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5、舜平の苦しみ
舜平は実験室での細菌培養の手伝いを終え、マスクと防塵服を脱ぎながら息をつく。
隣のロッカーでは、同じように屋代拓がごそごそと着替えをしている。
大学院生になってからは、健介以外の教授陣との付き合いも増え、その学生たちへの指導助手という仕事もある。したがって、こういった地道な実験の手助けなどの仕事も増えたため、二人は揃って大学に缶詰になる時間が増えた。
拓はボキボキと首を回しながら、大きくため息をつき、腕時計を見た。
「おわ、もう七時か。はよ帰らな」
「なんかあんのか?」
と、舜平は汗だくになったTシャツを脱ぎながらそう尋ねる。
「この間の合コンで知り合った子が飯食わしてくれんねんて。しかも今日は、彼女の家で」
ニンマリと笑う拓の顔には、実験の疲れなど微塵も見られない。舜平は久々に見るそんな拓の浮かれた顔に、笑みを返した。
「ほんなら今日は勝負やな」
「せやろ。月曜日、楽しみにしとけ」
と言いながら、拓はばさ、と上着を羽織る。そして、ふと舜平の裸に目をやって、目を瞠った。
「お前……! どうしたん、その腹……」
「あ」
水無瀬菊江にやられた傷跡は、舜平の肌に引き攣れた跡を残していた。右脇腹の大半の肉を持っていかれたこともあり、その傷は大きく、かなり目立つ。霊力があれば、こういった傷跡でさえも目立たないまでに回復することができていたが、今の舜平の身体にはそれだけの力はない。見られないようにと気をつけてはいたが、うっかり拓のいるところで着替えをしてしまった。
「あ……あの、ちょっとな」
「ひどいやん! 事故にでもあったか? いや、そんなことなかったよな……? あれ……?」
純粋に心配そうな顔をしている拓は、よりその傷をきちんと見ようと顔を近づけてくる。舜平は慌てて白衣を抱えて肌を隠した。
「これは、あれや。ひ、皮膚の病気や!」
「え? そうなん?」
「もう治りかけやし。大丈夫やって」
「……そうか?」
まだ訝しげな表情を浮かべていたが、拓は渋々屈めていた腰を持ち上げる。そして、今度は舜平の背中に残っている赤い痣に目を留めた。
「おい、これは何や」
「え?」
「めちゃ引っかき傷が……あ、お前。どこの女にこんなもんつけられたんや」
「う……」
舜平は慌てて新しいTシャツをかぶる。拓はにやにやと薄笑いを浮かべたまま、舜平ににじり寄った。
「おいおい、女っ気ないと思ってたけど、お前、やることやってんねんな」
「は、ははは。ま、まぁな」
「誰やねん、ここの子か?」
「ちゃうちゃう。ここの学生に、そんなことできひんやろ」
「じゃあ誰? 教えてぇな」
拓は楽しげに舜平をつつきまわし、ロッカールームの外まで付きまとってくる。舜平はため息をついた。
これは、珠生につけられた傷だ。
再会したあの夜、珠生はずっと舜平にしがみついて悶えていた。珠生が絶頂を迎えるたび、舜平の背中には赤い印が刻まれた。
――舜平さん、……好き、好き……愛してる……。
泣きながら自分を求め、どこまでも妖艶に、貪欲に腰を振る珠生の姿が、ふと脳裏に浮かんだ。
「……ええと、その……」
「あ、まさかセフレってことか? お前、梨香子で苦労したからって……」
「や、そういうわけちゃうねんけど……まぁ、流れと時と場合といいますか……」
「ふうん……。まぁそれもええけど、そろそろちゃんと、彼女作ってもええんちゃう?」
ぽん、と拓は舜平の肩を叩いた。
「なんか最近のお前、妙に落ち着き払ってるというか、侍じみてきたというか……」
「はぁ?」
「いろいろ楽しいことあるやん、人生ってさ」
「……せやな」
拓の言葉が、妙に心に引っかかった。
楽しげに大きく手を振って帰っていく拓を見送って、舜平は少し自嘲気味に笑ってみた。
「楽しいこと、か……」
転生するまでは、普通の高校生、普通の大学生の生活を当り前に送っていた。彼女がいたことだって、もちろんあった。デートをしたり、友人と旅行をしたり、サッカーをする。そういった当り前の生活は、楽しかった。
何も、知らなかったから。
