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二十四、病院にて
身体が重い。全身が痛む……。
何か、とてつもなく大切なことをこの手から逃してしまったような虚無感が、更に身体から力を奪っていく。
――でもそれって、なんだっけ……。俺は何でこんなところで、寝ているんだっけ。
「……珠生?」
瞼を上げるのすら億劫になるほどの身体の痛みに顔をしかめながら、珠生はその声に導かれるように目を開いた。
――黒い影……人の顔。誰……?
「珠生、大丈夫か」
そっと手を握られ、更に意識がクリアになっていく。と同時に、またさらなる痛みが、全身を殴りつけるように襲いかかってきた。
「……っ、くぅ……、痛っ……」
「動かんでいいで。そのままでいい」
「……しゅ……ぺいさん……?」
「ここは病院や。もう少し、輸血しなあかんからな」
「あ……」
白い天井、消毒液の匂い、ばたばたと忙しない足音、電子音……色々な情報が、ようやく珠生の五感に入ってくる。舜平の顔も、ようやく判別がついた。
「隣に敦と藍沢も転がってんで。二人はとっくに目を覚まして、事情聴取されてる」
「……」
ゆっくりと頭を巡らせると、淡いブルーのカーテンが閉まっているのが見えた。
「俺……どうなってんの」
「下腹部を横薙ぎにばっさりや。よう内臓が溢れへんかったな」
「……う」
「お前やから大丈夫やったんやろうけど……。普通の人間なら、内蔵全部流れでて死んでたって」
「……吐きそう」
「ええよ、ほれ、バケツもある」
「……今のは感想」
「ただ、出血が多くてな。お前の場合は治療と言うよりも輸血に担ぎ込まれたようなもんやな。傷の縫合は済んでるけど、まぁ例によって妖気で体にダメージがある」
「……あ、そう。霊気を高めなきゃな……」
「俺に霊力があれば、お前の傷なんかすぐに治してやれんねんけど……」
口惜しげに呟く舜平の手が、珠生の頭を撫でる。珠生は舜平を見上げた。
「……大丈夫、俺、訓練したからさ……。ちょっと今は、集中できそうにないけど……」
「まぁ今は、怪我と疲れのせいで妖力が落ちてんのが不幸中の幸いや。今は怪我を治すことだけ考えろ」
「……うん」
「また検分が終わったら治療班の人らも来てくれはるらしいから、きっとすぐに治してもらえるわ」
手を握られ、頭や頬をゆっくりと撫でられながら語りかけられることで、ぴりぴりに張り詰めていた気分がいくらか凪いでくる。暖かく大きな舜平の手に、珠生はそっと頬ずりをした。
「……舜平さん」
「ん」
「来て、くれたんだね……」
「え? あ、ああ。まぁな」
舜平は照れたように目を逸らすと、殺風景な病院の風景を見回しつつ咳払いをする。
「千珠の世話は、俺らしかできひんやろうからな。湊と一緒に来たんや」
「……世話って言わないでよ。湊もいるんだね」
「おう。また色々情報持って帰ってきてくれるわ」
「そっか……」
珠生は唇に少し笑みを浮かべ、息を吐いた。馴染みの仲間に、心底安堵したような表情だった。
「先輩は?」
「あいつは色々と忙しそうやで。水無瀬拓人を捕まえたから、尋問するっていう話やけど……」
「先輩も怪我してたのに」
「あいつがあんな傷だらけなんて、滅多に見れるもんちゃうからな。あとでからかってやらなあかん」
舜平の軽口に、珠生はふっと笑った。しかしすぐにその笑みは消え、ぼんやりと空を眺めるような目つきで珠生はつぶやいた。
「……深春……」
「あいつはしぶといやつや。それに、雷燕はあいつの敵じゃない。せやから、きっと大丈夫や」
「……そうだね」
