310 / 533
7、とある週末
亜樹は共に文学部幼児教育学科に進学した滝田みすずとともに、カフェテラスにいた。
履修登録も無事に終え、大学生活二週間目に突入する今日からは、一般教養の授業がぼちぼちと始まったところだ。
高校の授業が一コマ五十分であったのにたいし、大学は一コマ一時間半という長時間だ。それに慣れるまでが、とりあえず大変だ。
その日は、間にゼミ紹介という時間も挟まっていたため、二人は一限から四限まで缶詰状態だった。まだ気の抜きどころが分からないため、二人はぐったりしながらカフェテラスにやって来て、甘いものでようやく少し回復したところなのである。
「はぁーあ、もう帰るのがめんどいなぁ」
と、みすずは机にぐったりと伏せる。二人は大きなパフェを両端からつついていたのだが、それがすっかり空にしてしまうと、今度は腹が満たされて眠気が襲ってきた。
「せやんなぁ。バスとかがめんどいよなぁ。今までは楽でよかったわ、地下鉄一本やったし、近かったし」
「うちなんかさらに阪急乗らなあかんねんで、もう、朝とか大変」
と、桂に住んでいるみすずは両手で顎を挟むようにして頬杖をつく。
「近所に下宿してる彼氏でもできりゃ、楽になるけどな」
と、みすずはため息混じりにそう言った。
「吉良くんと付き合ってるくせに、何言ってんねん」
と、亜樹はため息を返す。
バレンタインデーにみすずがチョコレートを渡したきっかけで、みすずと吉良佳史は交際を始めている。
しかし、大学に入ってからというもの、学部の違う佳史とはなかなか会えていないのだとみすずは文句を言っていた。
「吉良くん、梅田くんと同じ経済学部やねんけどさ、二人して水泳サークルに入るって言うねん」
「へぇ。ああ、水泳部やったもんなぁ」
「うん。でもさ、水泳サークルなんて、水着の女がうようよおるに決まってるやん! もう、そんなとこでデレデレされてんのかと思うと腹立って腹立って……」
みすずは突っ伏したまま、ばんばんと机を叩いて悶えている。おお、これがヤキモチかと、亜樹は目をぱちぱちさせながら物珍しげに見ていた。
「みすずも入ったらいいやん」
「そんなん、なんかいややん。彼女が後から入ってきたなんてさ、なんか……束縛してるみたいで、カッコ悪いもん」
「そうかなぁ」
「なんか負けた気がしていやや!」
頑固にそう言いはるみすずは、空元気を振り回しているようにしか思えず、見ていて少し痛々しかった。
高校が一緒だったとはいえ、大学に入って新しい生活を始めてしまえば、二人を取り巻く環境は大きく変わってしまう。違う学部、新しいサークル、大人びた先輩たち……。
制服ではないため、思い思いの格好に身を包む若者たちは、好きに自己主張ができるため輝いて見える。特に女子学生は、大学生になった途端に化粧をするため、それでがらりと雰囲気を変える者も珍しくはない。
みすずは、そんな大人びた女の先輩たちに佳史を取られやしないかと不安に駆られているのである。
亜樹は、ふと珠生はどうなのだろうと思った。
ここ二日、連続して珠生の顔を見ることができたため、亜樹はどこかホッとしていた。彼はどこまでも高校の頃と変わらず、淡々と落ち着いている。
飲み会に参加してどうしたこうしたという話も噂も聞こえてこないため、珠生がまだそこまで大学で目立ってはいないということに、亜樹はどこか安堵していた。
きっとそれも時間の問題だとも思ったが、高校と違い、人数も多ければ学校も広い。普段はおとなしい珠生のことだ、しばらくは静かにしているに違いない。
「あーあ……うちも新しい水着でも買って、もっとアピったほうがええんやろか……」
「水着……」
みすずのため息に、亜樹ははたと気がついた。
そういえば、亜樹は水着など持っていないのだ。常盤莉央が水着を持参せよと言っていたが、あれはどこまで本気なのだろうか。
「水着かぁ……」
「ん、亜樹も誰かに水着見せたいの? あ! 沖野くんか!」
「ちゃ、ちゃうわ!! そんなんちゃう!」
「何慌ててんねん。あれ、もう海でデートとか予定しちゃってるわけ?」
みすずはにやりと笑い、正面に座る亜樹の顔を掬うように見あげた。亜樹は顔を赤くして、首を振る。
「ちゃうわ、なんでやねん。ちょっ……ちょっと……そういや持ってへんなって、思っただけやし」
「あれ、そうなん? じゃあさ、一緒に買いに行こ!」
「え、ええ? まだ春やで」
「今から準備しとかな間に合わへんやろ!? ね、行こ行こ!」
「あ、うん……」
「よーし、何かやる気出てきた! そうと決まったらダイエットやぁ!」
「えぇ?」
「亜樹はいいけどさ、細いし。あたし、なんか最近太ってん……」
「そうかなぁ」
「やる気出るように、ちょっと小さめの水着買おっと! そうと決まったら、明日、行こ」
明日は土曜日で、なんだか久々の休日に思えた。まだ新しい環境に慣れておらず、疲れ気味の亜樹は一日眠りたかったが、みすずの勢いに押し負けて思わず頷く。
まぁ、いいか……。
亜樹は、携帯で水着のショップ情報を調べ始めているみすずを眺めながら、ふと、沖縄のことを思った。
修学旅行は欠席したため、沖縄へは行ったことがない。きっとかすかな記憶の中にある厳島の海とは全く違った色をした、鮮やかな海が広がっているのだろうと想像しただけで、珍しく亜樹の心は少し躍った。
明るい太陽の下で見る珠生は、一体どんな表情をするのだろう。何となく想像した珠生の表情は眩しく、輝かんばかりの笑顔だった。
珠生の水着はどんなんなんやろう……と妄想して、にやけかけた自分に、亜樹はぎょっとした。
——へ、変態や! うち……!
