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9、研修旅行前日
木曜日。
珠生は掲示板を見に、一号館へとやって来ていた。突然の休講でぽっかりと空いた時間、掲示板の付近には、人気が少ない。
明日から沖縄へ研修へ行くにあたり、金曜日の授業に休講が出ていないかと確認しに来たのである。
「うわ、すごいな」
やる気のない教師が多いのか、早めに連休に入りたいのか、金曜日の授業は軒並み休講表示がずらりと並んでいる。真面目な珠生はちょっとホッとして、これで心置きなく旅立てると安堵した。
今日は夏日だ。
さわやかな風が吹いている割に、太陽はここ数日になく元気いっぱいに照り輝いている。珠生は久しぶりに半袖になっており、白い腕を晒していた。白いTシャツの下にピンクのタンクトップの裾をのぞかせて、ベージュのパンツに白いスニーカーと、今日も全体的に珠生は白い。斜めがけにした大きめの鞄の色だけはキャメルである。
「お前、春先は特に白いな」
上の方から声がした。振り返ると、本郷優征がそこに立っている。
「ああ、優征。久し振りだね」
「おう。お前新歓にも来てへんかったし、学内でも見ぃひんし、何やってんねん」
「真面目に勉学に勤しんでるけど」
「相変わらず行動が地味やな」
と、多少呆れたように珠生を見下ろす。
優征は少しばかり伸びた髪の毛をワックスで立ち上げ、爽やかなスポーツマンらしい格好をしていた。形の良い額やくっきりとした眉が、優征の表情を精悍に見せる。
優征は、スポーツブランドのマークが大きく入った小洒落た白いポロシャツを着ており、足元はジーンズに黒いスニーカーを履いている。ただそれだけの格好だというのに、長身でがっちりとした体格をしている優征は、それだけでまるでファッション誌から抜けだしてきたように完璧なプロポーションだ。小柄な珠生には、ややそれが羨ましく思えた。
「私服だと、優征ってほんと大人っぽいね」
「そうか? まぁ、お前に比べたらな」
優征も休講だったらしく、二人は何となく連れ立って学内を歩いた。紙パックのコーヒーを買い、芝生が青々として美しい中庭のベンチに腰を下ろす。荷物が多い自分と比べ、えらく軽装な優征を不思議に思っていると、その表情からそれを読み取ったらしい優征は言った。
「荷物は全部部室に置いてんねん」
「ふうん。部活はどう?」
「またペーペーからやり直しやからな、びしびしシゴかれてんで。まぁ、そんなんもたまにはええけどな」
「そっか、確かにいい顔してるよ」
「そうか? ま、単位一個でも落としたら退部らしいから勉強もサボられへんし、確かに気は引き締まるかな。斗真は阿呆やから、気をつけといてやらなあかんけどな」
「ははっ、そうだね」
「お前も元気そうやん。あいつとも仲直りしたんか?」
「あ……うん、まぁね」
「力……使えへんって言ってたのはどうなったん」
「相変わらず。でも、何も見えなくなったわけじゃないらしいから、ちょっと安心してる。明日から数日みっちり修行だし、少しはまた回復するかもしれないし」
「連休に修行? へぇ、お前らも大変やな」
「上司が変わってさ……なんか急にあっけらかんとした集団になったような気がするよ」
「上司? あぁ、宮内庁の……やっけ」
「うん。まだ二十七、八歳の……認めたくはないけどすごい美人。頭はいいみたいだし、強いらしいけど、性格がちょっととんがってる」
「へぇ〜ええなぁ。そういう女めっちゃタイプや。スタイルいいん?」
「うん。脚も長いし、胸も大きくて……それを見せつけるような格好してるな、いつも」
「うわ、めっちゃいいやん。また紹介してや」
ちょっと嬉しそうな優征を見て、珠生は苦笑した。
「いいけど、優征って年上もいけるんだ」
「おお、十五歳上くらいまでなら余裕やな」
「なんで彼女作らないの?」
「彼女……なぁ」
優征はちょっと口元を引きつらせ、ふいと珠生から目を逸らす。
「別に……今はそういう気分じゃないっていうか。ま、作ろうと思えばいつでもできるし」
「さすが、言うことが違うよ」
「いやいや、お前かてそうやん」
「いや……俺はもう、女の人とは付き合わないと思うから」
「……そ、そっか」