楓の術に縛られる前に、少しだけ言葉を交わした雷燕の姿を思い出す。彼は明らかに楓を敵視していた。あの術を解くための糸口が見つかりさえすれば、物事は大きく変化するのではないかという気がする。
しかしあれは強固な技だ。術者が死なない限り、解けない呪いだと聞いている。
この現代社会において、水無瀬楓を殺害する……それは五百年前よりもずっと生々しいことに感じられた。人一人の命を消してしまっては、いくら宮内庁の権限でもそれをなかったことにはできないはずだ。
「……眉間にしわ」
「あ……」
黙りこんでしまった珠生の眉間を指先で撫で、舜平はからりと笑ってみせた。
「今は怪我を治すことだけ考えろって言ったろ。この病院にも、一晩泊まるだけや。あとは宮内庁が借りてる宿に移るんやて」
「あ、そう」
「だから、ここでは大人しく治療を受けろよ。何にも考えるな……って言っても、まぁお前はくよくよ考えこむ癖があるから無理やろうけど」
「……くよくよとか言うなよ」
「昔っからそうやん。そこだけは変わらへんかったな」
「うるさいなぁもう」
珠生はむっとしたように唇を尖らせて、ぷいとそっぽを向いてしまった。いくらか気が抜けてきた珠生の様子を見て、また少し微笑む。
「珠生くん、入りますよ」
カーテンの向こうから高遠の声がした。すこしばかりカーテンをめくって顔を出した高遠は、珠生が目を覚ましているのを見て、表情をほころばせる。舜平は、握っていた珠生の手をぱっと離した。
「よかった、起きてたんだ」
「はい。……あの、さっきはすいません。失礼なこと言って……」
「あぁ、なに。現場にいた君が、後からしゃしゃり出てきた我々に文句を言いたくなる気持ちは分かるよ。加勢が遅くなって、本当に悪かった」
「いえ。封印は……?」
「しっかり張り直したよ。警備もさらに厳重にしたよ」
「……祓い人の、居場所は?」
「まだ不明だ。方方に式を飛ばして探らせているんだが、やつらは逃げ隠れするのが上手いからね」
「確かに」
舜平は腕組みをして頷いた。高遠は珠生のベッドの柵に両手を置くと、二人を見比べて微笑む。
「まさか君が来てくれるとは思わなかったな。おかげで助かった。いやぁさっきの珠生くんときたらもう、恐ろしいのなんのって……」
「何の断りもなく、すいません。でも、俺も湊も、この場所には思い入れがあるもんで」
珠生は苦笑いを浮かべ、舜平はぺこりと頭を下げ、詫びた。高遠は微笑んだままゆっくり首を振って、「それは僕も同じだよ」と言う。
「あの日のことは、今でもよく夢に見る。能登班を志願したのも、そのためだからね」
「そうですか」
「でも、まんまと封印を破られてしまった。まったく、京都での事件の時からやつらにはやられっぱなしだ。次こそ何か先手を打って終わりたいものです」
「……確かに」
珠生は、去年から続く祓い人の襲撃について思い返していた。
名桜高等学校への襲撃、文哉の逃走、舜平への攻撃、菊江の消息不明……。こちらは起こってきた事件を追いかけるばかりだ。
「ま、とにかく君は安静に。明日はまた素敵なお宿にご案内するから、今日はこの病院食で我慢してくださいね」
どこかで点いているテレビから、ちょうど昼十二時の時報が聞こえてくる。
するとしゃっとカーテンが開き、ベテラン風の女性看護師が顔を出した。
「あら、意識が戻ったらおっしゃってくださいと言ったじゃないですか」
看護師は高遠と舜平を順番に睨むと、珠生に近づいてモニター類をチェックし始めた。点滴パックを換えながら、珠生の顔をじっと覗きこむ。
化粧っけのないカサついた肌からは、救急救命センターでの激務の様子が窺われた。てきぱきとした動きに感服しながらも、薄い毛布をめくられ、へそ下ぎりぎりまで下げられたズボンをさらにずり下げようとする看護師の動きには、どうしても抵抗を感じてしまう。
