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三十九、消えた気配

 夜半すぎにくたびれ果てて戻ってきた彰と敦、そして藍沢は、宿で深春の治療に当たっていた術者達からの報告に目を丸くした。 「雷燕の気配が、消えただって?」 「そうなんです。封印班の方にも連絡してみたら、封印場所からも雷燕の妖気が全く感じられなくなったと」  困惑気味にそう説明するのは、更科だった。ジャケットもネクタイも外したラフな格好ながら、相当な疲れは見える。 「なんで……」 と、藍沢。 「成仏した、ってことか」 と、敦。 「深春を守ることで消耗し、結果的にそうなったとも考えられるけど……」 と、彰。 「深春くんの怪我は、もうほとんど癒えました。ただ、まだ目を覚ましません」 「もう治ったのかい?」 「ええ。異様な速さで」 「なるほどね」  やはり雷燕は深春にすべての力を注いだのだろうか……と、彰は顎に指を当てて少しうつむく。 「とりあえず、深春の顔を見せてくれ。珠生は?」 「舜平くんがぶっ通しで治療を。一人でいいからと言って」 「そう。舜平まで倒れてなきゃいいけど」 「俺が手伝っちゃろうか」 と、敦が張り切るのを、藍沢がまぁまぁと宥めている。 「どうせ手を出させてくれませんよ。彼は」 「でもなぁ」 「まぁいいさ。とりあえず深春の様子と、雷燕の気配を探りに行く。君たちは休んでもいいよ」 「佐為さま一人で働かせるわけに行きませんよ。僕も行きます」 と、律儀に藍沢はついてくる。しかし敦はあーあと大あくびをして、「ほんなら俺は先に温泉入らせてもらうけん。なんかあったら呼んで」と、気楽なものだ。  彰は藍沢を見て、「君もいいんだよ。後始末で疲れたろう」と言う。 「いえ。……祓い人の一件は、僕にとっても前世の因縁が絡んだことです。全てを見ておきたいんです」 「そう」  彰は頷いて、更科の案内についていく。  藍沢はその後に続きながら、ようやく何か一つのことが終焉を迎えたことと、それがまた自分の手の届かないところで終わっていった事実を、複雑な思いで振り返っていた。  前世でも、須磨浮丸の失態は佐為によって片が付けられ、今回も珠生の力を全面的に頼る形になった。  祓い人と陰陽師衆との、長い長い音のない諍いですら、こうして莉央や高遠によって行政的に始末が付けられたのだ。  ――結局僕は、あの頃と同じ何も出来ない若造のままか……。  年下の佐為や珠生にさえ、力では到底及ばない。それが事実であり、現実だ。  圧倒的な悪に対しては、それに拮抗するか力か、それ以上の力でしか対抗することが出来ない。それが分かっていたから、現世では相当な修行を積んだとつもりだった。しかし、生まれながらの器の違いをこうもはっきりと見せつけられるとは。  彰のすらりとした背中を追っていると、それが陰陽師衆の黒装束の後ろ姿に見えた。  いつも、誰よりもずっと先を行く背中。  陰陽師衆最強の男・一ノ瀬佐為。  常に複雑な思いを喚起させられる男。  ――今も、変わらぬまま……か。  自分がひどく、小さな人間に思えた。十七歳の浮丸に戻ったような心地がした。    +  ――うう……腹が痛い……。あれ……なんか、前もこんなことがあったような気がするな……。  ――あぁ、そうだ。十六夜結界術を張り治した時……草薙を取られそうになった時、妖魔が俺の腹を貫いたんだった。そんなんばっかりだな、俺の腹……。  ――あの時も、舜平さんが治してくれたんだっけ。その前に、葉山さんにナイフで腹から毒を出すっていう荒療治を受けたんだ。……あそこまでする必要あったのかなぁ……?すっごく痛かった。妖魔に貫かれるのより痛かった。葉山さんて結構雑なところあるから……。  珠生は淡々とそんなことを考えながら、ふと目を開いた。  身体を少し動かそうとしただけで、ずきずきと信じられないくらいの痛みが全身を走る。思わず呻いて歯を食いしばると、身体を丸めて痛みを堪えようと頑張った。 「うっ……う……ぐ」 「珠生。目、覚めたんか」 「……舜平さん」  珠生の寝かされている部屋は暗いが、隣の部屋には灯りが点いていて、そこから舜平が顔をのぞかせた。辺りはしんとしてとても静かだ。もう夜なのだろうか、障子の向こうも暗い。  舜平はベッドの脇に膝をつくと、起き上がろうとする珠生の背に手を添えて補助をしてくれる。起き上がってみるとまたずきずきと痛みが走り、珠生は顔をしかめて小さく呻く。 「ひどい汗やな。身体を拭いてやる。血は大分落とせたんやけど」  見下ろすと、自分が浴衣を身に纏っていることに気づく。あれだけ流した血も、ほとんど身体にはもう付いていない。  それでも、血なまぐさい匂いは消えない。珠生は鼻をひくつかせて、舜平を見上げる。 「ねぇ、シャワー、浴びたい……」 「はぁ? 無茶言うな」 「血の匂い……無理、吐きそう」 「え、そんなにか?」 「お願いだよ。今は、血の匂いが……なんか、きつい……」 「……」  舜平は困った顔をしていたが、珠生の訴えかけてくる目つきに負けて、ため息をついた。 「しゃあないなぁ……」  立ち上がれないため、舜海に抱きかかえられて部屋の風呂場まで行く。