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8、彰と葉山の休日
そのまた同じ日、彰は講義の後、北山にある葉山の官舎に来ていた。
莉央がああ言ってからというもの、葉山たちは見回り等の仕事を五〇パーセントカットされていたため、帰宅が早くなっていた。
あれから日数も経過してしまっているために、水無瀬文哉の追跡はもはや困難であると考えた莉央は、京都府内の見回りの仕事を減らす、という命令を下したのであった。
――どうせ姉が動けないんじゃ、弟は何も出来ないわよ。
腕組みをして仁王立ちになり、会議でそう言い切った莉央の言葉は正しいと思う。しかしそうは思っていたとしても、職員各々がこの一件に関して重い責任を感じているということもあり、皆手を緩めることができないでいたのだ。しかしそんな空気を、莉央はばっさりと斬り捨てたのである。
『無駄な労力は使わない。その力は、いざというときのために使うべきだわ』と、きっぱり莉央は言い切った。
というわけで、見回り班の人数を半分にし、その残りはむしろ修行に当てるようにとの命令が下ったという次第である。
そんなこんなで、十八時頃という理想的な時刻に帰宅してきた葉山と同じ頃、彰も官舎にやってきたのであった。
どさ、とテキストの詰まった重たげな鞄を床に置くと、キッチンに立っている葉山を見る。
「何作ってるの?」
「パスタ茹でてるだけ」
と、葉山は前髪をクリップで留めて長い髪をおだんごにまとめ、Tシャツにコットンパンツという色気のない格好でそう言った。
「パスタソースがあるし」
「それじゃ野菜が足りないんじゃない?これも炒めて入れよう」
彰は葉山よりも慣れた手つきで冷蔵庫から野菜を取り出し、てきぱきとカットして炒め始めた。
葉山は自分よりもキッチンの使い方が手慣れてきた様子の彰を見上げて、眉を下げる。
「手際いいわね。ごめんなさいね、こんなズボラな女で」
「別にズボラとは思わないけど。普段忙しいんだししょうがないって」
「忙しいのはあなたも一緒じゃないの」
「そうかな」
そんな話をしつつも、彰は小気味いい音を立ててキャベツとベーコンを炒め、レトルトのパスタソースと和えている。
結局茹で上がったパスタも彰がバターを和えて皿に盛り、葉山は缶ビール片手にダイニングで待つ格好になっている。まるで立場が逆だわ、と葉山は自分に軽く呆れた。
「おいしそー。いただきます。あ、彰くんももう飲めるのよね?」
「あ、うん。そうだったな」
「ようやく未成年も卒業か」
彰は四月十日生まれで、すでに二十歳を迎えていた。葉山は冷蔵庫から缶ビールを取り出して、彰に渡す。
「ありがとう」
「遅ればせながら、お誕生日おめでとう」
「ははっ、なんか照れるな」
彰は少しばかり頬を染めて、葉山が掲げた缶ビールに自分の缶をぶつける。ぐびぐびと喉を鳴らしてビールを煽る葉山を、彰はしげしげと見つめ、自分も一口ビールを飲んだ。
「僕、酒癖が悪かったんだって。昔」
彰はパスタを口に運びながらそう言った。葉山ももぐもぐと口を動かしつつ、彰の顔を見る。
「覚えがないような言い方ね」
「うん、だって覚えてないんだもん」
「あぁ……じゃあ相当悪かったんでしょうね」
「でも千珠ほどじゃないと思うんだよね」
「千珠さま、そうなの?」
「彼はかなりの下戸で、一口で酔う上に暴れるんだ。それですぐ、寝ちゃうわけ」
「へぇ……珠生くんは大丈夫かしら……」
「さぁね。沖縄で飲ませてみよう」
「国家公務員の集団の中でそんなことができると思ってるの? 彼はまだ未成年よ」
「どうせみんな飲んでわけわかんなくなるだろ?」
「……そうかもね」
顔色も変えずにビールを飲み干した彰を見つめて、葉山は小首を傾げる。
「あら、もう飲んだの。現世ではお酒に強いようね」
「うん、幸いね。この身体にはアルコール分解酵素がちゃんと存在しているようだ」
「面倒くさい言い方。もう一本飲む?」
「うん」
