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三十六、結末

「俺の勝ちだ」  千珠は、じっと楓を見据えたまま、決然たる声でそう言った。無表情な楓の顔を、強い雨が濡らしていく。  地面に倒れ伏したままの雷燕は、ぜいぜいと荒い呼吸をしながら、千珠と楓の向きあう様子を見上げている。尚もぼたぼたと血を流している珠生の腹は、つい数日前に受けた傷とほぼ同じ場所だ。 「陰陽師衆に下れ、水無瀬楓真」 「……やれやれ、まさか力ずくで食いちぎるなんてな。現代人でも、子鬼でも、鬼は鬼か」  尚も余裕の態度を崩さない楓の足元に向かって、千珠は血に塗れた鎖を投げ落とした。じゃら、と金属の触れ合う音が、泥濘の中に吸い込まれていく。楓はじっとそれを見下ろして、ふっと笑った。 「何時(いつ)の世も、俺はうまくいかないさだめらしい」 「わざわざ現世にまで舞い戻って、ご苦労なことだ。さぁ、さっさと捕まれ」 「捕まる? 陰陽師衆にか。ふん、そんなのは御免被る。もう一度一ノ瀬佐為に殺されるなんてまっぴら御免だ」 「じゃあどうする。今度はまた俺の首に鎖を巻いて、俺を操るか。分かるだろう、もうお前の逃げ場はない」 「分かってるさ。どいつもこいつも、俺に向かって気を練っている。……でもな、俺はお前らなんかに下らない」  すう、と楓の腕が真っ直ぐ上空へと伸びたかと思うと、そこに生まれた空間の歪から、いつぞや珠生が真っ二つにしたはずの黒い妖犬が現れた。はっとした千珠が身構えるのを見て、楓はいつもの様に唇の片端を吊り上げて笑った。 「また生まれ変わってやるさ。何度でも、何度でもな」 「な……」  巨大な妖犬を見上げた楓は、その巨大な獣に向かって抱擁を求めるように大きく両手を広げた。 「阿修羅、俺を喰らえ!!」  阿修羅と呼ばれた巨大な妖犬の首に巻きついていた鎖が、鈍く光る。妖犬は楓に向かって牙を剥き、巨大な口を開いて獰猛に吼えた。  あっという間のことだった。  阿修羅は楓を頭から喰らい、ぶるると首を振って骨と筋を断つ。人間の骨の砕ける音が、雨の音と混じって千珠の耳に不気味に響いた。愕然とした表情のまま、千珠は思わずその場に膝をつく。  仰のいて首を伸ばしながら、楓を一息に飲み込もうとしている巨大な妖犬の口の端から、ぴょんとジーンズとスニーカーの脚が飛び出している。その様は異様に滑稽にも見え、千珠は吐き気を催しそうになった。 「妖ごと捕らえろ!!」  彰の声とともに、黒い妖犬にぐるぐると四方八方から金色の鎖が巻ついてくる。締め上げられる痛みに忌々しげな咆哮を上げながらも、妖犬は楓の肉体を全て食い尽くしてしまった。  牙に引っかかったデニムの生地、片方だけ落ちたスニーカー。  千珠は腹を押さえてへたり込んだまま、あっけない楓の最期を見守った。 「珠生!!」  十人余りの術者によって雁字搦めにされている妖犬が、ついにどうとその場に倒れ伏す。そんな光景を呆然と眺めながら、珠生は自分の名を呼ぶ懐かしい声に顔を上げた。 「珠生!」 「……舜平……さん……?」 「お前……こんな酷い怪我を……!!」  遅れてやってきた治療班の職員たちが、深春の手当を始めようと集まってきた。小雨を避けるため、深春は手早く木陰に移される。職員たちは、雨合羽やスーツのジャケットを脱ぎ、深春の濡れた身体を(くる)んでゆく。  珠生は泥濘んだ地面に座り込み、舜平にもたれかかって、陰陽師衆が妖犬を封じている様子を見つめている。その横顔からは、ようやく力が抜け始めているように見えた。  珠生のもとへ、更科と数人の治療班が駆けて来る。舜平に抱きかかえられ、下半身を真っ赤に染め上げたひどい姿を目の当たりにした更科は、さっと青ざめて息を飲んだ。 「珠生くん……ひどい怪我だ、君も木陰へ」 「おお、そうやな。つかまれ」 「いい……自分で、歩ける……」 と言ったものの、脚に力など入るわけがない。舜平はすぐに珠生を抱き上げて、更科の導きにしたがい、枝ぶりの大きな樹の下へと歩を進める。    雨が、すこしずつ弱まってきた。  舜平の身に頭をもたせかけていた珠生は、ふと、その身体に宿る力強い霊気の気配にはっとした。 「舜……! 霊気が」 「おぅ、そうやねん。だからお前のことも、すぐに治してやれるから安心しろ」 「なんで……」 「楓を止めて欲しかったんやろうな。詫び代わりのつもりか、俺の霊気を返してくれた。……といっても、俺の出番はなかったけどな」 「……俺が取り戻すって、大口叩いたのに……自力で取り返したのか。……なんか、拍子抜けだな……」 「何言ってんねん。お前が支えてくれたから、俺は今ここにおる。