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三十二、薫と楓
「結局、都の言いなりだな。今も昔も」
指先に留まった羽虫のような妖が見てきた風景を読み取りながら、楓はそう呟いた。
――まぁ、予想できたことだ。あのババァも、そろそろ自分のやっていることに咎を感じ始めたようだったし、菊江に至っては生かしておく価値もない。
俺の手元には、夜顔と雷燕がいるのだ。壊せないものなど、この世にはない。
山肌からせり出した岩場から、楓はひょいと飛び降りて元きた道を戻る。ここのところずっと降り続いている雨はいよいよ強さを増してきて、足元を川のように流れている。
楓真としての自分が現世に蘇ったのだと気づいた時、楓はすでに十五歳だった。齢二十七で散った前世の自分と、この若者の顔立ちは、その頃は遠くかけ離れたものであったが、記憶が戻り意識がはっきりしてくるにつれ、前世の自分の顔と生き写しになった。蘇る霊気も、心地よく身体に馴染んだ。
あの青葉での出来事を思い出すと、ぞくぞくと興奮すると同時にちりちりと首筋を焼かれるような憎しみを感じた。
美しき最強の鬼、青葉の千珠を、あと一歩というところまで追い詰めたこと。一ノ瀬佐為に激痛を与えられながら殺されたこと。
その二つの出来事が、楓真の魂に一番深く刻まれていた。
どんな手を使っても、青葉の鬼を手にしたい……そのために、今度はもっと効果的に利用できそうな手駒を得たい。そう考え、標的を探していた。
そうして見つけたのが、織部深春。夜顔の生まれ変わり。
こいつを使って、どんな面白いことをしてやろうかと考えている時が、一番楽しかった。
陰陽師衆と千珠が必死の思いで封じた雷燕の存在を知ったとき、これだと思った。
夜顔を餌に雷燕を呼び覚まし、その手で千珠を我が物にし、一ノ瀬佐為を殺す。
その願いがもうすぐ、叶う。
目線の先に、雨露を凌ぐだけの廃屋が見えてきた。深春と薫を捕らえているあの廃屋だ。
腹を空かせていたはずだ、雷燕は薫を食っただろうか。
これから忙しいのだ、今のうちに腹を満たしておいてもらわねばならない。それに、人の血の味を覚えてもらわねば。
楓の唇が釣り上げる。
濡れそぼった髪が顔に張り付くのも厭わず、楓は楽しげな笑みを浮かべている。
+
廃屋の中は薄暗く、しんとしていた。
まっすぐに深春を捕らえている部屋に向かって歩を進め、ぱっと閉じられていたドアを開いた。
「なんだ、食ってないのか」
小さな窓の下であぐらをかく深春と、その反対側の壁に背をつけて三角座りしている薫が同時に楓を見あげた。
「腹が減ったろう、雷燕」
「人間なんか食わねぇ」
と、深春はそっぽを向きながらそう言った。
「ふうん。まぁいいけどな」
楓は少しばかり肩をすくめて、今度は薫を見下ろした。
「お前はここにいな。俺たちは出かける」
「え……どこへ行くの」
「そろそろ千珠さまがここへやってくる。ぴんぴんしてたぜ、さすがだな」
その言葉に、深春はぱっと顔を上げて少しばかり明るい表情を浮かべた。しかし、すぐにその表情が曇る。
そうやって回復した珠生を、自分は再び攻撃するのだ。また怪我をさせてしまうことになるだろう。
その前に、一思いに殺してくれたら……。
深春は泥の跳ねたスニーカーを見下ろしながら、軽く唇を噛む。薫と楓が言い争いをしている声が、遠くに聞こえるようだった。
「うっせぇんだよ!! いい加減黙らねぇと、お前もここで殺すぞ!!」
苛立った楓の怒声に、深春も思わずはっとする。
薫の泣き出しそうな顔を見て、さらなる怒りの炎が深春の胸の中に芽生えた。
「餌にもなんねぇ役立たずのガキが、俺のやることにいちいち口を挟むんじゃねぇよ!」
「楓……なんで? 昔はこんな……こんな酷いことするやつじゃなかったのに」
「俺は変わったんだ。俺は水無瀬楓真の生まれ変わりだ。お前らとは、何もかも違うんだよ」
「でも……楓は楓なのに……!」
「ガキの頃の俺と、今の俺は別もんだ。俺は目がさめたんだ、何をすべきか、気づいたんだ」
「……それが、これなの?」
「そうさ。祓い人としての力は、どれだけ強い妖を飼うことができるかで決まる。前世での復讐も兼ねて、俺はこいつら全部を俺のものにする」
「そんな力なんて……今の僕たちに必要なの!?」
「必要かどうかは問題じゃない。俺が欲しいか欲しくないかだ。もう黙れ、お前とくだらねぇ言い争いしてる時間はねぇんだ」
「……」
薫はぼろぼろと涙を流して黙り込んだ。しんとした部屋の中に、ひっく、ひっくと嗚咽が響くのを、深春は痛ましい思いで見つめていた。