苦笑しつつそんなことを言う珠生の横顔を見て、優征ははたと言葉を切った。それ以上何も言うことができず、ずずーと紙パックのコーヒーを啜って沈黙をごまかした。
+ +
その日、舜平は久しぶりに北崎悠一郎といつもの居酒屋にいた。
四回生の頃、今の職場にアルバイトで入り始めた頃、悠一郎は長く伸ばしていた髪をバッサリと切った。が、今はまたその髪も伸びてきたらしく、今度はくるくるときついパーマをかけている。いつも常人とは少し違った出で立ちをしている悠一郎を、今日も舜平はしげしげと観察した。
「連休は出ずっぱりやねん。せやし、今日くらいは飲みに行っとかなと思ってさ」
と、悠一郎は充実した笑みを浮かべてそう言った。
「元気そうやな」
「うん。まぁ、まだまだ仕事じゃ怒られっぱなしやけどさ、ちょっとずつ楽しくなってきたところや」
「へぇ、よかったやん」
舜平は悠一郎にビールを注いでやりながら、にこやかにそう言った。クリスマス展示ぶりに再会した悠一郎であるが、確かにあの頃よりも少しばかり落ち着いている気がする。
「お前は? 院生って忙しいん?」
「うん、まぁ雑用がな。いろんな教授の使いっ走りやな」
「へぇ」
「実験の手伝い、授業の手伝い、学会の付き添い、データ集め……後はそうやな、教授の悩みを聞く」
「悩み? てかお前の先生って、珠生くんのお父さんやんな」
「そうや。だから大概悩みといえば珠生のことやねんけどな」
「あの子がお父さんを悩ませるんか? 想像できひんな」
「大したことじゃないねん。小さい頃に離婚してはるから、負い目があるみたいでな。ちょっとしたことを気にしたはんねん」
「へぇ、大変やな」
「今朝は珠生に無視されただの、昨日は帰宅が遅かったから口を利いてくれなかっただの。最近帰りが遅いからどうしているのか、バイトでも始めたのか……等々」
「可愛いもんやな」
「親子揃って世話がやけんねん」
と言いつつ、舜平は楽しげにそんな話をしていた。悠一郎は笑って、目の前にある天ぷらに箸をつける。
「珠生くん、元気か?」
「ああ、元気やで。会ってへんの?」
「うん、やっぱ年度初めは忙しいわ。もう少し落ち着いて、休みでも取れりゃあ会いたいねんけどなぁ」
「そっか」
「お前は会った?」
「うん、ここ一ヶ月は何回か……」
あの一件以来、珠生は頻繁に舜平と会いたがった。あの時の別離がよほど不安だったのか、ちょっとした時間の合間を縫ってでも、珠生は舜平と過ごす時間を欲しがるのだ。そんな珠生の誘いを断れるはずもなく、舜平はちょくちょく珠生の自宅へ通っていた。セックスをするときもあれば、のんびりと食事を取ったり、ソファに並んで座ってテレビを眺めたりする日もある。
珠生に求められている。そういう実感はある。しかし、気を遣わせてしまっているのではあるまいかという気持ちがなかなか拭えないのも事実だった。
「……あいつも大学生や。早いもんやな」
「あ、そっか……。いいねぇ、今度みんなで飲みに行こう」
「そうやな……。けどまだ未成年やからな。ほいほい誘ったらあかんで」
「わかってるって」
二人はめいめい近況報告をしながら食事を取り、くいくいと酒を飲んだ。悠一郎は結婚式場の現場で見てきた目新しいネタのあれこれを、面白おかしく舜平に話して聴かせる。舜平はそれを聞いて笑いながら、悠一郎が本当にカメラマンとして働いていることを改めて実感していた。ついこの間まで、一緒にサッカーをやっていた同級生だったのに。気づけば全然違う世界へと歩を進めているのだから不思議である。
そして今こうして二人が改めてつながっているのは、間に珠生を挟んでいるからだということに、舜平は改めて気づいた。
「そういやさ……お前、今も珠生くんと付き合うてんの?」
「え?……あぁ、まぁ。そうやな」
ふと、聞きにくそうにそんなことを尋ねてきた悠一郎に、舜平はもごもごとそう答えた。悠一郎はへぇ……と呟いて、ちびりと焼酎を舐める。いつの間にかビールが焼酎に変わっていた。
「大学入って心配なんちゃう? あの子が女の子にモテへんはずないし」
「いや……。あいつ、最近むしろ男にモテ初めてるらしくて、今後の成長が心配でしゃあないわ」
「そうなん? まぁ確かに、珠生くんはかわいいからな。お前との写真とった時思ったけど、あの子のあの異様なエロスはどっから出てくんねやろう」