亜樹はショートボブの頭をわしわしと自ら乱しながら悶える。
「……あかんあかん! キモっ! キモっ!!」
「亜樹……? どうしたん……?」
またまたはっとして顔を上げると、みすずが気味悪そうに亜樹を見つめていた。
+
同じ日、珠生は斗真とともに、彼の祖母が経営している和菓子屋の新店舗を見にやって来ていた。
外装はほぼ完成していたが、まだ内装や設備が整ってはいないため、本格的にオープンするのは連休明けになるということである。珠生はまだがらんとした店舗内を見回しては、物珍しげに感嘆の声を上げた。
「広いねぇ」
「ほんまやな。俺もこんなに広々させるとは思わへんかった」
斗真の祖母・空井やすよは、まだ七十手前の若々しい老婦人である。孫がバイト仲間にと連れてきた珠生を一目見て、やすよは目を輝かせた。
礼儀正しく珠生が挨拶をすると、やすよはやおら珠生の手を握ってブンブンと振り回す。
「あんたが来れば、絶対若い女の子に評判になるわ! こら、売上アップ間違いないで!」
「は、はぁ……」
「そうやろばあちゃん! 俺もそう思ってん!!」
「でかしたで!! 斗真!」
二人は孫と祖母という関係でありながら、非常によく似ていた。テンションといい、喋り方といい、珠生の扱い方といい、そっくりだ。
やすよはこじんまりとした自宅から、さっさと新店舗の方へと歩いて行くと、まだ工事中のその店を見せてくれたのである。
「あんな古い家はもうさっさと取り壊してな、この新しい店の二階に住むんよ」
やすよは店の外で二階建ての新店舗を見上げながら、満足気にそう言った。まだ奥の方までは入ることの出来ない店の中から二人は外へ出ると、やすよと並んで二階を見上げる。
「ばあちゃんは新しいもの好きやからな」
と、斗真は自分の三分の一ほどしか背丈のない小さな祖母を見下ろして、笑った。
「まぁね。新しい家はええよぉ、気密性も高いし、保温性にも優れてるし、そんでもってオール電化ってのがええわな」
「詳しいんですね」
と、珠生が目を丸くする。
「はははっ、終の棲家を考えりゃ、それくらいは調べるよ」
と、やすよはからりと笑う。
そこが最後の家だとあっけらかんと笑いながら言い切るやすよは、珠生の目にも潔く、格好良く見えた。
この老婦人にとって、死は恐れるものではなく、親しく受け入れているものなのだろう。向こうの世界に、待っている人でもいるのだろうかと、珠生は小柄な割にしっかりとした足腰で地に立っているやすよを見下ろした。
「ローン返すためにも、しっかり働いてや、珠生ちゃん」
「はい。よろしくお願いします。……珠生ちゃん、ですか……?」
「はははっ、あんた可愛い顔してるからなぁ。なかそう呼びたくなっちゃうねんなぁ。ええやろ、雇い主やねんから」
「ばあちゃん、それはパワハラって言うねんで。権力振りかざして下のもんをいいようにすることや」
「ぱわはら? そら、新しい言葉やな。ぱわはらか」
「珠生が嫌がったら、そんな呼び方したらあかんで」
と、斗真が祖母に目新しいワードを教えながらも説教をしている。
「ああ、俺いいですよ。そんな風に祖母にも親にも呼ばれたことないから、何か嬉しいし」
珠生が微笑んでそう言うと、斗真はやや頬を染め、やすよは嬉しそうに目尻を下げて笑う。
「おお、そうかそうかい。あたしゃ自分のことを店のもんには社長って呼ばせようと思ってたけど、珠生ちゃんはやすよちゃんって呼んでくれてもかまへんよ」
「あ、はい。じゃあ、二人きりの時はそうします」
「あっはははは、どきどきするねぇ」
やすよは一人、悦に入っている様子で上機嫌に笑うと、店の戸締りをしてから自宅へと消えていった。
斗真は珠生を見下ろして、笑った。
「何ばあちゃん口説いてねん。何もでぇへんよ」
「口説いてなんかないよ。思ったこと言っただけ」
「お前なぁ、そんなん他の女に言ったらふたりきりの時に襲われんで」
「え、そうかな」
ぎょっとした表情で自分を見上げる珠生を、やはりどうしてもかわいいと思ってしまう。
斗真は条件反射のようにときめいてしまう自分の心臓をなんとかいなしながら、珠生が原付を停めている場所まで歩いた。