「こら、動かないでください。……あら?」
思った以上に傷の治りが早かったらしい。縫合を終えたばかりで赤く盛り上がっているはずの傷は、すでに抜糸に耐えられるほどの回復を見せている。看護師は黙りこんでじっと傷を間近で見ていたが、そのままメスのように鋭い視線を珠生に向けた。
「……な、なんでしょうか……」
何も言えず、珠生は目をぱちぱちさせながらその鋭い目線に耐えた。
「……午後には抜糸します。もう食事は取れますか」
「あ、はい……大丈夫です」
「今夜ここに泊まる必要はないかもしれませんね。……」
そう言いながら、看護師はじろりと舜平や高遠を見比べる。二人共ぎょっとしたように身体を固くして、引きつった笑みを浮かべた。
「あ、あははは。いやぁ、若い子の回復力はすごいですねぇ」
と、高遠。
「ほんまっすね。俺らじゃこうはいかへん」
と、舜平。
「……これは異常です。でも、何も聞くなと院長に言われていますので、なにも質問はしません」
珠生の着衣を直し、毛布を無造作にかけ直しながら看護師はそう言い、てきぱきとバイタルチェックを済ませて立ち去りかけた。が、立ち止まってもう一度珠生を見下ろし、ギロリと鋭い目つきで高遠と舜平を睨みつけた。
「……何があったかは知りませんが、こんな若い子に無茶をさせないように」
「あ、はい。申し訳ありません」
高遠はぴんと背筋を伸ばして、丁寧に看護師に向かって一礼した。銀色のワゴンのキャスターが、リノリウムの床を転がって行く音が遠ざかる。
看護師がいなくなり、三人ははぁと大きく息を吐いた。
「ああ、怖かった」
と、高遠は内ポケットから綺麗に折りたたまれたハンカチを取り出して、汗を拭う。
「高遠さんが堂々としてくれへんと困りますよ。もう、俺まで汗かいたわ」
と、舜平は苦笑し、「風春さまは、そういうとこ昔とあんま変わらへんな」と言った。
「あはは。その名で呼ばれるのは久々だよ。ま、君も昔と全然変わらないけどね」
「そうですか?」
高遠はそう言って肩をすくめると、食事を取ってくるといってその場を去っていった。
珠生はふと、舜平を見上げた。舜海とよく似た瞳を、しげしげと見つめてみる。いつも身近にあるこの横顔に、自分はどれだけ助けられてきたのだろうか。
珠生の目線に気づいた舜平は、目を瞬いた。
「なに?」
「いや。別に」
「あーあ、俺も腹減ったし飯食ってこよかな」
「どうぞ。……あ、ねぇ、俺の服着替えさせたの誰なんだろ?」
「さぁ?看護師の人らやろ? 身体もきれいにしてくれてるみたいやし。お前、めっちゃくちゃ血まみれやったんやで」
「……あーあ、じゃあ裸見られたのか。大勢に」
珠生はやれやれとため息をつきながら、そう呟いた。
「そんなこと言ってる場合か。大怪我しててんで」
「うん……」
「非常事態やで、しゃーないて」
「だってさぁ……」
「何?」
珠生は看護師が出て行ったあと開きっぱなしのカーテンの方を小さく指差し、眉を寄せる。
「なんかさっきから、みんなすごいこっち見てる」
「……」
偶然通りかかった風を装いながら、または別のベッドに配膳をしながら堂々と……といった格好で、カーテンの中を覗き込む看護師たちの姿がやたらと目につくことに、舜平はようやく気づいた。男女問わず興味津々な目つきで珠生を覗きこんでいる看護師たちの表情はそれぞれだが、若い女性はすっかり目がハートである。
「目立つ怪我のせいだけじゃないな、こりゃ」
半ば感心しつつ舜平が笑うと、珠生は毛布を引っ張りあげて顔を隠し、ぼやいた。
「……早く退院したい」
「やれやれ」
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