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八十二、逃亡
珠生と湊は、河原町通からタクシーを拾って岩倉病院へと向かった。
「えぇ? あの病院、もう潰れてるんちゃうかったっけ?」
行き先を告げると、中年のタクシー運転手は怪しいものを見るような目で二人を見た。しかし湊がすかさず、「あの近所に行きたいとこがあるだけです」と言った。
「あ、そう……。あのへん、不気味やし、気をつけなアカンで」と、運転手はぶつぶつとそう言いつつ、車を発進させた。
二人は押し黙ったまま、十五分ほどタクシーに揺られていた。嫌な予感がぐるぐると頭をめぐる。
病院から逃げたということは、きっと誰かを打ち倒して脱出したということであろう。誰かが負傷している可能性は高い。しかも、今日の見張り担当は彰だったはずだ。
「先輩……大丈夫かな」
と、たまりかねて珠生はそうつぶやく。湊は頷いて、「大丈夫に決まってるやろ」と言った。
時刻は午後八時過ぎだ。深泥池 から立ち上る濃い霧で、辺りはのっぺりとした闇に包まれていた。運転手はそろそろと慎重に車を走らせ、視界の悪い夜の道をゆっくりと進む。じれた珠生はそこで車を停めてもらうと、料金を支払って二人は外へ出た。
そこはちょうど、深泥池の畔だった。
池の上に、こんもりとした霧がもやもやと浮いている様は、いかにも不気味だ。そして、その周辺には噂に漏れず、たくさんの迷える霊が浮かんでいるのが見える。
珠生はそれらを敢えて見ないようにして、湊と共に病院への坂道を走った。
湿度が高く、呼吸さえ重たく感じられるような夜だった。二人が自動ドアを開けて中へ入ると、そこにはすでに何人もの黒いスーツ姿の人間たちがせわしなく立ち働いているところであった。
「あ……! 更科さん!」
珠生は更科宗一を見つけて、そちらに駆け寄る。知った顔は彼一人だった。
「あぁ、珠生くん……」
「一体どうしたんです!? 先輩は……?」
「え? ああ……佐為様は無事だよ。ただ……彼をかばって、藤原さんが少し怪我をされた」
「え……!?」
あの藤原の手をすり抜けて、逃げたということなのだろうか。珠生と湊は顔を見合わせ、案内してくれるという更科について病院の奥へと進んだ。
おどろおどろしい外観とは異なり、病院内は明るく清潔に整えられており、ごくごく当り前の総合病院といった雰囲気である。リノリウムの床を踏んで、すらりとした更科の背中を追った。
通された病室のドアは開いていた。ベッドが二つ置かれただけの白い部屋が、そこにある。
「藤原さん……!」
「何があったんですか?」
珠生と湊は、手前のベッドの上に腰掛けて葉山の手当を受けている藤原に駆け寄った。見たところ、藤原に大きな怪我があるというわけでは無さそうで、珠生たちはほっと肩を落として安堵した。
「早かったね」
と、藤原は微笑む。しかしすぐに、その笑みが消えた。
「……大丈夫ですか?」
と、心配そうに藤原の手元を覗きこむ珠生に、葉山は顔を上げて微笑んだ。
「ええ、少し手首を斬られただけよ」
「……迂闊だった」
藤原は、その時の状況について話し始めた。
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その日、水無瀬文哉の見張りにあたっていたのは彰だった。
文哉は菊江が消えたと聞いて以来すっかり従順になっており、ぺらぺらと知っていることを話していた。
菊江と自分の生い立ち、育ってきた不遇な環境、自分たちの誇り高き能力……それらをまるで武勇伝でも語るかのように雄弁に、淀みなく話をしていた。
そういった態度の変化を受け、文哉は閉鎖病棟から一般病棟に移された。手足を枷で拘束された状態で囚われながら、バイク転倒時の怪我の治療を受けており、傷はほぼ完治している。
吉岡信子のつてを利用して、そろそろ京都府医療刑務所に移そうかという話が出ていた矢先のことだった。
文哉の側で本を読んでいた彰に、文哉が突然、話しかけ始めた。
「……一ノ瀬佐為、っていうんやってな。お前」
「……それが?」
彰は顔を上げ、ぱたんと本を閉じて文哉を見た。
「お前もさ、苦労したんやってな、小さい頃」
「……? 何の話だ」
「お前は、幼い頃両親を殺されて、地主にエライ目に遭わされたらしいやん」
彰の霊気が、すうっと冷えていく。
おぞましい記憶がむりやりに胸の奥から引きずり出されるような感覚に動悸が急激に高まった。