葉山は笑って立ち上がると、彰と自分用にビールを二本持ってくる。そしてつまみに、と買い置きしていたナッツの缶を開けた。
彰はカウンター越しに、透明な器に盛られるナッツを見つめ、そして上機嫌な葉山の顔を見た。
「葉山さん、ここ最近機嫌がいいじゃないか」
「そう?」
「仕事が減って、気が楽?」
「……そうね、そうかも」
葉山はそのままソファの方へナッツとビールを持って行くと、カーテンを引いてからどさりとソファに腰掛けた。食事を終えた彰もそれに倣い、ソファの方に腰掛ける。
葉山はL字型のソファに脚を投げ出し、背もたれに肘をかけて彰の方を見た。
「私は藤原さんの直属の部下だもの、あの人が働いてる時に、私がのんびりするわけにはいかないでしょ」
「僕のほうが近いけどね」
「またそうやって張り合うんだから。……さておき、藤原さんがようやく一息つけるようになったんだもの、なんだか私も気が抜けちゃって。降格、とは言ってたけど、逆に良かったんじゃないかな。常盤が来て、なんだかようやくあの人の肩から責任が分散した感じがする」
「……そうだね」
「私ももっとしっかりしなきゃ。藤原さんに甘えてた」
「それは僕も同じさ。学生という身分が、こんなにも煩わしいと思ったことはなかったな」
「あなたは医者になるのよ。宮内庁に入るわけじゃないんだから、自分の人生も大切にしないと」
「業平様にもそう言われたよ。……自分の人生、か。佐為であったころは、そんな事考えたこともなかったのに」
「そうなの?」
「陰陽師衆が僕の人生そのものだった。あの組織のためならなんでもした。それこそ、たくさん人も殺したし、拷問もためらわずにやってきたというのに」
「……そう」
「僕は、水無瀬文哉に成り代わっていた妖にさえ動揺を誘われたんだ。……弱くなったもんだ」
未だに、文哉を取り逃がした時のことを彰は吹っ切れずにいた。あの時、自分がもっと油断せずにいたら……もしくはもっと厳しい目でいつも文哉を見張っていたら、あんな事態は起きなかったのだ。
「……悔しいよ」
そう言ってうつむく彰の頬に、葉山の指が触れる。顔を上げて葉山を見ると、彼女は意外なことに微笑んでいた。
「それでいいのよ。あなたは」
「え?」
「あなたの中に芽生えたそういう優しさが、あなたをもっと強くするのよ。ただ非道なだけの男なんて、魅力ないしね」
「……そうかな」
「彰くんがあんまりそんな顔してたら、何か私まで責任感じちゃうわ」
「え、なんで?」
「だって、私を好きになったから、弱くなったって言ってるんでしょ?」
「あ……、そう聞こえた?ごめん」
「いいけど。でも、実際そうなんでしょ」
「まぁ、そうだね」
彰は苦笑して、葉山の手を握った。繋いだ手を自分の太ももの上に置くと、葉山は彰の方へ向き直ってソファの上であぐらをかく。
「あなたが言うような強さを取り戻したいなら、私を嫌いになればいいんじゃない?」
「そんなの、できるわけないよ」
「分かんないわよ。もし私が今、彰くんにひどいこと言ったら、嫌いになれるかも」
「何いってんだよ、酔ってんのかい?」
「これくらいで酔わないわよ。……あんたが悩んでることは、そういうことじゃないの」
「……そうなるのかな」
「私にはそう見えるわ。佐為様は、人を愛する気持ちが分からなかったから、人の痛みも分からなかった。でも彰くんは、人を愛する気持ちを知って、人の痛みが分かるようになった。そのせいで弱くなったっていうんなら、その愛情を断ち切ればいいってことじゃないの」
「いやだよ、そんなの。やめてくれよ、そんな事言うのは」
彰はややムキになって、静かな声でそんなことを言う葉山を見つめた。葉山はじっと彰を見つめ返したまま、こう言った。
「じゃあもう、そんな顔しないで。あなたは悪くないわ。弱くもない。藤原さんだって、何も気にしておられない」
「……」
「あなた一人で動いてるわけじゃないの。力のある術者が現世にもたくさんいるの。もっと私達を信用して、前を見て」
「……あ」
