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十、家族

 宮尾邸に到着すると、すぐさま亜樹が家の中から飛び出してきた。三人のことを待っていたらしい。 「……深春、おった?」  門扉を開いて入ってきた珠生に駆け寄り、亜樹はまずそう尋ねた。珠生はゆるゆると首を振り、「いや」とだけ答える。  眠っていないのだろう、亜樹の表情はひどく疲れていて、顔色も悪かった。珠生の言葉を聞いて肩を落とす亜樹を、珠生はそっと促して邸内へと入っていく。  リビングに落ち着いていると、宮尾柚子が盆の上に熱い日本茶を乗せて入ってきた。柚子の表情も、暗く重い。 「……ご迷惑をお掛けして。本当に申し訳ありません。私の監督不行き届きですね……」  皆の前に跪いてお茶を配りながら、柚子はそう呟いた。 「そんな。柚子さんは見張り役だったけど、それだけで深春と二年も暮らしていたわけじゃないじゃないでしょう。深春のこと、本当に大切にしてくれてたんですから」  珠生は思わずそう言った。すると柚子は顔を上げて、力なく微笑む。 「……ええ。そうなんやけどね……。でも上から私に期待されていたことというのは、まさに今回のことを防止することやったわけやから」 「いや、ちゃうと思いますよ。深春のことや、ここにおったら余計に柚子さんや亜樹ちゃんに迷惑かけると思ったから……二人が大切やからこそ、ひとりで出ていってしまったんやと思います」  舜平がきっぱりとした口調でそう言うと、柚子の表情が悲しげに歪んだ。 「そうやね、優しい子やからね……」 「今日の会議で、きっと能登行きが決まるでしょうね。学生の俺らが、連れて行ってもらえるか分かれへんけど」 と、湊は冷静な声でそう言った。「二、三日で片がつくとは思えへんしな」とも付け加える。 「場合によっては、珠生は指名されるかもな。向こうは妖を使役して来るっていうんやから、戦力的にも、当然お前がおるほうがええ」  舜平は、黙りこんでいる珠生を見てそう言った。珠生はふと目を上げて、こくりと頷く。 「それって……沖野が深春と戦うってこともありえるん?」  ふと、小声で亜樹がそう言った。珠生は隣に座っていた亜樹を見る。 「それもあるかもしれないね。でも、そうなったほうが俺は都合がいいよ。俺なら、深春を止められるかもしれないだろ」 「そっか……」 「ま、誰がやるよりお前が行ったほうがええやろうな」 と、湊も頷く。 「だね」  珠生は少し微笑むと、亜樹が膝の上で握りしめていた拳をそっと包み込んだ。顔を上げた亜樹が、目を瞬かせて珠生を見上げる。 「大丈夫。俺たちで、何とか出来るよ」 「でも……紺野さんにあんなことしたってこともあるし」 「きっと状況を汲んでくれるさ。藤原さんがいるんだから」 「……うん」 「しばらくは不安だろうけど、深春のことは絶対連れ戻すから。天道さんはここで待っていてやってよ。あいつにとっての家族は、天道さんと柚子さんなんだからさ」 「……分かった」  珠生は優しく微笑むと、そっと亜樹の手を離す。舜平と湊も、顔を見合わせて少し笑う。  柚子はそっと目頭を押さえて、珠生に深々と頭を下げた。 「よろしく、お願いします。あの子のこと、頼みます」  +  宮尾邸を出た三人は、車を少し走らせて鴨川の北のあたりまでやって来た。  曇り空と湿った空気で、午後からは雨が降るような気配がある。そのせいか、いつもは人々がのんびりと散歩を楽しんでいる鴨川のほとりはほとんど人気がなく、トレーニングウエアに身を包んだ大学生らしき青年がロードワークをしている姿がちらりと見えるのみである。  三人は川辺に座り込み、しばらく黙り込んでいた。  