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八十三、藤原の言葉

 水無瀬文哉は、それから一時間近くたった今も、まだ見つかっていないという。  それよりも信じられないのが、彰の見せた動揺である。  珠生は直接彰から聞いたことのある過去だが、なぜそんなことまで、水無瀬文哉は知っていたのだろうか。それに、文哉に憑依した妖は、いったいどこから……。  気になる事だらけで、珠生はじっと黙りこんで腕を組む。 「先輩……大丈夫かな」 と、ポツリと湊が呟く。藤原の手当をしていた葉山の顔が、わずかに揺れた。 「……尻を引っぱたいて追い出したからね……きっと怒ってるな」 と、藤原もため息混じりにそう言った。 「そんなことはありません」  彰の声に、四人は弾かれたように振り返った。彰は山道を走り回ったせいだろう、あちこち泥にまみれた姿で、疲れた顔をして立っている。服はあちこち引っ掛けたように破れており、まるで一週間山の中をさまよったような風体に見えた。  彰は手に持ったものを差し出して、藤原の方を見た。 「……水無瀬文哉が所持していた、刃物です。森の中に、捨てられていました」  がしゃん、とベッドの柵を尖らせたものが、彰の手から床に落ちる。 「あいつは、自身の身に妖を憑依させていた。そういう術式を、己の体内に仕込んでいたのだと思います。……高度な術なので、おそらく、水無瀬菊江の仕業かと」  彰は悔しげに奥歯を噛み締めて、怒りを押さえるように深呼吸をした。こんなにも心を乱した彰を、珠生は今まで見たこともなかった。いつも余裕たっぷりの笑みに彩られた彰の顔は、今は煮えたぎるマグマのような怒りのせいで、険しく引き締まっている。 「なんで……気づかなかったんだ……僕は……!」 「先輩……」 「ずっと閉鎖病棟に入れておくべきだった。私の甘さが今回の敗因だ」  藤原の静かな声が、ひんやりとした病室に響く。 「普通病棟は上と比べて結界も緩い。……ここまで我々の結界をかいくぐってきた水無瀬菊江の術ならば、容易に破れたろうな」 「……だから、急に態度を変えたってことですか? 閉鎖病棟から、守りの薄い一般病棟に移るために……」 と、葉山が、呟く。藤原は大きく息を吐きだすと、ふらりと立ち上がって病室を出て行こうとする。病室の扉の前に立っていた彰の肩を叩き、藤原は言った。 「言ったろ、お前のせいじゃないと」 「……業平様」 「このことは、上に報告しなければな。私は東京へ戻るよ」 「……本当に、申し訳ありません……」 「佐為、何を言ってるんだ。お前はよくやってくれた。これは、私の判断が招いた事態だ」  藤原のいつもどおりの笑みを見て、彰の顔がじわりと歪む。うつむいて拳を握り締める彰に、誰も声をかけられなかった。 「やめてください!! 僕を、もっと責めてくださいよ……!! そんな優しい笑顔で、僕を慰めないでください……!」 「佐為」 「ろくに拷問もできなくなった僕を一言も責めないなんて……!! 本当は、がっかりしておられるんでしょう!?」 「何を言ってるんだ、佐為」  藤原が語調を強めたことで、彰は再び顔を上げた。疲れのせいか、涙をこらえているせいなのか、やや赤くなった目で、藤原の穏やかな目を見つめ返している。 「私は今も、昔も、お前が誇らしいよ。言ったろ? お前には人間らしく暮らして欲しい、幸せになって欲しいと、いつも思っているって」 「……」 「日本の裏歴史に、こんなにも深くお前を巻き込んでおいて、どの口でそんなことを言うのかと思うかもしれないが……それはいつでも私の願いだ」 「……業平様……でも」 「最近のお前は、以前よりもずっと強くなったと感じている。守るものが増えて、ますますお前の力は輝いているとね」  藤原の手が、わしわしと彰の頭を撫で、土埃で汚れた頬をぐいと親指で拭った。 「今回のことは、本当に私のミスだよ。もっと非情に、水無瀬文哉を監禁しておくのが筋だというのに、私も随分現世で腑抜けてしまったものだ」 「そんなこと……」 「しばらく、この付近と虫網を締めておけ。それに掛からなければ、能登へ戻った……と見て間違い無いだろう」 「……はい……」 「しばらく、京都を頼む。能登の方には私から連絡しておく」 「はい」 「そんな顔をするな、佐為」  藤原はきびきびとした声でそう言うと、彰の両腕をばんばんと大きく叩いた。いくらか、彰の顔にも生気が戻る。 「ほんなら、またな」  急に柔らかな京都弁になると、藤原は微笑んで歩いていった。