やすよの店は、京都市左京区にある下鴨神社のそばだった。鴨川と高野川のちょうど分かれ目あたりに位置するその店には、古くからのお客もたくさんついている。
下鴨神社に行ったことがないという珠生の言葉に張り切った斗真は、帰ろうとしていた珠生を引っ張って、糺 ノ森へと歩を進めた。
青々と茂った大きな木が立ち並ぶその場所は、まるで京都市内ではないように見えた。思いの外高い神気が満ちているこの空間に珠生は感動し、大きく深呼吸をする。
もうすぐ夕暮れということもあり、境内の中へ入ることは出来ないが、この森の空気を吸えただけで、珠生は満足していた。
「まあ、神社にはいつでも入れるからな」
と、斗真は暮れかけた空と暗くなってきた森のシルエットの中に浮かぶ鳥居を見上げ、そう言った。
「そうだね」
「なぁ、ここにもなんか、見えるんか?」
と、斗真はちらりと珠生を見てそんなことを尋ねる。
斗真は、優征とともに珠生の力を知る、数少ない友人の一人だ。学校で襲われた事件以来、何も話をしていなかったことに、珠生は今気がついた。
心配そうな斗真の目が、茜色の空を映している。珠生は微笑んだ。
「……見えなくもないけど、悪いものは何もいないよ」
「そう、なんや。今までもいっぱい、こわいもん、見てきたん?」
「まあ、色々見たけど……。そんなにたくさん、怖いものはないんだ。そのへんにいるのは、害のない奴らばかりだし」
「へぇ……」
「学校で見たやつは、気持ち悪かったけどね」
「せやなぁ」
「斗真にも見えたんだっけ」
「うん。……しばらく夢に見てあかんかったわ」
そう言って笑う斗真を見上げて、珠生は急に申し訳無くなってきた。あんなものを見たのは、珠生が斗真たちと時間を長く過ごすようになったせいで生じた影響の一つなのだから。
「ごめんね、斗真」
「なにが?」
「多分、俺といなかったら、あんなもん見なくて済んだと思うんだ」
二人は糺の森の奥から取って返しながら、そんな話をしていた。
「斗真は覚えてないと思うけど、前記憶をいじられたときも、俺といたから面倒事に巻き込まれたんだよ」
「……ああ、なんか先輩が言ってたな。覚えてないから実感ないけどさ」
「できれば、あんな目に遭いたくないだろ?だから、あんまり俺に近づかないほうがいいような気がするんだ。バイトのことも、今更ながら実はちょっと迷ってる」
「そんなん、気にせんでいいよ! 別に俺は、あんなもん見たからってトラウマになるわけじゃないし、あぁ、なんかこんな世界もあるんやなぁってくらいで別に気にしてへんし……!」
無意識に珠生の腕を掴んでいた。
珠生は薄暗がりでもきらめく瞳で、斗真をじっと見上げている。
「だから、ええやん。そんな寂しいこと言うなよ。優征だって全然気にしてへんし、今までどおり、俺らと一緒におろうや」
「……ありがとう。優しいね、斗真は」
にっこりと笑った珠生の笑顔に、斗真はまたくらりとめまいを覚える。
——あかん! 好き!! どないしょ、何でこんなにときめいてしまうねん!
——俺は新歓で知り合った英文学部の女の子と明日デートすんねん! なのに、なんでこんなに珠生はかわいいんや!
身体が勝手に、珠生の上腕を両手でつかむ。まっすぐに自分の方へと向き直らせた珠生を見つめて、斗真はばくばくと早鐘を打っている心臓の音を耳にしていた。
「斗真?」
「……」
——あああああぁ、かわいい!! かわいい!!! チューしたい……!!!
……って、おいおいおい、何を考えてんねん、俺! 阿呆か! 珠生は友達や、男や! なんぼ顔がきれいやいうても、男や!! 友達やねんで!!
「どうしたの?」
——うわぁああああ!! そんな綺麗な目で見つめるな! ほんまにチューしてまいたくなるやんん!! 何でこんなに色っぽいねん、こいつは。何でこんなに……!!
「斗真、斗真」
「……な、なに?」
「……鼻血、出てる」
気づけば、ぽたぽたと地面の上に滴下血痕が。珠生はなんとも言えない顔をして、斗真を見上げている。
斗真は気を引き締めるように唇を真一文字に引き結ぶと、「ティッシュ、ある?」と珠生に尋ねた。
ともだちにシェアしよう!