文哉はにやにやと薄ら笑いを浮かべたまま、続けた。
「俺らは知ってるで、過去のことはなぁんでも。……大変やったなぁ、どこに突っ込まれたん? 汚いおっさんのアレ。男がいっぱいおったやろ。何人おったか覚えとる? ひどいよなぁ、いたいけな子どもにあんなことしてなぁ」
「……なんだと?」
声と拳を震わせて、彰はゆらりと立ち上がった。その拍子に、スチール製の椅子が床の上でひっくり返る。
文哉はニヤリと笑い、お構いなしに先を続けた。
「痛かったか? それとも、お前も楽しんだんか? ……くく……」
「……黙れ」
「ああぁ、かわいそうになぁ。痛ぶられて、嬲られて、汚されて……怖くて怖くてたまらんかったんやろ……? くく……そんで、恐怖と怒りに任せて、そこにいたやつら全員殺したんやって? その時目覚めた力で、俺らをこうやって虐めてるってわけか」
「……黙れって言ってるだろ!!」
彰は瞬きする間にベッドの上に飛び乗ると、両手両足をベッドサイドの柵に固定されている文哉のみぞおちを膝で突き、首を両手で締め上げた。卑しい目つきをした文哉を睨みつけ、肩で息をしながら苦しげに歯を食いしばる彰の痛ましい表情を見て、文哉は脂汗を流しながらこう言った。
「汚い力……やな。穢れた力や……俺らと何が違うっていうねん……お前のほうが、よっぽど汚い……くくく……」
「黙れ!! ……黙れ……!!」
「佐為様! 一体どうされたんです!?」
病室のドアの外にいた見張りの二人が、彰の大声に驚き慌てて飛び込んでくる。彰が怒りにぎらついた目で射殺すように二人を睨むと、宮内庁職員たちは怯えたように足を止めた。
「……へへへへっ……へぇ……まだ、引きずってんねんなぁ……。偉そうなツラして……ちっちゃい頃の夢に怯え続ける……五百年も前のことなのに、可哀想に……」
「……黙れ。本当に殺すぞ」
「殺せよ、やれるもんならな……。現世で人殺しや、お前は殺人犯や。人生終わりやな」
「……貴様」
彰の指に力が入る。苦しげに空気を求めてもがく文哉の顔が、みるみる赤黒く染まっていく。
「佐為様! 駄目です! やめてください!」
咄嗟に止めに入った職員を視線だけで弾き飛ばすと、彰は憎しみに染まった瞳を再び文哉に落とした。
「……誰か!! 誰か来てくれ!!」
もう一人の見張りが大騒ぎしているのを聞きつけて、藤原が駆けつけた。
まるで高温の炎のような青白い霊気をかぎろい立たせ、彰は容赦なく文哉を絞め殺そうとしている。
「縛!!」
怒りに我を忘れた彰の身体を、藤原の術が縛り付けた。そうされて初めて、彰は藤原の姿をその目に写す。
「……業平様……」
「佐為、どうした。やめなさい」
「……こいつはもう役に立たない。殺してしまえばいいんですよ」
金色の縄に身体を縛り上げられた状態で、彰は唇にぞっとするような薄笑いを浮かべてそう言った。その表情は、汚れ仕事の後、自嘲気味に笑う佐為の表情そのものだった。千珠たちと出会う前の、まだまだその身に荒んだものを満たしていた頃の、佐為の顔だ。
現世で、珠生や葉山たちと過ごす中で得た穏やかな笑みからはかけ離れた、冷たく残酷な笑みだった。
「佐為。だめだ。そいつはまだ生かしておく」
「……でも」
「いいから。私の命令がきけないのか」
「……」
彰はぐっと黙ると、ぎゅっと悔しげに唇を引き結ぶ。赤黒く腫れて脂汗を流している文哉をゴミでも見るかのような目で見下ろし、彰は荒々しく息を吐いた。
「分かりました。術をといてください」
「いいだろう。おい、君たちはやつの様子を」
藤原は、怯えて病室の外で事の成り行きを見守っていた職員たちに声をかけると、術をといてゆっくりと彰に近づく。
彰はひらりとベッドから降り立つと、じっと手負いの獣のような鋭い目で、藤原を見ていた。
「……佐為」
「……」
ふい、と彰は目線を落とす。藤原が手を伸ばしその頭に触れようとすると、彰はびくっと身体を縮めて、険しい顔で藤原を見た。
「佐為、お前はあの頃とは違う」
「……僕の魂は、汚れたままだ」
「何人たりとも、魂まで汚すことは出来ない。それにお前はもとから、汚れてなどいないよ」
「……でも!! 僕は……!! この力は……」
「あんな奴の言うことに心を惑わされるな。お前は潜在的にこの力を宿して生まれたんだ。君のお父様の血が、そうさせていたんだ」
「……でも……」
「きっかけなど、関係ない。お前はお前だ。お前は、誇り高き陰陽師衆の宝。佐為、お前は素晴らしい男だよ」
