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八、悪への誘惑

 深春は一人、冷えきった部屋の中でうなだれていた。  何も、考えることが出来なかった。  何も、考えたくもなかった。  思い出されるのは、あの暗闇に閉ざされた冷たい洞穴の中の風景。じめじめと湿気た岩肌に座り込んでいた時、手足が凍りつくように痛んだこと。  外に出たいと思ったが、大人たちの怒声や憎しみに満ちた目線が怖くて、入り口を封じていた大岩を破壊する力が沸かなかったこと。  この手で引き裂いた、生暖かい人の肉。  べっとりとした血飛沫。恐怖に満ちた目。  思い出すのはそんなものばかりで、自分の心がじわじわと狂気に満ちてくる感覚に、全てを支配されそうになる。  途方もなく長く続くであろうあの暗闇を、いつしか諦観とともに受け入れていっていたこと。  深春の目から、涙が溢れた。  ――何で、何で俺はまたこんなところにいるんだろう……?  ついこの間まで、みんなで過ごした沖縄の眩しい日差しも、宮尾邸での穏やかな暮らしも、仲間と呼べる人たちとの出会いも、全てが嘘だったように感じられる。  まるで、すべてが幻だったかのように……。  本当は、転生などしていないのではないか。あの頃と同じように、暗い暗い洞穴に一人、ただぽつんと閉じ込められたままなのではないかという感覚が、深春の心を昏く昏く染めていく。  まるで呪いだ。転生したこの人生の中でも母親に捨てられ、父親に殴られ、血を浴びる生活のまま。あの頃と、何も変わらない。  暴力と裏切りに満ちた世界こそが、自分に課せられた贖いなのだろうか。 「……藤之助」  冷えきった空気の中、深春の呟きが闇に溶ける。  そんな自分を救い上げ、優しく大きな手で育ててくれた。あの温かい笑顔、励ましの声、力強く背中を押す手のひら……。 「助けて……藤之助……助けて……」  夜顔として生きたあの人生の中で得た、唯一の家族。誰よりも大切だった、大切にしてくれた、藤之助。 「ねぇ、どこにいるの……?」  なんでここにいないの? 何で僕を助けてくれないの?  僕、いつから悪ものになってしまったの……?  雷燕のこどもだから?  わけも分からず、人をころしてしまったから……?  なんでなんで……こんなにいつも僕は泣いてばかりなの?  どうして、どうして……? 「何泣いてんだ、お前」  不意に暗闇の奥から男の声がした。深春ははっと全身を緊張させると、うなだれて座り込んでいた姿勢から顔を上げ、膝をついて辺りをうかがう。  くくっ……と低い笑い声が響き、明かり取りの小さな窓から入る微かな明かりの下に、痩躯な男が姿を現した。  深春は表情を険しくし、じっとその男を睨みつける。 「……誰だてめぇ」 「誰だとは冷たいなぁ。お前を助けてやろうと思って、はるばる京都くんだりまでやって来てやったのに」  まだ若い男だ。  鋭い切れ長の目は、まるで冷たい刃物のようだ。無造作に伸ばした茶色い髪、その長い前髪をオールバックにしてクリップで留めている。ぴったりとした身体に黒っぽい革ジャンを羽織り、その下はボーダーのシャツ。風体はどこにでもいそうな若者でしかない。  しかし、その目の冷たさと鋭さには、ただならぬ気配があった。大した霊力も感じられぬというのに、あまりの威圧感だ。  深春はごくりと固唾を飲み、じっとその男を睨みながら、ゆっくりと立ち上がった。 「……俺を助けにだと? どういう意味だよ」 「もう、ここにはいられないだろ? あんなことをしでかして、奴らがお前を放っておくわけがねぇ」 「てめぇ、見てたようなこと言うじゃねぇか」  深春が凄むと、男はまたくくっと笑った。 「見てたさ。陰陽師衆のやつらのことは、いつだって見張ってるからな。お前の妖気、ぞくぞくしたよ」 「は? どういう、」 「ようやく見つけたぜ、夜顔」 「えっ……」  深春の反応を見て、男は目を細めて微笑んだ。 「俺は楓。能登の祓い人だ」 「……祓い人!?」 「まぁ、落ち着け。そして聞けよ」  楓は板張りの床の上にあぐらをかくと、小首を傾げて深春を見上げた。 「そして俺は、転生者でもある。お前とは面識はないがな、陰陽師衆にはちょっと世話になってね」 「……何でそんな奴がここに……」 「そんな怖い顔すんなって、別に陰陽師衆に恨みがあるとかそういうんじゃねぇ。水無瀬菊江がこっちで面倒ごと起こしたようだが、俺とあいつは何の関係もないしな」 「そんな話が信じられるかよ」 「そら、そうやな。でも、実際俺には関係ない。死にかけのばばあの恨みつらみなんか、知ったことじゃねぇよ」 「……じゃあなんでここにいるんだよ」 「俺はただ、いつまでもいつまでも陰陽師衆と祓い人がくだらねぇ小競り合いを続けてるっていう構図に、飽き飽きしてるだけだ。俺らは俺らで、人間に害を成す妖を狩ってやってるんだぞ? それだけなのに、どうしてこうぐちゃぐちゃと文句をいわれなきゃいけねぇんだ? そんなに偉いのか? 