ざ……と重苦しい湿った空気が川の上を滑るように駆け抜けていく。 「珠生、お前は何を考えてんねん。ほんまは一番、お前が不安なんやろ」 「え」  舜平の指摘に、珠生はぎょっとしたように顔を上げる。湊はふっと笑った。 「天道の前では頑張ってたみたいやけど、俺らには丸わかりやで」 「ええ……そうなのかな」 「そうやで」 と、舜平。 「話しとけ。俺らも忘れてることが多いからな、祓い人の……あの日のことも含めて」  青葉の城に、祓い人達が攻め入ってきた夜のことを思い出す。  他でもない須磨浮丸の手引きで、その事件は起きたのだ。 「柊は寝てたから知らないかもしれないけど……」 「……痛いこと言わんといて」 「あいつら、妖を縛って使役する術を使うんだけど、それを千珠(おれ)にもかけようとしたんだ」 「ほう」  湊はあぐらの状態で身を乗り出し、珠生の横顔を覗きこむ。 「あの鎖か」  舜平が忌々しそうに呟くのを受けて、珠生は頷いた。 「特殊な(しゅ)の込められた鎖を、相手の首に掛けて、ご主人様になるやつの名前を呼ばせようとするんだ。多分、呼んでしまえば一生、そいつには逆らえないんだと思う」 「……へぇ。え? それを千珠さまにやろうとしたんか?」 「そうだよ」 「なんちゅう罰当たりな」 「あの晩は俺、人間の姿だったから。もう怖くて怖くて……あんなに自分を情けないと思ったのは初めてだったよ」 「そうやった、満月だったな」 「んで、お前はあれを深春にかけられたらどうしようと思ってるわけか」 と、舜平が問う。 「……そう。それがまずひとつ」 「まだあるん?」 と、湊。 「深春は夜顔だ。つまり雷燕の妖気を受け継ぐものでもあるわけ。それを何かに利用されて、雷燕の封印を解かれたら……って思うと」 「利用、か」 「多分、そっちのほうが可能性は高そうやな。同じ妖気を持ってるってことは、雷燕の憑坐になるのにうってつけってことやから」  舜平は顎に手をやり、難しげな顔をしながらそう言った。 「憑坐……?」 「ああ。あの封印術は、ちょっとやそっとじゃ解放はできひんけど、一部を壊すことはできるかもしれへんからな。それがどういう風に影響するか分かれへんけど、深春に惹かれて雷燕の魂が揺り動かされたり、ほんの少しでもあの力が現世に流れだしたとしたら、それを収めて利用する器がいる。それに深春はぴったりやってことや」 「……そんな」 「これはこの間、雷燕の封印を確認しにいった時、彰に聞いたことやねん。きっと今やってる会議でも、そんな話してるんやろ」 「じゃあ、やっぱり早く止めないと……!」  目に見えて焦り始めた珠生を、湊が宥めて座らせる。 「そんなこと、祓い人たちは知ってんのか? 陰陽師衆の掛けた封印を、あいつらが解くなんて出来るわけ?」 と、湊。 「出来ひんとも限らんやろ。楽観視はできひんな」 「そっか……」  湊まで難しい顔になる。珠生は居ても立ってもいられない気持ちになり、立ち上がった。 「……会議、終わってるかもしれない。比叡山に戻ろう」 「ああ、せやな」  舜平は腕時計を見て立ち上がると、尻を払って草を落とした。  湊も立ち上がり、携帯電話を取り出して時刻を見ているようだった。その画面に、ぽた、ぽたと水滴がつく。  見上げると、ついに空からは雨が降り出していた。  ぽつぽつと降り注いでいた雨は、三人が車へ向かって走りだした頃には土砂降りへと変わり、容赦なく叩きつける豪雨になった。 「……やれやれ、気の滅入る天気や」  舜平のぼやきを聞きながら、珠生は小さくため息をついた。 

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