「異様なエロスって」
と、舜平はちょっと笑った。
「普段はおとなしくて可愛い感じやろ。そら女子にモテるのは分かるけど、男まで引っ張り寄せるのはやっぱり尋常じゃないわな」
「まぁな」
「お前らのきっかけはなんやったん?」
「きっかけ……?」
きっかけとは、いつだっただろうか。
青葉の城で初めてあの姿を見た時か。
大戦の時、返り血に塗れながら死体の山の中に立っている姿を見た時か。
僧兵の呪いで傷ついた千珠に、初めて口づけをしたときか……。
――あれか、千珠の生まれ故郷を供養しに行った時、あいつは俺を誘った。
思えばあの誘惑は、自分を大切にしすぎる光政を遠ざけるための、千珠のちょっとした作戦に過ぎなかった。しかしあの日見た人間の姿の千珠と、陽の光を吸って光を纏いながら鬼の姿に戻る、夢のように美しい刹那を目の当たりにしたあの瞬間、舜海はすでに千珠の虜になっていた。
生意気な口調で自分を煽りながらも、快感をこらえ切れずに悶える美しい千珠の姿。あの日から、確実に何かが狂い始めたのだ。
「……きっかけか」
「や、ええねんけどさ」
「はは、もう忘れてしもたわ。えらい前のことやから」
「そっかそっか。野暮なこと聞いたな」
あの日のことを、珠生は覚えているだろうか。舜平はぼんやりとしながら焼酎を一口飲んで、ため息をついた。
「俺のことはもういいやん。お前はどうやねん、そっちの方は」
「もうそれどころちゃうからなぁ。ま、おもろいネタ何もなくてすまんけど」
「そっか。ま、これから楽しみにしてるで」
「へいへい」
二人はまたしばらくサッカー談義に花を咲かせた後、明日から連勤だという悠一郎の都合に合わせて早めに店を出た。舜平も、明日から沖縄での研修旅行である。
「鴨川行こかぁ」
と、やや酔っ払って気持ちよさそうにしている悠一郎が、そんなことを言い出した。
北大路駅のそばで飲んでいた二人は連れ立って西に進み、今度は各々の家族の近況について話しながら、少しばかり肌寒くなった夜の道を歩いた。連休二日前の夜だが、街中はすでにどことなく浮き足立っているように感じられた。
早めの連休を謳歌しているような姿の若者も目立ち、大学の多い北区は活気がある。
「鴨川やったな、俺が珠生くんに目ぇつけたんは」
「ああ、せやったなぁ」
「お前がタイミング良く来ぇへんかったら、俺はあの作品を撮れへんかった」
「そうやな。感謝しろ」
「してるしてる。お前に足を向けて寝られへんわ」
「旅行行った時、思いっきり脚向けて寝てたやん」
「そうやっけ」
悠一郎はすっとぼけながら、斜面をおぼつかない足取りで下って河川敷へ出た。舜平もその後に続き、ひょいと身軽にその隣へ降り立った。
河原には、ちらほらとカップルがいる程度で、そんなに人は多くなかった。
二人は何となく北の方へ歩を進めつつ、今度は高校時代のサッカー部の面々の近況について話しあったりしていた。付き合いの長い二人に、話題は尽きない。
「あ、ここここ! 明日の現場やねん!」
北山付近まで上ってきたところで、悠一郎が急にテンションを上げてそう言った。見あげた先には、お洒落にライトアップされた結婚式場がある。
「へぇ、こんなとこに式場があんねんな」
「おしゃれやねんで。夜はレストランもやってるって」
「ふうん、どれどれ、ちょっと見ておいてやろう」
そう言って、舜平はがさがさと芝生を踏んで斜面を身軽に登っていく。やや千鳥足の悠一郎は、手をついておっかなびっくりついてきた。
「へぇ〜きれいやん。高そうやな」
「結婚するって金かかんねんなぁ。俺全然知らんかったわ」
と、悠一郎は腕組みをして明日の現場を見上げている。
ライトアップしているものの、今日は結婚式が行われている様子もなく、ひっそりとしている。その隣りのレストランから、微かに音楽が漏れて聞こえてきた。
「まぁ、予定もないし関係ないけどな」
と、舜平。
「俺も俺も」
と、悠一郎も続く。
「さて、俺は北山まで歩いて地下鉄に乗って……舜平は?」
「俺も国際会館まで行って兄貴に迎えに来てもらうねん」
「そっか。ほんなら駅まで行こか」
そう言って踵を返しかけたところで、ふと舜平は立ち止まる。
――珠生の匂い……?