陰陽師衆様はよ」 「……それは」 「な、分からねぇだろ? 古臭いしきたりに縛られているのはどっちも同じだが、さも『自分たちが国を守ってます』ってツラして偉そうにしているところ、気に食わねぇよな?」 「でも……昔からこの人達は、悪いものを封印したりして、国を安定に導いてきたんだろ」 「そうだな、お前の父親、雷燕とか」  楓は片手をひらりと動かしたかと思うと、深春の手枷に微かに指先を触れた。がしゃん、と音がして実態を持たない手枷が崩れ去る。 「……!」 「堅苦しいのは嫌いなんだ」 「どうやって……?」 「まぁ細かいことは気にすんな。もうあまり時間もないし」  楓は立ち上がると、すっと深春に手を差し伸べた。 「俺と一緒に来い、夜顔」 「……はぁ? 何言ってんだてめぇ」 「このままここにいたって、お前にもう居場所なんてねぇだろ。お前がずっとここにいたって、親しくしてもらってた奴らに迷惑がかかるだけなんじゃねぇの? 特にほら、藤原業平の生まれ変わりとかさ」 「……それは」 「あいつ、今も昔も相当なお偉いさんらしいな。お前みたいな危険なクソガキを手元に置いといてみろ、あの人の立場もやばくなるんじゃねぇの? もう庇い立て出来ねぇだろ?」 「……」 「あと、千珠さまの生まれ変わり。沖野珠生」  楓は謳うように続けた。 「あいつさぁ、今も昔も、夜顔のこととなると急にむきになるよなぁ? ま、しょうがねぇか。数少ない半妖の同胞(なかま)だもんな。……心優しい千珠さまを、仲間割れに導きたいのか?」 「……それは」 「あと、お前の保護者のあのババアと、巫女の女」 「あ……」 「監督不行き届きだよなぁ? 保護者なんて名前だけ、何の役にも立たなかったんだ。あーあ、気の毒だねぇ。お前はみんなの期待を裏切って、力を暴走させた上に陰陽師衆の一人を傷つけたんだ。どうしょうもねぇよなぁ」 「……」  みるみる、深春の目から光が失われていくのを、楓は満足気に見つめていた。にい、とほくそ笑む。  深春はだらりと両腕を体側に落とすと、俯いて唇を噛んだ。 「……俺達は、お前を歓迎するぜ。お前のその妖気、なんとも言えず心地いい。俺たちは、お前を危険分子扱いしない。俺達と一緒に、能登で妖退治をしてくれねぇか」 「……能登で?」 「ああ、そうさ。こっちでやることと変わらねぇ。妙なしきたりに縛られた連中にへいこらしなくてもいい。俺たちは俺たちで、自由に生きていけばいいんだ」 「……」 「深春。行こう。こっちの奴らに迷惑かけたくねぇんなら、俺と一緒に来い。そんで、向こうでまた仲間を作りゃいい」  仲間……。  居場所……。  ――俺がいると、みんなに迷惑がかかる……。そうだ、そうだよな。明日、俺を待ってるのは誰かの慰めの言葉じゃなくて、制裁かもしれない。  それを見て、珠生くんはどう思う? きっと俺のために、怒って、彼らを敵に回してしまうかもしれない。  柚さんや亜樹ちゃんも、同じだ。  俺を庇おうとして、陰陽師衆に不信感を持ったりしたら……あの人達の居場所だって、危うくなるじゃねぇか。  藤原さん……。  まるで藤之助の代わりをするように、俺を救おうとしてくれるあの人は、いわば陰陽師衆のボスだ。そんな人の足を、引っ張っちゃいけない。  深春は顔を上げた。 「分かったよ。……行こう」 「それでいい」 「どうやって入ってきたんだ? 見張りがいただろ」 「ちょっとした催眠術で眠ってもらっただけや。そういう小細工は、お手のものだからな」  ぎぃ、と木の扉を押し開けて、楓は深春を振り返った。  その足元に、ぐったりと倒れている赤松と成田の姿が見えたが、深春はもう何も感じなかった。  ジーンズのポケットに手を突っ込み、何事もなかったかのような軽い足取りで道場を出ていく楓の後についていくと、木立の影に一台の4WD が停まっているのが見えた。  中から、もう一人男が出てくる。細い銀縁のメガネを掛け、きちんとシャツとセーターを着込んだ、背の高い好青年である。 「あいつは拓人。俺の仲間だ」 「へぇ、思ったより男前やなぁ」 と、拓人と呼ばれた男は深春を見るなりそう言った。 「もっとがりがりのこ汚いガキかと思ってたけど、身体もしっかりしてるし、栄養状態もよさそうだ」 「……なんだよそれ」 「北陸は寒いから、ちょっと心配していただけや」 と、拓人は再び運転席に乗り込みながらそう言った。 「馬鹿言うな。能登は俺の故郷だろ」  深春は半ばやけくそ気味にそう言って、楓をちらりと睨む。  楽しげに笑った楓は後部座席のドアを開けて、顎で深春に乗り込むように示す。 「さ、乗んな。これから数時間のドライブだ」 「……ドライブね」 「そうさ。新たな世界への、ドライブさ」  楓はそう言って、意味ありげににやりと笑った。  バン、と扉が閉まる音が暗い木立の中に響き、エンジン音とともに車は闇の中へと走り去っていった。

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