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九、嫌味

 深春の出奔は、次の日の早朝には職員全員に知らされるところとなった。  紺野の容態が思わしくなかったために病院へ釘付けになっていた藤原と莉央が道場へ駆けつけた時には、深春のいた部屋はもぬけの殻になっていた。  息せき切って現れた珠生を見て、藤原はなんとも言えず申し訳なさそうな、苦々しい表情を浮かべる。検分のためにその部屋で立ち回っていた職員たちも、珠生の姿を見て一瞬手を止めた。 「……藤原さん……! 深春は? あいつはどこへ行ったんですか!?」 「珠生くん……」  思わず藤原に掴みかかった珠生を、思わず近くにいた者が止めようとした。しかし藤原はそれを手で制すると、スーツを握り締める珠生の手をとって、穏やかな声で言葉をかける。 「見張りに立っていた赤松と成田が眠らされていた。誰かが、深春くんを連れにやって来たらしい」 「誰かって……誰です!? なんで、どうして簡単に深春を連れて行ってしまえるようなことが起こるんですか!?」 「すまない。もっと人を置いておきたかったのだが、今は能登の方へも人を回してたからな」 「……どこに行ったっていうんですか!? 誰がそんなこと……」 「祓い人だよ。能登の祓い人」  藤原を揺さぶって取り乱す珠生の背後から手が伸びてきて、珠生の手を藤原から引き剥がす。落ち着き払った冷たい声と、自分の手を有無を言わさぬ力で握りこんだ大きな手に、珠生ははっとして振り返る。 「能登の祓い人が、深春くんとやらを連れて行ったんでしょう。見たところ、無理矢理にというわけではなさそうですがね」 「……あなたは?」  見たこともない男だった。すらりとした、上背のある男だ。しかし目つきは酷く暗く、顔色もどことなく蒼白だ。珠生はぞっとして、動きを止めた。  男は珠生の手首を握り締めたまま、やや顎を上げて珠生を見下すような目つきをする。 「藤原さんに何てことする。我々のボスなんだ、やめてもらいましょうか」 「……誰だよ、あんた」 「僕は藍沢要といいます。お久しぶりですね、千珠さま」 「藍沢……要?」  昨日聞いたばかりの名だった。  あの須磨浮丸の生まれ変わりの男だ。  珠生は目を瞠り、じっとその男を見上げた。小柄で病弱そうだった浮丸とは打って変わって、藍沢要はえらく屈強そうな人物に見えた。そして、身震いがするほどに冷ややかな霊気を持った男である。 「……浮丸」 「そう。いつぞやは大変お世話をかけて、申し訳ありませんでした」 「……」 「前世と違わぬ美しさ。でも、えらく頼りなく見えますな、現世の千珠さまは」 「……離してください」 「君は相変わらず、夜顔のこととなると我を忘れるんですね。何でですか? 妖の仲間だから?」 「離せって言ってんだろ!!」  ばっと手を払いのけると、藍沢はやや驚いたように少し目を見開いたが、すぐに余裕の笑みを取り戻していた。  ぐっと睨みつけてくる珠生を見下ろし、さも楽しげに笑っている。 「ははっ、可愛いですね、君は」 「……どういう意味だよ、無理やりじゃないって。あいつが喜んでついていったとでも言うんですか」 「そうでしょうね。昨日の一件のことで、深春くんはきっと居場所を失うと思ったことでしょう。君たちにも迷惑をかける、それならばいっそ、いなくなってしまいたいと思った……とは考えられないですか」 「……」 「そんな心の隙を突いてくるのが、あいつらのやり口だ。おそらく、言葉巧みに彼を誘い出し、ともに能登で戦おうとでも言って連れだしたのでしょう。まったく、子どもじゃあるまいし。知らない人にほいほい付いて行ってしまうとは」 「……黙れよ」 「だってそうでしょう? 能登の祓い人ってのは、僕達が必死で追い回していた敵です。なのに、そんな奴らに付いて行ってしまうなんて、浅はかにも程がある」 「もう黙れって……言ってんだろ!!」  拳を握りしめていた珠生の手が、目にも留まらぬ速さで藍沢の首筋に伸びた。気づけば床に引き倒され押し付けられる格好になっていた藍沢は、驚き半分、楽しさ半分という表情を浮かべて、じっと怒りに目をぎらつかせる珠生を見上げていた。 「……ふうん、お強いですね。さすがに」 「もういい。やめろ、藍沢」  見かねた藤原が、やや強い声で要を制する。要が降参するように両手を軽く上げると、珠生は要の襟首を掴んでいた手をゆっくりと離した。 「言いすぎだ」 「……しかし実際、そうでしょう。検分の結果、だいたい皆の意見は一致しているはずです」  珠生は、周りにいた職員の顔を、思わず見渡していた。誰も彼も、珠生と目が会うと、目を伏せてしまう。 「まずは事実を受け入れることだ、沖野珠生くん。その先の方略を考えるためにも、まずはそこからですよ」 「……」  藍沢はネクタイを締め直しながら珠生に歩み寄ると、ぽんとその肩を叩いてそう言った。