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三十八、生まれてきた意味

 燕の声がする。  歌声が、明るい青空に吸い込まれる。  眩しい太陽と新緑、黒い羽、瞬く間に後ろへと流れる景色……どれもこれも鮮やかな希望に満ち、なんとも言えず美しい風景だった。  ――これが、雷燕の見ていた風景。  その身を賭けて護りたいと願った、人々との営み……。  深春は、田園風景の中に立っていた。  水田に植えられたばかりの青い苗、きらきらと光りを反射しながら流れる小川、あぜ道に咲く小さな白い花や黄色い花、そして、その頭上を楽しげに飛び回る黒い燕たち。  ざぁ、と心地の良い風が深春の髪を乱して吹き抜けていく。ふんわりとした花の香り、木々の香りに、思わず表情が緩む。  ――なんて、気持ちがいいんだろう……。それにここ、何だか見覚えがあるような気がする。  あぁ、そうか。夜顔(おれ)の見ていた風景に似ている……。  その場所は、夜顔が藤之助と暮らした里の風景によく似ていた。雷燕……自分の父親と同じように、人々との営みを護りたいと願い、終生そうして過ごしたあの里の風景と、雷燕の見た風景はとても似ているのだ。 「……お前が、俺の子か」  若い男の声がして、深春はくるりと振り返った。  太陽の眩しい光を浴びてそこに立っているのは、夜顔と面差しのよく似た若い男だった。すこし癖のある黒髪、黒目の大きなきらめく目元、それは夜顔や深春の顔立ちと、とても良く似ている。 「……雷燕」 「その姿は……転生した少年のものだな。どちらも、俺そっくりだな」 「うん……そうかもな」  若かりし頃の雷燕は驚くほど優しい顔で微笑み、そっと深春の頭に手を乗せた。今の深春の身長と変わらない雷燕の白い腕が、苔色の着物の袖口からのぞいている。 「名を、なんと?」 「深春……昔は、夜顔っていう名前をつけてもらった」 「夜顔、深春……そうか。良い名だな」 「あんたは、夜顔(おれ)にそっくりだ」 「……望まれぬ形で生まれ、随分とつらい思いをさせたと聞いている。悪いことをしたな」 「まぁ……今更あんたを責めるつもりはねぇよ。出会えてよかったと思える人も、たくさんできた。俺も、人間と一緒に暮らせて幸せだって、感じたし」 「そうか」 「あんたも、そうだったんだな。この景色を見れば分かる」 「……ああ、とても、幸せだった。願わくば、ずっとこの景色の中で歌って暮らしていたかった」 「そうだよな」  二人はしばし黙って、美しい田園風景を眺めた。  風の音と水の流れる音がするほかは、何の音も気配もない。  それは、記憶の中の風景に二人が立っているからだ。  雷燕は少しばかり寂しそうに微笑むと、改めて深春の方を向く。 「しかし、この風景はもうどこにもない。時代は移り変わり、俺も随分と様変わりしてしまった」 「……うん」 「でも、お前とこうしてのんびり話ができて、とても嬉しい」  雷燕はまたにっこりと笑い、白い歯を見せた。 「お前の身体の中で、お前の気持ちを感じたよ。千珠のこと、とても信頼しているのだな」 「ああ。今も昔も、俺を孤独から救い上げてくれた。大事な大事な、兄貴分だ」 「そうか……お前を救うため、随分と無茶な戦い方をしていたな。あの気概、昔よりもずっと迫ってくるものがあった」 「……うん」 「お前は大事にされている。俺はそれが嬉しい。これで、気がかりは何もなくなった」 「え?」  雷燕は微笑んで、空を見あげた。 「そろそろ、眠るのにも飽きた。天にのぼって、もう一度あの小さな燕だった頃からやり直したいと思っている」 「……死ぬ、ってこと?」 「死は終わりではないよ、深春。俺は少し長く生き過ぎたのだ……そろそろ、この重たい妖力を捨てて、自由な一つの魂に戻りたい」 「そっか……」 「目が覚めたら、お前の仲間たちにそう伝えて欲しい」 「……分かった。それで、あんたが自由になれるんなら」 「頼んだぞ」  深春は、しげしげと雷燕の横顔を見つめた。  しっかりとその目に焼き付けたいと思った。かつて夜叉のようであった自分を生み出した父であり、すべての始まりのきっかけとなった存在を。  不思議と、一度も憎らしいと思ったことはなかった。ずっとずっと、会ってみたいと思っていた。  会えばきっと、自分が生まれてきた意味が分かると思っていた。 「……俺さ」 「ん?」 「今日この景色を見て、なんかすごく納得したんだ」 「ほう」 「夜顔(おれ)が愛した景色と、すごく似てる。俺もこんな風景の中で、沢山癒されて、沢山色んな物をもらった。そこにいる人達を、愛おしいと思った」 「そうか」 「あんたも、そうだったんだな。今はそれがよく分かる。……それを穢されたあんたの無念も、怒りも」 「……そうか」 「現世には、確かにこんな風景どこにもねぇよ。そりゃ、ど田舎に行きゃあるかもしんねぇけど、これと同じ風景はどこにもない」  深春は髪を掻き上げて、もう一度ぐるりと回りを見渡した。 「もうこんな世界に戻れないのかと思うと……ずっと、それが寂しくて。すごくつらいって思ってた。でも今はもう、大丈夫だって思える」  それを聞いて、雷燕はとても幸せそうに笑った。そんな笑顔を見て、深春も顔をほころばせる。 「しっかり、受け取った。あんたが見た景色。俺は、なんでこんなつらい目にあってまで、もう一回転生したんだろうって、ずっとずっと悩んでた。でも……きっと、今この瞬間のためだったんだなって思うよ」 「そうか」 「きれいだな、本当に。今までのどんなどろどろした想いも洗い流されるくらい、きれいだ」 「……ありがとう、深春」  すう……と雷燕の肌が光に透け始める。深春の言葉を聞いて満足気に微笑む雷燕の姿は、きらきらと光をまとって空気と一体になろうとしているようだった。 「ありがとう……夜顔」 「雷燕……」 「最期にお前に会えて、本当に良かった。その言葉が聞けて、本当に嬉しい」 「ああ……」 「俺は行く。またどこかで、会えたらいいな」 「ああ、そうだな。燕を見たら、あんたのことを思い出すよ」 「ふ……それがいい」  みるみるうちに、雷燕の姿は小さな小さな光の粒となって消えていく。笑顔を残して消えてゆきながら、最後にふわりと深春の頬に触れる体温を感じた。  ――また、どこかで会おう……深春。  一陣の風とともに、雷燕の笑顔が消えていく。この風景の一部となることを、雷燕が心底幸せだと感じているのが伝わってくる。  またこの世界どこかで、彼は新たな魂へと生まれ変わるのだろう。 「……またな、父さん」  深春は雷燕を見送りながら、微笑んだ。  胸の中に、暖かいものが溢れている。  優しい風と、優しい温もりを肌に感じながら、深春は一筋だけ、涙を流した。    

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