お前の怪我は、全部俺が治療してやる。……それであいこやな」  そう言って舜平は明るく笑う。その気持のいい笑みにつられるように、千珠も淡く微笑んだ。舜平と会話を交わすごとに、濃い紅色に染まっていた瞳は琥珀色に落ち着き、口調も態度も、いつもの穏やかさを取り戻してゆくようだった。  気が抜けた分、傷がずきずきと激しく痛み出してきた。腹を抱えて歯を食いしばり、痛みに震える千珠を木陰に連れて行くと、上半身を抱きかかえたまま落ち葉の上に座らせた。 「服をめくるよ。……うわ、これは……」  傷を改めようとシャツを捲った更科の顔が凍りつく。人の手が貫通していた傷は、直視できないほどの痛ましさだ。妖気を纏っているため、すでに少しずつ傷の回復は見られるものの、穿たれた赤黒い傷からはじゅくじゅくと血が溢れ、覗き込めば内蔵も見て取れるほどである。 「更科さんは深春のほう見てやってくれ、ここは俺一人でも大丈夫や」 「いや、しかし……」 「深春の治療も、二人や三人じゃ足りひん。今ここであいつが死んでしもたら、珠生がここまでやった意味がなくなるんや」 「……分かりました」  更科はしっかりと頷いてから、数メートル離れた場所で治療を受けている深春の元へと駆けて行く。  ふたりきりになると、珠生は突然荒い呼吸をし始め、ごぼ、とまた血を吐いた。 「はぁっ……はぁっ……は……」 「我慢しとったんか? ほら、手ぇどけ」 「いたい……いたいよ……舜……」 「大丈夫や、治してやる」  腹を抱えていた千珠の手をゆっくりと剥がすと、舜平はその傷の上に手を翳して霊力を送り込んだ。幾度と無く受けた舜平の治癒の力が懐かしく、全身の細胞が緩んでゆく。  暖かく、力強い霊気だ。誰のものよりもずっとずっと、心地良い。  淡い金色の光に傷口を覆われ、少しずつ細胞が息を吹き返していく。珠生は拳を握りしめ、痛みに堪えて目を閉じた。肩を抱く舜平の左手から、熱い体温を感じる。舜平の胸にもたれかかっていると、少し早い鼓動が聞こえてくる。 「……舜平さん……」 「ん?」 「良かった……」 「何がや」 「霊力、もどって……よかった……」 「うん……すまんかったな、あん時は、ひどいこと言うて」 「ううん……。いくら自分で、力をつけたって……やっぱり俺、舜平さんがいないと、だめだな……」 「……そうか?」  ぎゅ、と肩にかかった舜平の手に力が入る。珠生は目を閉じ、小さく微笑んだ。 「夜顔と雷燕は……?」 「大丈夫、ちゃんと生きてる」 「そっか……良かった」 「お前は動くなよ。まだ、血が止まらへん」 「ん……」 「痛みもひどいやろうけど……もうちょい堪えるんやで」 「ん……」  珠生はそれ以上何も言わなかった。集中して傷を治療しているところに、彰がやって来る。 「どうだい?」 「とりあえず、血を止める。……てか、お前までそんな顔すんな、こいつはこんなもんじゃ死なへんよ」 「うん……」  やや申し訳なさそうな表情で眉を下げ、彰は珠生の顔を見ようとしゃがみ込んだ。目を閉じて舜平にもたれかかっている珠生は、眠っているのか動かない。乱れた前髪を指先でよけてやると、珠生はうっすらと瞬きをした。 「その目の色……」 「妖気を高めてたから……雷燕とやるには、こうするしかない……し、ね」 「そうか……。珠生、すまなかったな。いつもいつも、君に頼ってばかりで」 と、彰は血に汚れた珠生の頬を指で拭ってやりながらそう言った。珠生は、少し笑う。 「慣れてるよ……」 「ははっ、言われちゃったな」 「夜顔……傷、大丈夫かな……」 「大丈夫。今、五人がかりで集中治療中だよ。肩の傷も、雷燕が入っているおかげですぐに治りそうだ」 「そう……」 と、珠生は弱々しく微笑んだ。 「君も、しばらくつらいだろうが……」 「心配ない……よ。舜平さん、いるし……」 「そうだね」  舜平は微かに汗を流しながら、珠生の傷を癒している。治癒術は集中力と根気のいる仕事なのだ。二人の会話など耳にも入っていない様子で、舜平は真剣な目つきで傷口を見据え、珠生を癒さんと気張っている。再び脱力して舜平にもたれかかった珠生は、もう一度目を閉じて溜息をついた。 「……いい気持ちだ」  小さな呟きに、舜平はちらりと珠生を見下ろす。本格的に意識を失い、眠り込んでしまった様子だ。そんな珠生に、小さく語りかける。 「もう、大丈夫やで。珠生……」  千珠であった頃から、何度も何度もかけてきてもらったこの言葉が、じんわりと魂に染みる。  珠生は微かに、唇だけで微笑んでいた。

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