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三十五、解放

「……く、くくくっ」 「……な、に……?」 「捕まえた。これでこちらの腕は使えまい」  千珠はそう言って、ぐっと腹筋を締めた。腹を貫いている雷燕の右腕を封じたのだ。  千珠は血まみれの顔で薄く笑みを浮かべながら宝刀を逆手に持ち替え、そのまま雷燕に向かって振り下ろす。なんの躊躇いも見せず、雷燕の左肩を貫いたのだ。 「ぅぐあぁああああ!!!」  肩の骨が砕け、地面に(はりつけ)にされる痛みが、雷燕の全身を駆け巡る。両腕を封じられて脚をばたつかせる雷燕を組み敷いたまま、千珠は声高に笑った。 「動けないだろう、雷燕! 俺は、あの頃とは、違う! 俺は、お前のことも、この器の少年も、なんとしてでも取り戻す!! そう皆にも約束をしたんだ!!」 「……っぐっう」  いくら右腕を動かそうとしても、ぴくりとも動かない。砕かれた左肩も、もはや感覚を失っているようだった。人間の体はこうも脆いものかと、雷燕は頭のあまり奥歯をきつく噛み締める。 「……こんな鎖。俺が食い千切ってでもお前を解放してやる」  千珠の目が、どろどろと赤い色に染まっていくのを、雷燕はただ見ていることしか出来なかった。  唇の両端を吊り上げて笑う千珠の顔は、自分以上に禍々しき存在に見える。天の使いかと見まがうほどの青白く美しい光を纏っているのに、この凍りつくような冷たさはなんだろうか。千珠は、ただ鬼の本能に突き動かされて動いているように見えた。  雷燕の首に巻き付いている鎖を、千珠は両手で掴みにかかってきた。じゅううっ……と千珠の皮膚を鎖が焼く。熱く熱くなった鎖に首を焼かれる雷燕も、痛ましい悲鳴を上げる。しかし千珠は、その手を止めなかった。 「あぁあ、ぅぐ、ぁああああ!!!」  千珠の白い手も、みるみる赤く焼けただれ、皮膚が焼ける匂いが鼻をつく。両手でその鎖を掴み、ぎりぎりと力技でその戒めを解こうとする形相は、まさに鬼だった。  ゆる、ゆると鎖の(たが)が緩み始めたのを見て、千珠はまたにやりと唇を吊り上げた。尚も悲鳴を上げ続ける雷燕の様子を気にする素振りも見せず、千珠は緩んだ鎖の一部に喰らいついた。  その様子は、まるで千珠が雷燕を貪り食っているように見えた。雷燕の首に巻き付いた鎖に歯を立て、鎖を食い千切ろうとしている姿はひどく獣じみてじて、呪わしいほどに禍々しいものに見える。  雷燕は痛みのあまり霞みがかってきた頭で、血に濡れた千珠の姿を見上げていた。身体から、徐々に力が抜けていくのが分かった。鎖の戒めの痛みすら、遠く離れていくようだった。  千珠の白い犬歯が、妙に鋭く見える。人を喰らう鬼の鋭牙で、自分が食われているような気持がしていた。  がきん!! と鎖の砕ける金属音が鈍く響く。鎖の一部をついに食い千切った千珠が、顎を仰のかせて首を振る。  そして、血の塊とともに鎖の一部を、地面に吐き出した。  千珠はぐいと右手で口元を拭い、もう一度血を地面に吐き出す。緩んだ鎖を解き、雷燕の首から外した千珠は、それを楓に見せつけるように高く掲げた。 「ほらな、お前なら……死なないとわかっていた」  千珠は笑みを浮かべ、雷燕を見下ろした。もはや痛覚の限界を超えた首筋も、左肩も、何も感じなかった。しかし、どういうわけか目からは熱い液体がぼろぼろと流れだす。それは深春のものなのか、雷燕自身のものなのか、分からなかった。  ただ分かるのは、自分が自由になったということ。誰の束縛も、その身の中に存在しないということだ。 