白いワイシャツの背を見送りながら、彰はその場で深々と頭を下げた。その横顔は尚も険しく、唇は一文字に引き結ばれたままだ。  そして彰は、珠生たちの方には目もくれず、職員たちの方へと歩きさってしまったのだった。 「俺らも……捜索に加わったほうがええんちゃうかな……」 と、湊が小さな声でそう言うが、その声色には戸惑いの色が濃く色づいている。珠生は何と言っていいかもわからず、困惑した目を湊に向けた。 「そうだよね……」 「一時間探して見つからないのなら、きっともう京都にはいないわ。それより、どんな術を使ったのか、そちらを調べるのが先ね」  葉山のきりっとした声に、二人ははっとして振り返る。葉山は白いワイシャツの袖をまくったまま、手を腰に当てて二人を見ている。二人の困り切った顔を見て、葉山は肩をすくめて少し笑った。その表情には、小さな子どもの反抗期を笑って流すような余裕が見える。 「きっとあいつに、何か酷いことを言われたのね。彰くんがあんなになっちゃうなんて」 「……内容は、知らないんですか?」 と、珠生。 「ええ。彼が言わないなら、私から聞こうとは思わないわ。まぁ、彼も馬鹿じゃないから、二、三日したら元に戻るわよ。君たちがそんな顔してなくても、大丈夫」  どっしりとした葉山の言葉に、二人はどれだけ気が楽になったか分からなかった。この葉山の言葉がなければ、きっとしばらく二人してどんよりと無為な時間を過ごしていたことだろう。それほどに、今日の彰の様子は心に突き刺さった。 「あなたたちは前世から彼を知っているから、きっと余計戸惑うのね」 「……そうかもしれません」 と、湊。 「でも、私から見れば、いくら力が強くても、彼はただの未成年の男の子よ」 「……葉山さん、すごいっす」 と、珠生は感嘆している。 「余裕だし……それに、先輩のこと、すごくよく分かってるんですね」 「え? まぁ……そうかもね。一緒に動くことが多いし……」 「先輩のこと、好きなんでしょ。だから、そこまでどっしり構えて信じてあげられるんですよね」 「す……好きって……何言ってんのよ! 私達はそんな……!」  さっと葉山の頬に朱が差すのを、二人は見逃さなかった。隠し事は苦手なタイプらしい。 「知ってますよ、もう。隠さなくてもいいです。それに、むしろ安心してます」  珠生が微笑みながらそう言うと、何やらもっと言い訳をしようとしていたらしい葉山が口をつぐむ。湊も微笑みつつ、頷いている。 「見てりゃ分かりますって。天才的に鈍い珠生ですら気づいてるんですよ。俺らに分かれへんわけないじゃないですか」 「ねぇ、天才的に鈍いってどういう意味?」 と、珠生が湊の言葉尻を捕まえて抗議する。 「なに……何よ。みんな知ってたっていうの?」 「先輩の雰囲気、すごく変わらはったから。葉山さんのおかげやったんですね」 と、湊は穏やかな声で続けた。 「……う、うーん、そう、なのかしら……」 「俺ら、先輩に何も言えへんかった……。葉山さんにお願いします。先輩のこと、頼みます」 「うん。結局いつも、こういう時に俺たち何も出来ないんだ。付き合いが長いってだけじゃ、駄目なこともあるんだね……」  ぺこり、と二人に頭を下げられて、葉山は困ったように腕組みをした。しかし、彰が二人にこんなにも想われていると改めて知ることができたことは、嬉しかった。 「……分かったわ。あなたたちはもう帰りなさい」 「でも、検分は……」 「まずは我々で調べるから、明日またここへ来てちょうだい。今夜はいろんな物を見て疲れたでしょう、ゆっくり休んでね」 「……分かりました」  葉山は二人を安心させるように笑って見せ、結わえていた髪を解いた。黒く長い髪を揺らして、首をぼきぼき言わせている葉山はおよそ色気のかけらもなかったが、その仕草はとても格好よく見えた。  女だてらにこんな現場にいて、彰を支えているという強さに、感服する。   珠生はふと、舜平のことを想った。  いつも支えてもらっていたのに、今回の自分の情けなさときたらどうだろう。全く、不甲斐ないことだ。  ――舜平さんに会いたい。ちゃんと、謝りたい。  そして、もう俺は大丈夫だから、何の負い目も感じる必要もないから、ただ一緒にいて欲しいのだと、伝えたい。  もう、守られてばかりの存在になりたくない。  もっともっと、強くなるんだ。

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