今はその頃とは違う。日本の裏歴史に深く関わり、その責任を負っていた。それが自分の役割だと思っていた。
しかし霊力が失われた今、その役割とは一体なんだろうか。彼らは舜平を必要だと言ってくれるが、何も出来ない自分があそこにいる理由が、舜平はどうしても見いだせずにいた。
珠生を抱く理由でさえ、よく分からなくなっていた。
もう自分で気の操作をある程度できるようになっている彼に、自分がしてやれることはあるのだろうか。珠生は相変わらず舜平を求めるが、それは単に、性的な欲求を満たすだけの行為なのだろうか……そんなことを、ふと考えてしまう。
自分を愛し、必要としてくれる珠生の気持ちは痛いほどに分かっているというのに、時折顔を出す卑屈の虫が、舜平の心を弱くする。
――苦しい……。
舜平はロッカーに額をくっつけて俯くと、重たいため息をついた。
+ +
珠生と湊は、結局新歓コンパには参加せず、二人で大学の学食に入っていた。
大人数で騒ぐのが苦手な上に、そんな場で初めての飲酒ということになると、自分がいったいどうなってしまうのか分からないと言う不安もあった。
前世の自分の酒癖が悪かった、という記憶はある。
現世で、しかも新歓コンパという浮かれた場でおかしなことをしでかしては、きっとこの先平穏な大学生活は望めなくなるに違いない。二人はお得な学食定食を食べながら、そんな話をしていたのである。
「舜平も呼んだけど、良かったやんな」
と、湊が味噌汁をすすりながらそう言うと、珠生はハンバーグに箸を差しながら頷く。
「うん、もちろん」
「原付置いていく? 車やろし、乗っけてってもらったほうが早いやんな」
「あ、そうだね……そうしよっか」
淡々とそんな話をしていると、当の舜平が学食のガラス扉を押し開けて入ってくる姿が見えた。
舜平は明桜大学に来るのは初めてということであり、興味深そうに辺りを見回しながら学食の中を歩いている。窓際に二人の姿を見つけると、舜平は笑って手を上げた。
「やっぱ私立名門校は雰囲気がちゃうな」
舜平はそんなことを言いながら、珠生の隣に腰を下ろす。二人の食べているメニューを見て、「うまそうやん」と言う。
「お前も食うか? 食券買えるけど」
と、湊。
「や、ええ。もう俺も食ってきたし」
と舜平は水だけ取りに行って戻って来た。
白い床、白い壁に、青みがかったガラス張りの壁面。広々とした清潔感のある学食の建物は、学生たちに”カフェ”と呼ばれている。確かに、ここでフランス料理が出てきても不思議ではない雰囲気である。
「きれいやなぁ。うちとは大違いや」
と、舜平はしげしげとあたりを見回しながら感心している。珠生は笑った。
「見過ぎだよ。それに、あと二つ学食あるけど、そっちは高校の学食とそう変わんなかったよ」
「もう行ってみたんや」
と、舜平。
「昼間はこいつ、女子を避けてそっちの男くさい学食に逃げてんねん。こっちのほうが広いし、味もいいのに」
と、湊が熱い茶を啜りながらそう言った。珠生は肩をすくめる。
「あっちのほうが空いてんだもん。それに、タケもそっちのがいいって言うしさ」
「タケ?」
「同じ学部に高校からの友達がいるんだ」
と、舜平に珠生は説明している。
「そういや、あのバスケ部のでかい二人は?」
「今頃新歓コンパで大はしゃぎ」
付け合せの野菜を綺麗に片づけながら、珠生はそう言った。
「何や、お前らはサボりか」
「持ち上がりの学生はあんまり行かへんねん。外部組との親交が目的やから、大学デビューを狙う男どもは参加するけどな」
と、湊が説明する。
「ふうん。まぁ、飲み会なんか今後も腐るほどあるからな。まぁ飲み過ぎんなよ、未成年ども」
舜平はからりと笑って、ぽんぽんと珠生の頭を撫でた。珠生はむすっとした顔を舜平に向けると、「ぽんぽんしないでよ」と文句を言う。
「特にお前は酒癖悪かったしなぁ、一回身内だけで飲みに行って確認しとくか?」
と、舜平。
「それがええわ。今は俺も、昔みたいに珠生のお世話できひんしな」
と、湊。
「お世話って言うな」
と、珠生はむくれた。
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