それを嗅ぎとった気がしたが、いやいや気のせいだろうと、首をふりふり悠一郎と歩き出しかけた。
「舜平さん?」
「え?」
紛れも無い珠生の声が、背後から聞こえてくる。
同時に振り返った舜平と悠一郎は、いやに身体のおおきな男と並んで、原付を押し歩いている珠生を見て目を丸くする。
「おお!! 珠生くん!」
「わぁ、悠さん。髪型変わってて分かんなかった」
珠生と歩いていたのは、大柄なクラブ系の格好をした男、楪正武である。正武は、舜平と悠一郎を見比べて小首を傾げたが、珠生に何か説明を受けたのか、礼儀正しく一礼した。
「二人で飲んでたんだ」
「そうやねん。久しぶりやなぁ、顔が見れて嬉しいわ」
と、悠一郎は素直に目尻を下げて喜んでいる。ちらりと舜平を見上げる珠生と目が合って、舜平はこっそり微笑んだ。
「こちら高校から一緒に進学した楪正武。貴重な同じ学部の友達」
と、珠生は舜平と悠一郎に正武を紹介した。正武はぺこりと頭を下げて、「初めまして」と言った。
「君も大きいな、バスケ部?」
と、舜平が問うと、正武はきりりとした顔を舜平に向けて頷いた。くるんくるんとカールした髪が可愛らしく、鋭い顔つきと合っていないところが親しみを持てる。
「はい、そうです」
「優征と斗真とも知り合いなんだよ」
と、正武に向かって珠生がそう言った。
「そうなんや。さっきまで、みんなでゲームしとったんですよ」
と、正武は共通の知り合いがいることに緊張をほぐしたのか、そんなことを言った。
「何人かはまだ残ってるけど、俺と沖野は明日用事あるしって、帰ってたとこで」
見た目の割に生真面目な口調だ。悠一郎はにこにこしながら、「そうかそうかぁ。いっぱい友達できたんやなぁ」と親戚のオジサンのようなことを言っている。
「うん、まぁね」
「……ほな俺、地下鉄なんで、ここで」
と、正武が一礼して行ってしまいそうになるのを、慌てて悠一郎も追いかける。
「あ、俺も地下鉄やねん。すぐそこやし一緒に行こうや」
と、親しげに声をかけた。
「ほな、珠生くんのこと頼んだで! じゃな!」
何を頼まれているのか不明だが、悠一郎は明らかに気を使って先に帰っていった様子である。珠生に向かって手を振る二人に、舜平も軽く手を上げて応えた。
「……お前はでかい友達が多いねんな」
「うん、華奢って馬鹿にされる」
「そうやろうな」
珠生の原付を見て、舜平はしゃがみこんだ。
「えらい可愛いのに乗ってんねんな」
「うん。安かったし、軽いしね」
と、珠生はぽんぽんと黒と白のツートンカラーの原付を軽く叩いた。
「そっか。ついでにバイクの免許もとったらええのに」
「そうだなぁ、まぁ夏休みくらいには行こうかな」
そんな話をしつつ、珠生の家の方向に歩き出す。
「まだ荷造りしてないんだよね」
「明日は早いやろ。大丈夫か?」
「まぁ、そんなに荷物もないし……。あ、父さんに何も言ってないや」
「おいおい、そらあかんやろ。先生、また落ち込まはんで」
「全く、すぐヘコむんだから……。舜平さんこそ、もう準備したの?」
「まだや。でもすぐ済むやろ。女どもは色々と荷物が多いやろうけどな」
「ああ、水着とか言って張り切ってたもんね」
「彰は葉山さんの水着見たさに沖縄行くからな」
「ははっ、先輩もそのへんは普通の男らしい感覚持ってんだね」
「お前、海パンなんて持ってんのか。カナヅチやろ?」
「うるさいなぁ。もうカナヅチじゃないし」
ぶうっと膨れて舜平を見上げる珠生が、またひどくかわいらしく見える。舜平は、にへらと緩んだ照れ笑いになりそうになるところを、慌てて普通の笑顔に置き換える。
何となく、北山方面に並んで歩き出し、とりとめのない会話をしながら歩いた。気づけば地下鉄の駅を行き過ぎていたが、どちらからも別れを切り出せないのである。
「ここでいいで。お前、原付やし。明日からもまた会うしな」
「あ、うん。……って別について行ってるわけじゃ……」
「はははっ、いつでも俺といたいんやな」
珠生をからかうような口調でそんなことを言い、わしわしと頭を撫でる舜平を、珠生はじろりと見あげた。
「そんなわけないだろ。馬鹿。酔っぱらい」
「お前、亜樹ちゃんに似て、だんだん口悪くなってきてんな」
「へんなとこで天道さんと結び付けないでよ」
と言って、珠生はまた膨れた。
「へいへい。ほんなら、また明日な」
「うん。寝坊したらだめだよ」
「せぇへんわ。おやすみ」
舜平は気持よく笑いながら、きびすを返して歩き去って行った。しばらくその背中を見送っていたが、珠生は軽くため息をつき、原付のエンジンをかける。連続する軽い振動が、珠生の身体を震わせた。
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