深春は立ち上がると、尻を叩いて埃を払いながらため息混じりに言った。
「ガキ泣かすもんじゃねぇよ。お前ら、一応幼馴染なんだろ。昔の記憶が一切なくなるわけじゃないだろうに」
「くだらねぇ。俺には必要のない記憶だ」
楓は無表情にそう言って、深春に向き直る。いつも冷笑を浮かべていたその顔には、今は全く色がなかった。
「薫から昔話を聞いたぞ。お前、ちっせぇ頃はなかなかの熱血漢だったらしいじゃん。いつからそんな意地汚ぇチンピラになったんだよ」
ぴく、と楓の眉が動く。深春は片手を腰に当て、少しばかり笑ってみせた。
「薫が里の外のがきに虐められてたら、ヒーローよろしく登場して助けてたって? すげーじゃん、いい話じゃんかよ。お前にも、そんな可愛い時代があったんだな」
「……余計なことを」
吐き捨てる様にそう言いながら、楓はちらりと薫を睨む。薫はなおもしゃっくり上げながら泣き続け、小さな子供のように手で頬を拭っている。
「お前も、仲間意識っていうもんを持ち合わせてたんだな。それがどう成長すりゃこんなざまに……」
「うるせぇな、お前も黙れ……!」
ずっと揺らがず一定のリズムで流れていた楓の霊気が、ぐわんと大きく歪むのが分かった。それは術で縛られているからこそ分かる、楓の動揺であろうと深春は思った。
すっと手を伸ばし、楓は深春の首を掴んだ。それだけで、首に巻きついた鎖の戒めが再び深春を強く強く締め上げる。
「あっ……がぁ!!」
空気を求めもがき、肌を焼く痛みに喉を掻き毟ろうと手を伸ばして楓の腕に初めて触れる。その肌は思いの外冷たく、微かにその筋肉の震えが伝わってきた。
「かなしい……もんだな……っ。お前ってほんと……に……こんなことがしたい……わけ?」
もがき苦しみながら、深春はそう呟いた。痛みのせいで汗がだらだらと流れ、呼吸が乱れる。それでも楓の目から視線を外さずにいると、ふっと楓の方から目をそらした。
ぱっと手を離され、酸素が気管に流れ込んでくる。と同時に戒めが解かれ、肌や喉を焼くような痛みがふっと消えた。その場に崩れ落ちて咳き込みながら、楓の靴先を見る。ジーパンの裾も、靴も泥に塗れている。ただの若者の脚がそこにあるだけだ。だがその靴先が突如動いて、深春の胸元にめり込んだ。
「げほっ……がはぁっ……!」
肋骨が折れたらしい。深春は脂汗を流しながら、歯を食いしばって楓を睨み上げる。
なんとも言えず冷たい目つきで楓は深春をじっと見下ろしていたが、ゆっくりゆっくりと顔を歪ませて笑ったような表情を作り出した。
「さぁて、深春。お前にはまた一働きしてもらおうか」
「……珠生くんを……っ、殺れってか。お前……珠生くんを、捕まえたいんじゃ、ねぇのかよ……」
呼吸が、うまく出来ない。深春は呼吸する度に痛む胸を押さえながら、手をついてなんとか身を起こす。
「殺すくらいの気迫で向かってもらわねぇと、あいつは倒れないからな」
笑みの戻った楓の表情は、また一層冷徹なものへと変貌していた。深春はぞっとした。
「……そりゃ、そうかもしれねぇ」
「聞き分けが良くなったじゃないか。立て」
首根っこを掴まれて、深春はなんとか立たされる。薫は不安げに深春を見上げ、震える唇で「深春……」と呟く。
「薫。逃げたきゃ逃げな。ここがどこだか、分かればの話だけどな」
楓は深春を引きずって部屋を出ながら、薫の方を見ずにそう言った。
「……お前はもう役に立たない。小うるさいだけのクソガキなんて、なんの使い道もねぇ」
「楓……」
バタンとドアを閉め、楓は深春を引きずって歩き出す。
ざぁざぁと雨の降りしきる屋外へと連れだされ、深春はぬかるんだ山道をふらふらとひきずられながら歩いた。
「……お前……一人でいくのか。きっと陰陽師衆は……大勢で来る……げほっ……」
「俺にはまだ、式がいる。心配してくれなくとも大丈夫だぜ」
見えるのは、楓の耳の後ろだけ。顔は見えない。
それでも、楓がいつになくすっきりしない物言いをすることに深春は気づいていた。
「本当に……何がしてぇんだよ、お前は……」
「しつけぇな。てめえには関係ないだろうが」
ぴしりと遮るような口調に、深春は思わず黙りこむ。今この男が、どんな顔をしているのか、深春には全く想像ができないでいた。
そのとき、けぶる雨の中、ふと懐かしい匂いを嗅ぎとった。
都の匂い……珠生の妖気の匂い。
近い。彼らはすぐ、そこにいる。
深春は嬉しいような焦るような、じりじりと胸を焼くような気持ちを抱えながら、あたりに視線を巡らせた。
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