「……」
病室の隅に追いやられたような格好で身体を強張らせていた彰は、藤原の冷静な目をじっと見据えている。その言葉の真偽を疑うような、そして何かに怯えているような、昏い目だ。
「佐為……こっちへおいで」
「……」
「佐為。私の言葉に嘘はない。お前になら分かるだろう、私の言葉に、嘘偽りがないかどうかということくらい」
優しく微笑む藤原の顔を見つめていた彰の目から、ぽろ、ぽろと涙が溢れだした。
「う……うぅ……」
「佐為……」
「藤原さん、対象を集中治療室へ移動させます」
幾人かが固唾を飲んで二人のやり取りを見つめていたが、文哉の治療にあたっていた女性術者の一人が、おずおずと声をかける。藤原は首だけでそちらを振り返り、頷いた。
「気をつけろ。常に術で縛っておくんだ」
「はい」
彰に首を絞められて暴れたせいで、文哉の手首足首は血を流している。その部分の処置を行おうと、足枷の錠を外した途端、意識を失っていたかに見えた文哉が突如跳ね起きた。
手首を繋がれていたベッドサイドの柵の一本を、素早く抜き取る。いつのまに仕込んだのか、その先端は鋭く尖っていた。即席の刃が、すぐそばで文哉の身体を移動させる準備を行なっていた職員の肩を、ざっくりと切り裂いた。
「きゃぁあ!!」
「……何?!」
刃物を手にし気が大きくなったのか、文哉は邪悪に笑い、もう一本の柵も引きぬいた。もう一本の金属製の柵の先端も、鋭く尖っている。
よだれを垂らし、だらりと舌を口からはみ出させて笑う文哉の表情は、すでに人間のそれではない。まるで自らに何かしらの妖を憑依させ、力を得ているように見えた。
咄嗟に印を結んだ藤原の方へ、文哉は狂ったように躍りかかっていく。
「!!」
よだれをまき散らし、両手に刃物を持った文哉に跳びかかられた瞬間、藤原は背後にうずくまっている彰を守って立ちはだかり、身体で文哉を受け止めた。
「な……業平様……!」
彰の悲痛な叫びが響く。文哉に組みつかれた拍子に両手首を切り裂かれ、藤原は苦痛に顔を歪めた。それを見て、文哉はにたりと邪悪に笑う。
そして突如として身を翻すと、そのまま窓ガラスを突き破り、空へ身を躍らせた。
ここは地上四階だが、すぐさま見下ろした先に、文哉の身体は既になかった。
藤原は奥歯を噛み締めると、すぐさま後ろを振り返り、その場にいた職員達に指示を飛ばす。
「すぐにやつを追え!! 呪符を装備して追うんだ!!」
「はい!!」
藤原の指示で、ばたばたと職員たちが駈け出していく。そんな様子を、彰は信じられないものを見るような顔でぼんやりと眺めていた。
――取り逃がした。あいつを。……この、僕が。
――あんなつまらない挑発を受けただけだというのに、あっさりと心を揺らされて……。唯一の手がかりを……!!
「あぁ……」
彰は頭を抱えて蹲り、呻き声を漏らした。部屋の隅に小さく縮こまり、肩を震わせている彰の姿を、藤原も痛ましい表情で見下ろしている。ぼたぼたと血の流れる手首を押さえながら、藤原は彰のそばに座り込んだ。
「佐為」
「うぅ……ううぅ……」
「お前のせいじゃないよ」
「違う……僕のせいだ!! 僕が……あんな奴に……!」
「佐為」
「僕が……油断したから……!!」
「しっかりしろ! 佐為!」
藤原の怒号に、はじかれるように彰は顔を上げた。
目の前にあるのは、厳しい目をした業平の姿だ。黒装束に身を包み、一分の隙も見せない完璧な男。穏やかな藤原修一の顔ではなく、怜悧冷徹な、藤原業平の表情だった。
「佐為、気を張れ」
「……は……」
「自分のせいだと喚いている暇があるならば、すぐに奴を追え! 泣き言はあとで聞いてやる!」
藤原はぐいと彰の腕を引っ張って立たせると、厳しい目付きで彰を見据えた。自然と背筋が伸びるような業平の目付きに、彰は息を呑んで涙を拭う。
「しゃんとしろ、お前らしくもない。さぁ、早く行け!!」
「はい!!」
彰はすぐさま窓枠に足をかけ、ひらりとそこから身を躍らせた。珠生ほどではないが、妖の血を引く彰の身は軽い。
すた、と身軽に地面に降り立つと、文哉の匂いを辿って山の中を走りだす。
藤原は彰の背中が闇の中に溶けていくのを見届けると、大きく息を吐いて窓にもたれかかった。ぎゅっと手首の傷を押さえ、唇を噛む。
「……くそッ……」
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