「……礼を言う、千珠」 「ふん、お前はさっさと封印でもしてもらえ」  ずぶ、と千珠の腹から腕を抜き去る。今まで感じていた千珠の熱い妖気や早い鼓動を感じなくなり、少しばかり体温が下がったように感じられた。  千珠は腹を押さえてよろよろと立ち上がり、今度は楓の方をじっと見据えた。  楓は、無表情に千珠を見ている。  雨が千珠の血を流し、辺りを血の海に染めていく。 「……俺の勝ちだ、水無瀬楓」   +  舜平が現場に駆けつけると、そこには地獄絵図のような風景が広がっていた。  真っ黒に焼け焦げた平原。  その中央で深春を組み敷き、その身を貪り食っているように見える珠生の背中。  それを呆然と見ている術者たちの青白い顔。  そして、少し離れた場所で、腕組みをして立っている楓の姿。  状況が見えず、舜平は薫の腕をぱっと離して彰を探した。ほどなく見つかった彰に駆け寄ると、肩をぐいと引いて状況を聞く。 「舜平……!」 「おい、どうなってんねん! 珠生は……深春に何してる!」 「祓い人の鎖を、食い千切ろうとしているらしい」 「はぁ!?」  今までの戦況を聞き、珠生の腹を突き破っている深春の手首を見つけてぞっとする。気づけばそばに来ていた薫が、ぎゅっと濡れた舜平のシャツをつかんでいた。 「……その子は?」 「祓い人の一人や。楓と拓人の幼馴染だそうだ」 「……そうか」  薫は彰を恐ろしげに見上げると、ささっと舜平の背後に隠れる。こんな小さな少年にも、彰の不気味さは分かるらしいと、舜平は内心思った。 「珠生が圧倒し始めてから、雷燕の妖気はみるみる弱まっている。結界も、はじめはもつかどうか不安になるほどだったが、今は安定している」 「そうか」 「二人とも、ひどい怪我だろう」 「大丈夫や、俺が治す」 「え?……あれ、君……」  彰はまじまじと舜平の全身を見回して、ぱっと顔を輝かせた。 「舜平、その力……!」 「あぁ。祓い人のばあさんが降参してな、俺に返してくてたんや。もう誰も、楓を止められへんから、頼むってさ」 「現金なやつらだ」 「頼むって……どういうこと? 楓を、殺すの?」  舜平の尻の後ろ辺で話を聞いていた薫が、おずおずとそんなことを尋ねてきた。彰に再びじろりと見下され、薫はまたさっと身を隠す。 「おい、ガキをそんな物騒な目で見るな。この子にはそんな霊気ないやろ」 「物騒なとはなんだ。ただ見ているだけじゃないか」 と、彰は肩をすくめてしゃがみ込む。目線を合わせると、薫は更に泣きそうな顔になった。 「君は楓を止めに来たのか」 「……ううん。僕の言うことなんか、きくわけない」 「じゃあ何故、ここへ来た」 「深春が……心配で」 「深春が?」 「閉じ込められている時、僕はずっと一緒にいたんだ。楓は僕を雷燕の餌にするって言ってたけど、深春は何もしなかったし、ずっと泣いてた」 「……」 「誰も殺したくない、って泣いてたんだよ。だから……僕は……」 「そうか。分かった」  彰は立ち上がると、再び戦況を見つめた。舜平もやきもきする思いを抱えながら、じっと珠生の背中を見つめている。  その時、珠生の右腕が高く上がり、その手に鎖が握りしめられているのがはっきりと見て取れた。 「鎖が外れた……! 楓を捕らえるぞ!」  彰が近くの者に指示を飛ばす声が鋭く響く。舜平も拳を握りしめ、飛び出すタイミングを伺う。  しかし、手駒を失った楓がとった行動に、面々はただ驚くばかりだった。

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