尚も自分を睨んでいる珠生の目に、藍沢は苦笑する。 「やれやれ、嫌われてしまいましたか」 「……冷静さを欠いたことは謝ります。……藍沢さんは、いつこっちへ?」  一つ深呼吸した後で、珠生は要にそう尋ねた。 「ほんの一時間ほど前に。佐為さまに呼ばれたのでね」 「先輩は?」 「すでに付近を捜索中です。祓い人の気は独特ですので、その残滓がないかと調べておいでです」 「……そう、なんだ」  さすがの行動の速さに、珠生ははっとさせられる。彰は取り乱すこともなく、冷静に事に対応していたのだと思うと、感情的になりやすい自分を恥じ入りたくなってしまう。 「でも、無理でしょうね。ここに残っていた気を見る限り、少しばかり術を使った形跡があるだけで、その他は全くといっていいほどきれいなもんですから」 「……分かるんですか」 「僕は入庁以来能登担当だからね、君たちよりずっと、彼らのことは熟知しているつもりです」 「ここは引き上げよう」  藤原の指示で、検分にあたっていた職員たちとともに、珠生たちも部屋の外へ出る。広い道場の空間を抜けて屋外へ出ると、湊と舜平が敦と話をしているのが見えた。 「……珠生」  珠生に気づいた舜平は、その隣にいる藍沢に目を留めた。  藍沢はにっこり笑い、ぽんと珠生の肩を抱くように腕を回す。舜平の目つきが険しくなった。 「昨日の今日ですね、舜海殿」 「おい、馴れ馴れしくそいつに触んな」 「あ、失礼」  ぱ、と藍沢は珠生から手を離し、その手をスラックスのポケットに突っ込んだ。 「俺は、よう覚えてるからな。お前が千珠にやったこと」  ずい、と舜平が要に迫る。ほぼ目線の位置が同じ舜平と藍沢の目線が、間近でぶつかり合う。 「そうですか。僕も覚えてますよ。大人たちがついた嘘のこと」 「……あれは」 「分かりますよ。今の僕があなた方の立場なら、きっと同じ事をしたでしょうから」 「でも納得はしてないって感じやな」 「まぁ、ね。不思議なもので、転生すると感情も記憶も見事に思い出してしまうんですよね。あなた方は、すでに実感済みでしょうが」 「……」 「ま、今回はともに祓い人を倒すべく戦う仲間なんですから、そんな怖い顔しないでくださいよ」 「信用できるんやろうな。お前を」  凄んでくる舜平を、じっと怯むことなく見返す藍沢は、すっと顔から笑みを消した。険悪な空気が流れる中、ぽんと舜平の肩を彰が叩く。 「大丈夫だよ」 「彰……戻ってたんか」 「うん、今ね。なに喧嘩してんだ」  彰は舜平と藍沢の間に割って入ると、双方を見てため息をつく。 「藍沢さんも、彼らを見て刺激を受けるのは分かりますけど。こんな人目につくところでそういうことを言うのは控えたほうがいいですよ」 「これは失礼。つい、興奮してしまって」 「興奮やと?」 と、舜平がまた藍沢を睨む。 「だってあまりに君たちがそのままだから、嬉しくなってしまいました」 「お前はえらい変わり様やな」 「ええ、昔に比べて、この身体は非常に使い勝手がいい。霊力も、当時より強くなったくらいですので」 「そら良かったな」 「もうやめろって言ってんだろ」 と、彰が舜平を宥める。舜平は肩をすくめ、ひょいとその場から歩きさった。 「会議を始めましょう、業平様」 「……ああ、そうだな」 「舜平たちは、ちょっと外しておいてくれないか。あとで伝えるから」 「分かっとる分かっとる」  何かまた物言いたげな珠生を半ば強引に引っ張って、舜平は車の方へと戻っていく。車体に寄りかかって腕組みをしていた湊は、難しげな顔をしたまま珠生を見た。 「天道んとこ、行ったらなあかんのちゃうか。家で待機させられとるらしいから」 「あ……天道さん。そうだな、そうだよな」  ようやく、亜樹のことを思い出す。彼女のことすら忘れてしまっていた自分を、珠生は改めて腹立たしく思った。 「みんなで行こう。そのほうが、冷静になれそうだから」 と、珠生が湊を見上げると、湊は頷いて後部座席に乗り込む。 「すぐに追いかけようとか言うかと思ったわ」  助手席側に回ろうとしていた珠生に、舜平はそう声を掛けた。珠生は冴えない顔を上げて、「藍沢さんに物申されちゃったからな」と言う。 「ふうん。まぁ、今は焦って動く時じゃないから、あいつの嫌味も役に立ったってことか」 「まあね」 「ま、宮尾邸に行こか。亜樹ちゃん、きっと心配してるやろうからな」 「うん、そうだね……」  亜樹に会って、一体何を言うべきなのだろうか。混乱しているのは、自分なのに。  重たい気分だった。深春の考えていることも分からず、どこへ行ったのかも分からず、何をすべきなのかも思いつかない。  助手席に乗り込み、走りだした車窓の風景が移り変わっていくのを眺めながら、珠生は静かに目を閉じた。

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