307 / 533

4、身代わり

 藤原は降格処分となったおかげで、以前よりも自由になる時間が増えた。  そのため、以前からの懸念事項であった、深春と実父の面談の件について、進めていくことを考えていた。  昨日の集会で、深春は莉央に冷ややかな態度を受けたためか、いささか落ち込んだ表情のまま帰ろうとしていた。見かねた藤原はその後、宮尾邸に電話をかけ、深春と二人で会う時間を設けることを決めたのであった。  高校生である彼は、まだ春休みの最中だった。そのため、昼間も自由になる時間がある。  藤原は深春を迎えに行くと、宇治方面に車を走らせながら近況を尋ねた。学校生活は概ね良好であるということに安堵しつつ、藤原は昨日の話題に触れた。 「……常盤がすまなかったね。昨日、あんなことを言って」 「いや、仕方ねぇよ。むしろ、もっとひどいこと言われるかなって思ってたけど……」 と言いつつ、深春は暗い顔をしている。 「藤原さんや斎木先輩は、何で俺と普通に接してくれるのかなって、逆に不思議に思ったよ」 「……私は、過去の業まで現世に持ってくることはないと思っているからね。新しい人生を生きるために転生があると、思っているから」 「転生、か。でも、珠生くんに聞いたけど、なにかやることがあるから転生するってことだろ? それってやっぱ、過去の償いとかさ、そういうことなんじゃねぇのかな……」 「そうだねぇ。珠生くんや佐為は、十六夜を守るために無理に時間を設定して転生した魂だから、やることははっきりしてた。しかし、私たちは湊くんや君にまでそんな術をかけていたわけじゃない。なら、なんで今このタイミングで皆が年近く蘇ったのか」 「……」  じっと前を見ながら運転している藤原の横顔を見て、深春は次の言葉を待つ。 「湊くんは、千珠さまや舜海と親しく、生活も戦いも共にしてきた。彼らを見守り、時に冷静さを取り戻させるために、彼はずっと二人を見てきたはずだ。そして今も、彼はその働きをしているね」 「はい……」 「君も、千珠さまとはつながりの深い存在だった。そして陰陽師衆とも、形はどうあれ、関わりは深い。祓い人、雷燕……これらのキーワードからは、否応なしに君の存在が浮かび上がってくる」 「……はい」  夜顔は、祓い人の女が雷燕に無理やり孕まされ、生まれ落ちた命だった。その憎しみを纏い生まれたためか、夜顔は幼少の頃から忌み嫌われ、憎まれ、孤独に追いやられたのだ。 「近々、我々は能登へ行く事になるだろう。その時、君の存在が何かしらの鍵になると、私は思っているよ」 「鍵……ですか」 「そう。今こうして、君が私達に協力してくれているという構図は、過去とは違うものだ。この事実こそが、きっと過去からの因縁を断ち切る鍵になるはずだ」 「……よく分かんねぇけど……」 「ははっ、ごめんごめん。ちょっと難しい話になったかな」 「何となくは分かるけどさ……」 「君は、珠生くんたちといて楽しいかい?」 「え? うん、そりゃ、楽しいよ。みんないいやつばっかりだし」 「柚子さんや亜樹ちゃんは?」 「うん、好きだよ」 「そうか。それならいいんだ」  藤原は信号で止まると、深春を見て微笑みながら頭を撫でた。深春は照れ隠しのために、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向く。 「もうちっこいガキじゃねぇんだ。やめてくれよ」 「ははは、すまんすまん」 「ところでさ、それだけのことで俺を呼んだんすか?」  車が静かに入っていったのは、宇治川の畔にある落ち着いた佇まいの料亭だった。深春は、そのいかにも高そうな店の暖簾を見上げて、戸惑ったように藤原を見た。 「落ち着かねぇな、こんなとこで昼飯とか。俺、こんな格好だし」 と、深春はダメージジーンズに長袖のTシャツを着込んだだけというラフな格好をしている自分を悔いるように、そう言った。  藤原は笑って、「気にしなくていい。若者は何を着ていても様になるもんだ。それに、ここは私の知り合いの店だから、安心していいよ」と言う。 「藤原さんの知り合いって、こんな人ばっかりだな」 「そうでもないさ、たまたまだ」  深い臙脂色の暖簾をくぐり、藤原は先に店に入った。深春は慌てて、その後を追う。  +  てっきり和食が出てくると思ったら、そこは鉄板焼きの店だった。深春は分厚いステーキや焼き野菜などをたらふくごちそうになったのである。  藤原はビールがないと肉が食べれないと言い、あまり量は食べていなかったが、美味そうに料理を平らげる深春を見て、終始にこにこと笑っていた。  二人が通されたのは、八畳ほどの個室であり、開け放たれた唐紙ごしに宇治川の流れが見渡せる。久しぶりに青空を見せていた空の色が移って、宇治川はキラキラと輝いていた。 「はぁー、美味かったぁ」 「君は本当に、美味しそうに食べてくれるね。シェフにも見せてやりたかった」 と、藤原は腹をさすっている深春を眺めながらそう言う。 「俺さ、小さい頃に栄養足りてなかったから、食える時に食っとけみたいな性格が治んねぇんだよな。今はいつでも柚子さんがうまいもの作ってくれるっていうのに」  事も無げに笑いながらそんなことをいう深春に、藤原の笑みがふと翳る。深春は満足気な表情を浮かべて宇治川を見下ろしていたが、すっと笑みを仕舞いこむと、正面に座る藤原を見つめた。 「……そういう用事だろ、俺を一人で呼び出すなんて」 「ご明察。そういうこと」 「……まぁ、そろそろ来るかなとは思ってた」  深春は座椅子から降り、庭越しに宇治川の見える縁側の方へ這って行くと、そこで三角座りをした。藤原に背を向ける格好になった深春の背中を見つめて、藤原もゆっくりと立ち上がる。  一メートルほど間を空けて座った藤原を、ちらりと深春は見た。  穏やかな目元には、ここ数ヶ月の激務のせいだろうか、やや皺が増えてしまっているように見えた。きびきびと厳しい表情で立ち働いていた藤原の姿を思い出し、深春はふと藤原の背中に掛かっているものの大きさを想像する。 「君のお父さんの件だが」 「……ああ」 「しばらくの間、なにも声をかけてやれず、すまなかったね」 「いや、いいんだ。俺もさ、新しい環境に慣れたいって思ってたとこだしさ……」 「会いたいかい?」 「……うーん……」  父親の顔を思い出そうとした。しかし、その作業はうまくは行かなかった。  父親の顔を思い出せば、それに付随してくるの記憶は、暴力を受けた時のことや、食事を与えてもらえなかったひもじさのこと、そして、自分がいるにもかかわらず女を抱く卑しい声のこと……。  逃げ出しては連れ戻され、常識的な大人に保護されては連れ戻され……そのたび受けた暴行と、父親の理不尽な言葉。  ”お前まで、俺を見捨てていく気か!”  ”どうせお前も、俺を見下してるんだろ!!”  見捨てるも何も、お前が俺を世話しないから駄目なんじゃないか……と、幼心に反論しつつ、何で父親にこんな目に遭わされなければならないのかと、悲しくなった。  母親に捨てられたのは、俺も一緒なのに……。  だからこそ、寄り添って生きて欲しかったのに。  俺だって、寂しかったのに……。  ぽろぽろ、と深春の眼から涙があふれた。藤原は何も言わず、ただ深春の肩にそっと触れた。  深春はうつむいて、ぱたぱたと落ちる自分の涙を見下ろしていた。 「う……えぐっ……う……」  嗚咽を漏らして本格的に泣き始めた深春は、膝を抱えて顔を隠す。藤原はずっとそんな深春の背を撫で、何も言わなかった。  ふと藤原の目に、肩を震わせて泣き続ける深春と、自分の息子の背中が重なって見えた。  ”またそうやって、俺から逃げるんだな”  離婚のことを話した時の、息子の凍り付くような目付きが、藤原の心に深く深く突き刺さっている。遠ざかる息子に、何も、言えなかった。  ――その通りだ、逃げたんだ。家族から。  謝罪の言葉も、言い訳も何も言えなかった。言ってはいけない気がした。  きっと息子も、こうして肩を震わせた夜があったかもしれない。  ――ほかならぬ、自分のせいで……。  寂しい思いをさせた、自分の身勝手さのせいで。 「……ぶじわらざん……」  涙や鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、深春がふと顔を上げた。藤原がはっとして深春を覗きこむと、深春はちろりと後ろを見て、「ディッジュ……」と紙を要求した。  藤原は微笑んで、部屋に備えてあった籠のティッシュケースごと深春に手渡す。