「私ことを嫌いになれないんなら、もう諦めて、そういう自分を受け入れなさい」
「……」
葉山の真っ直ぐで揺れのない瞳に、自分の不安げに揺らめく瞳が映っている。そんな彰をどこまでも包み込むような大きな安堵感が、彰の胸の中に広がっていく。
「……そうだね。その通りだ」
彰は微笑むと、自分もソファの上であぐらをかき、まっすぐ葉山の顔を見つめた。
「ありがとう。葉山さん」
「……別に、あんたがいつまでも元気ないから、こっちも調子が出ないだけ」
葉山はつんとして、ソファから脚を下ろしてビールの缶を取った。ぐいと一口ビールを飲むと、ややぬるくなった苦い液体が、喉を潤す。
「葉山さんは、本当に大人だな。僕のほうが人生経験一人分多いはずなのに」
「それ、五百年前の人生経験でしょ。きっと現代に合ってないのよ」
「えっ、そうなのかな」
「きっとそうよ。働き詰めの三十路女なめんじゃないわよ」
「ははっ、またそんなこと言って」
彰は笑って、またビールを飲む。葉山はぽりぽりとナッツをつまみながら、ソファを降りてラグマットの上に座り込んだ。
「いい忘れたけど明日はまた結婚式よ。二次会だけだけど、またみんなに何を言われるやら」
「付いて行ってあげようか」
「結構よ」
「早く結婚したいの?」
「いいえ、今はそれどころじゃないわ」
「きっぱり言うなぁ。僕、もう二十歳だし結婚できるのにさ」
「まだ学生でしょ」
「卒業するまであと三年もあるんだよ。葉山さん、三十四歳になるよ」
「四年の間違いでしょ」
「いや、僕、飛び級の審査に通ってるから、一年短縮できるんだ」
「え? そうなの? な、なんでまた……」
「あんまりのんびりしてると、葉山さんが怒るんじゃないかと思ってさ」
事も無げにそんなことを言う彰を、葉山はぽかんとして見あげた。ピスタチオを美味そうに食べていた彰は、葉山の目付きに気づいて手を止めた。
「何?」
「な、なんか私が急かしてるみたいじゃないの!? いいわよ、もっとゆっくり貴重な学生時代を過ごしておきなさいよ!」
「何いってんの、僕が勝手にしただけだ」
「で、でも……」
「父はああ言ってさ、学費頑張って稼いでくれてるわけだけど、それも一年分減ったら楽だろ?」
「あ、ええ……まぁ、そうね」
「それに、僕なら五年でも余裕なのさ」
「……ほんとに何でもできて嫌味な男ね」
「それに、僕は早く葉山さんと結婚したいんだ。社会的にも、きちんと認められる形で葉山さんを守って行きたい」
「……えっ」
彰は微笑んで、ラグマットから自分を見上げる葉山を見つめた。
「……あなた、まだ本気なの?」
「当然だろ。僕は狙った獲物は逃さないんだ。胃袋も掴んだようだし」
「……」
「何なら、いわゆるできちゃった結婚ってやつでもいいんだけど」
彰はそう言うと、するりとラグマットの上に降りて葉山に顔を近づけた。葉山は真っ赤になって、ぐいぐいと彰の顎を押し返す。
「ば、馬鹿なこと言わないでよ!! 二十代のテンションに私を巻き込まないで!」
「テンションか、まぁ確かにそうだよね。あれはテンション上がってないと無理だよね」
「私にも立場ってもんがあんのよ! 後輩だっているし! 親にだってなんて言ったらいいか!」
「冗談だって、嫌だなぁ。それならもう、早く僕と結婚してよ。籍入れてたら、別にいつ子どもができてもオッケーだろ?」
「だってあんたは学生で……!」
「それもあんまり関係ないじゃないか。……あ、そうなれば父から学費をむしりとるなんてことしなくても済むな……。今までの給料で自分で出したほうが気が楽だし……」
葉山に迫りながら、ぶつぶつと何やら算段し始めた彰の頭の中から、コンピュータの電子音が聞こえてきそうだ。葉山は彰の腕から抜けだして、もう一度ソファに腰掛ける。
「だから勝手に先走らないで!」
「僕は三年前から先走ってるよ」
「先走りすぎよ!」
「もう諦めなって、僕じゃ不満?」
「不満なんて、ないけど……!」
「じゃあ何が嫌なの?」
「嫌じゃないわよ」
「じゃあ早く結婚しようよ」
「……」
