で時間を確認すると、まだ午前二時過ぎ。起きるにはまだ早すぎる時刻だった。  その前の晩は、健介が『卒業祝い』だといって、普段は入らないような高級レストランに連れて行ってくれた。おそらくはまた数日間家を空けることへの罪滅ぼしも加わっているのだろうが、珠生は遠慮なく品のいいフランス料理を食したのであった。  そしてさらに、『入学祝い』だといって、健介は珠生に腕時計をくれた。珠生でも知っているような有名ブランドの箱が出てきた時には、なにも世間知のなさそうな健介が流行りのものを選んでくることに驚いた。健介は照れ笑いをして、「学生たちが教えてくれて、カタログなんかも持ってきてくれてねぇ」と楽しそうに話していた。  箱を空けると、銀色の艶やかな時計が姿を現す。ユニセックスブランドのものであるため、珠生の細めの手首にもそれはよく似合った。シャツをまくって父親に時計を見せると、健介はなぜかまた涙ぐみ始め、こんなふうにお祝いや贈り物ができる日が来るとは……とめそめそし始めた。 「これからまた大学のたっかい学費を払わせられるんだよ? それでもそんなに嬉しいの?」と、珠生が聞くと、健介は笑って頷いた。 「それも親の仕事さ。使う当てができて僕も嬉しいよ。お前は賢いから、きっと無駄にはならないだろうしね」と、健介は言った。  気弱で優しい父親を、珠生はくすぐったい思いで見つめる。  ふと、健介の笑顔に、源千瑛(みなもとのせんえい)の面影を見た気がしたが、珠生は驚かなかった。  子を思う父の顔は、きっとどの世でも一緒なのだろうと、直感的に思ったからだ。

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