盛大な音を立てて鼻を噛み、深春は大きくため息をついた。   真っ赤に泣きはらした顔で藤原を見上げた深春の表情は、打ち捨てられた子犬のようだ。 「……すまないね。でも、いつかは話さなきゃと思っていたことだから」 「いや……そうだよな。そりゃ」 「会いたくは……ない。気になるけど、まだ会えない……」 「……そうだね」  話題を出されるだけで、こんなにも取り乱す。力を手にした深春は、父親を前にして冷静でいられる自信がなかった。  きっと、なにか言葉を交わしてしまえば……そしてそれが、自分にとって傷を抉るようなものであったとしたら……。  ――きっと親父を殺してしまう。  ぽつぽつとそんなことを話す深春の背中は、放っておくと消えてしまいそうに見えた。藤原はまたその背中に手を添えて、深春が消えて行ってしまわないようにと、その体温を確認せずにはいられなかった。 「……どこにいるんだ? おやじ……」 「それも、知らないほうがいいんじゃないかい? 会いに行けてしまえば、君の言うようなことが起こりうるだろう?」 「そりゃ、そうだな……。元気なのか?」 「そうだね、アルコールもすっかり抜けて、体調はいいと聞いている」 「やっぱ、アル中だったんだ」 「そう。あれは自力で治そうと思って治せるもんじゃないからね。日本のどこかの病院に入っておいでだよ」 「そっか……。俺のこと、覚えてるかな……」 「もちろんだ。きちんとした思考ができるようになってきて、君のことをすごく、心配してる」 「え……?」  深春は、弾かれたように藤原を見る。藤原は微笑んで、続けた。 「君は事実上、里子に出されたことになっているから、今後お父様との生活は難しいだろう。実際、今のお父様に養育能力はないからね。体調は戻ったが、これからリハビリと職業訓練と……社会復帰は君が大人になるよりもずっと先になるだろう」 「……そう、なんだ」 「君が大人になって……それでもし、お父様とまた暮らしたいと思える日がくれば、そういう手配はできる。その時は君が、お父様を支えていくような立場になるかもしれないね」 「……」 「もちろんこのまま縁を切ったっていい。たまに面会するだけでもいい。それは全て君次第だ」  深春はなんとも言えない表情で、またうつむいた。 「色々と言い過ぎたね。でもこれが、今我々が君たち親子にして差し上げられることの全てだ。知っておいて欲しくて」 「……ありがとうございます」  思いの外落ち着いた声が、深春から発せられる。 「俺らなんかに、そこまでしてもらえるなんて……」 「俺らなんか、なんて言うな。君の力は、国の宝だ。そんな君の遺伝子を現世までつないでくださった君のお父上だって、国にとっては大切な存在なんだ」 「……。まさかそんなことを、藤原さんみたいなエライ人に言ってもらえる日が来るなんて、おやじも思ったことなかっただろうな……」  深春は伏し目がちに微笑むと、父親を労るような口調でそう言った。  その言葉に、ぴく、と藤原の眉が動く。 「……私は偉くなんかないよ」 「そうかぁ?」  ――君のお父さんと、私のしていることは何ら変わらない……。  そう言いかけて、やめた。  この少年に、何度も何度も裏切りを経験させてはいけない。  この子のことは、しっかりと守ってやらねばならない。  息子に出来なかった分まで……。  深春はぐいと目を拭い、這って座椅子まで戻っていった。そして残っていた野菜をつまんでいる深春を見て、藤原は思わず笑った。 「泣いたら腹が減ったかい?」 「おう、減った」 「じゃあ何か頼んでもいいよ。私もコーヒーが飲みたいし」 「そうかぁ? じゃあ……カツカレー」 「……ここまで来てまた主食かい?」  ほっそりとした体格をしているくせに、物凄い食欲だと、藤原はまた楽しげに笑った。  また鼻を噛んでいる深春のために、仲居を呼んで注文をしてやる。  あらぁ、お兄さん細いのによく食べるのねぇ、と感嘆しつつも嬉しそうな仲居に愛想を振りまいている深春の顔には、やや晴れた笑顔があった。  ――これが我が子への償いになるはずもない。  しかし、今はそう思うことでしか、自分を保てない。  藤原は笑みを乗せた顔をなんとか形造りながら、晴れた空を見あげた。

ともだちにシェアしよう!