浴衣を脱がされ、腹に貼り付けられたガーゼだけという姿にされたが、痛みのせいでそれを恥ずかしいとも思う余裕はなかった。 「っつー……。痛い……っ」 「まったく……無茶ばかりしよって」  舜平は服を着たままで、珠生にゆるく出したシャワーの湯を浴びせた。椅子に腰掛けた珠生の肌をゆるゆると擦っては血を洗い流していく。珠生は痛みを逃がすように、浅い呼吸を繰り返している。  下半身を覆うタオルが、気づけば血の色に染まっている。こびりついていた血が洗い流されてゆく。 「血……宿の人がびっくりするよね」 「まぁ、いつものように後始末はしてくれはるやろ」 「うん……」 「ちょっとはマシか?」 「……うん、ありがとう」  きゅ、とシャワーのコックをひねり水を止めた舜平は、乾いたバスタオルを珠生の頭に掛けた。そしてそのままわしわしと珠生の髪の毛を拭い始める。  身体を洗ったことで幾分気分が晴れると、何となく腹の傷もさっきほど痛くないような気がした。バスタオルを腰に巻いたまま何とか立ち上がった珠生は、自力で歩いてベッドまで戻った。「おお、さすが」と、舜平もやや驚いている。 「すごい、貫かれてたのに……もうここまで治ったんだ」  濡れたガーゼを剥がして自分の腹の中心を見下ろすと、穿たれ血が溢れていた傷はもうそこにはなかった。赤黒いケロイド状の引き攣れたような傷痕は残っているものの、血はすっかり止まっている。 「めっちゃ疲れたわ。丸一日ぶっ通しで手当してたから」 「……ありがとう」 「じゃないと、出血多量で死んでたかもな。只の人間なら、間違い無く死ぬ傷やってんで。千珠の妖気で、大分守られていたみたいやけどな」 「そっか。え……もう丸一日経ってるの?」 「せやで、お前ずっと、微動だにせんと眠っとったんやで。深春も、そんな感じや」  深春の名を聞き、珠生の表情が険しくなる。舜平は慌ててそんな珠生をなだめた。 「あいつは大丈夫や。お前よりもずっと軽傷やねん。雷燕の妖気のおかげでな」 「そうか……。良かった。もう目を覚ましたかな」 「いや、まだや。でも、静かに寝てるらしい」 「顔を……見たいな」 「もう少しお前が元気になったらな」  そう言って、舜平は新しい浴衣を着込んだ珠生をベッドに押し付けるように寝かせると、半ば強引に布団をかぶせる。珠生は息を吐いて部屋を見回した。 「湊は?」 「お役所仕事の手伝いに行ってる。祓い人たちを、全員宮内庁の管理下に置くらしい」 「ついに、か」 「まぁ、向こうの長が白旗振ってるからな。すんなりいってるみたいやで」 「楓のことは……」 「行方不明、ってことで一応警察に捜索願を出すってさ」 「そう……」  珠生は舜平の方を向こうと寝返りを打ちかけたが、腹の痛みにまた顔をしかめ、脱力して天井を仰いだ。舜平の手が頭を撫でるのを感じながら、ずきずきと心臓の鼓動にあわせて痛む腹を押さえる。 「……ってぇ……」 「塞がってはいるけど、まだ内臓のほうは治りきってないねん。だからあんま動くな」 と、呆れ顔をする。 「……じゃあ……俺を抱いてよ。そしたらすぐ、治る……」  珠生は布団の下から手を出して、舜平の腕を掴んだ。くるりとした大きな目に見つめられ、どくんと舜平の心臓が跳ねる。 「……あかんあかん。今はまだ、駄目や」 「でも」 「ちょっと動いただけでそうやって呻いてんのに、出来るわけ無いやろ」 「う。でも比叡山では……」 「あん時は、ここまでひどくなかったからや」 「……なんだよもう」  不貞腐れてしまったのか、珠生がぷいとそっぽを向く。舜平は笑って、珠生の頭を撫でた。 「それに俺も、ちょっと霊気を回復しなあかんから。すまんな」 「あ、いや……。ごめん、そうだよね」 「ここな、離れの一番いい部屋やねんて。お前の調子が上がったら、京都に戻る前に一回くらいやってやる」 「……京都、か。あれ、今日何曜日?」 「土曜やな」 「あれ……? 結局何日こっちにいたんだっけ……」 「えーと……四日間、かな。振り返ってみれば短いもんや」 「そか……でも、早く帰んなきゃ。父さん、心配する……」 「お、ようやく現実に戻ってきたな。そうやで、せやから早く治さなな」 「うん……」  髪を梳く舜平の手の温度が心地いい。珠生はもう一度舜平を見上げて、その身に蘇った力強い霊気を感じていた。  黒い瞳が、珠生の目を写す。  そっと微笑む舜平の優しい表情を見ているだけで、安堵からか涙が溢れそうになった。あんなにも張り詰めていた気持ちが、ぷつんと糸が切れるように、一気に解ける。 「……こっち来て。添い寝して」 「え」 「眠い、寒い。早く」 「あぁ……ええけど」  舜平が布団に入ってくる。首の下に腕を通し、背中からすっぽりと抱きすくめられる格好になると、全身から伝わってくる舜平の体温と霊気に身体が緩み、自然と珠生の目からは涙が流れた。涙腺まで緩んでしまったらしい。 「……あったかい」 「ゆっくり寝てろ」 「ん……」  とろとろとした心地良い微睡みの中に沈む。髪に頬を寄せる舜平の微かな動きを、懐かしく愛おしく感じる。  珠生は再び、深い眠りの中に落ちていった。

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