ソファの下からにこにこと楽しげに葉山を見上げる彰を見ていると、もうこのままYESといってもいいかなという気になってくる。
――あれ、今学生のこの子と結婚したとして、私が世帯主で彼を扶養するってことになるのかしら。それでも苗字は変わっちゃうわけ? 斎木彩音……か、悪くないわね。
そこまで考えて、葉山ははっとする。
「ちょっと待ったちょっと待った! いい加減にしなさい!」
「三年も待ってるよ」
「もう……! 分かったわよ、この一件が片付いたら、考えましょ」
「ほんと?」
彰の顔がまた一段と輝く。普段はあんなに偉そうに余裕綽々の顔をしているくせに、二人でいる時にこんな素直な笑顔を見せられては、そのギャップにくらりと来てしまう。
「……ほんと」
「嬉しいなぁ。絶対だよ」
「分かってるわよ」
「よし、やる気出てきた」
「今やる気出しても、来週はどうせ沖縄よ」
「あ、そっか。楽しみになってきた。葉山さんの水着も見れるわけだし」
「……着ないかもしれないじゃない。それに今更水着なんて……」
どうせ裸を見慣れているくせに……と葉山は心中で呟く。
「葉山さんの裸は見てるけど、水着姿はまた違うじゃないか」
と、彰はまるで心のなかを見透かしたようなことを言う。
「……恥ずかしくなってきたわ」
「じゃあ今、着てみせてよ?」
「何でそうなるのよ。いやよ」
「つまんないなぁ」
「彰くん、あなた酔ってるでしょ」
「そんなことないよ。……あ、でも他の人に葉山さんの水着見られるのはちょっと嫌な気もするな……」
「もう、ほんと面倒くさいわね! とりあえず今は着ないし、結婚の話もおしまい!」
「はいはい。あ、僕、ビール飲んだからバイクで帰れないな〜。泊まってもいい?」
「何甘えてるのよ。っていうか最初っからそのつもりだったくせに。毎週末ここにいるじゃないの」
「ははは、バレた?」
「あんたやっぱり酔ってんじゃないの! しかも何甘えてるのよ!」
彰はソファに座った葉山の膝に顔をうずめて、眠たげに目をとろんとさせている。先ほどの結婚への追い込みも、アルコールのせいだろうか。
「鳳凛丸が離れたがらなかったわけがわかるなぁ、葉山さんの膝、気持ちいいから」
「全く……寝るならベッドで寝てよね」
「寝る? ああ、そうしよう、うん」
やおら彰は立ち上がって、葉山をひょいと抱き上げる。ぎょっとして暴れる葉山を物ともせず、隣の寝室へと運び、ふわりとベッドの上に葉山を下ろした。
「寝るってそう言う意味じゃないわよ!」
「……いいじゃん、もう遅いし寝よう」
「まだ二十時じゃないの!」
「そっか、じゃあいっぱいできるね」
彰は葉山を組み敷いて、唇を重ねた。ふわ、とアルコールの匂いが葉山の鼻孔をくすぐる。
「……酔うとこうなるのか……。気をつけないといけないわね」
「僕は酔ってないよ」
「よく言うわ」
「好きだよ、葉山さん……」
「名前で呼ぶんじゃなかったの?」
「あ、そうだった」
彰は葉山の髪を解き、Tシャツをたくし上げながら微笑む。
冷たく整ったその顔に浮かぶ優しい笑顔に、どうしても、負けてしまう。葉山は気が抜けてしまい、諦めて自分から彰の首に腕を絡めた。
「……彩音。好きだよ、大好きだ」
「……そう、ありがとう」
「結婚しようね……」
「その話はまた今度よ」
「はははっ、油断も隙もない」
「それはこっちの台詞よ」
楽しげに笑う彰の顔を見上げていると、どうしても顔がほころんでしまう。葉山の顔に笑顔が浮かぶのを見て、彰はまたことさら嬉しそうに笑うのだ。そんな顔を見ているだけで、葉山は幸せだった。
「彩音……」
耳元で囁く彰の声が心地いい。アルコールのせいで体温が上がっているのか、彰の手はいつもよりもずっと熱っぽかった。
ベッドが軋む。
薄暗いベッドルームの中で、楽しげな笑い声を上げながら二人の身体が絡まり合う。
笑い声が、次第に熱い吐息へと変わっていった。
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