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『珠生、社会人一年目の夏』〈12〉

  「すまんかったな、相変わらずやかましいやつらで」 「ううん、楽しかったよ」 「そうか? そんならよかってんけど」  相田家に寄ったあと、舜平は珠生の自宅へと向かって車を走らせていた。  宗円は不在であったのだが、舜平の母・美津子と将太は在宅であり、珠生は素晴らしく歓待された。美津子に昼食とデザートを振舞われながら、『スーツが素敵やわぁ』『すっかり大人っぽくなって、かっこようなったなぁ』『今夜は泊まっていくかぁ?』とべたべたちやほやされまくっていたのである。  あまりに珠生を構いたがる母親を、舜平は何度も窘めていたものだが、美津子はすっかりテンションが上がってしまっていて聞く耳を持たない。笑って見ているだけの将太に対して、舜平がぷりぷりと怒っている姿を見るのも楽しく、珠生はすっかり相田家に長居をしてしまったというわけである。  そして帰り際、駐車場まで見送りに出てきた将太は、舜平と珠生を見比べつつ、意味深な笑みを浮かべてこう言った。 「うちのおかん、ほんっまに珠生くんのこと好きやからなぁ。いっそほんまに嫁に来てくれたらええんやけど?」 「いえ、あの……嫁って言われても……」 と、冗談の通じない珠生がまごついていると、舜平がずずいと将太の前に進み出る。 「兄貴、おかんに余計なこと言ってへんやろうな」 「余計なことって? 別に何も言うてへんけど」 「……ならいいけど。てか、嫁とか訳わからんこと言うなって。それよりお前がはよう嫁探しせぇや!」 「俺は色々修行せなあかんことがあって忙しいねん。お前こそ、新生活でいい出会いはあったんか?」 「えっ? ……そんなん、あるわけないやん。俺も何かと忙しいねん」  いつもは大人びた余裕を漂わせる舜平も、将太の前ではどことなく幼く見える。そんな舜平の姿が新鮮で、可愛くて、珠生は思わずにやけてしまうのであった。  なんやかんやと言い合いをしていても、別れ際には「修行とか言うてるけど、あんま無理すんなよ。兄貴、夏場はすぐ熱出すんやから」と兄を気遣うことを忘れない。そんな舜平を愛おしげな目つきで見つめつつ、「分かってるて。気ぃつけて帰るんやで」と手を振る将太の姿もまた麗しく、珠生は和やかな気分で相田家を後にしたのであった。 「舜平さんたちって、本当に仲良いよね」 「そうかぁ? 普通やろ」 「なんかこう、愛に溢れていると言うか……」 「はぁ? きもいこといわんといてくれ。そういえば、千秋ちゃんは元気なんか?」 「んー……最近連絡とってないから知らないけど、何も言ってこないってことは元気なんじゃないの」 「……ドライな双子やなぁ」  千秋は採用試験をクリアして、今年の春から地元の千葉で中学校教師をしている。ずっと交際していた大北正也も地元である埼玉へ戻ったあと、そこでスポーツメーカーに勤務しているのだと聞いた。これまでよりぐっと距離が縮まった二人の関係がどうなっているのかは分からないが、きっと千秋が正也を尻に敷きつつ、楽しくやっているのだろう。  千秋のことを思い、久しぶりに舜平の車に揺られていると、学生時代が懐かしくなってくる。  初めて比叡山にやってきた時、珠生はまだ前世の記憶には目覚めていなかった。過去の記憶と感情に振り回され、舜平への気持ちに戸惑いを感じながら運命に翻弄されていたあの頃を思うと、二人の関係も随分と落ち着いたものになったなと感じる。  夏の風が吹き込む窓から外を眺めていると、すっと舜平の手が珠生の手を握った。珠生はちょっとびっくりして、舜平の横顔を見あげた。 「ど、どうしたんだよ、急に……」 「いや、なんとなく」  珠生の白い指を握る舜平の大きな手を見下ろしていると、なんとなく離れがたい気分になってくる。この催事の間も、共に過ごす時間はあったけれど、思うように舜平に触れることができなかった。  本当は、もっと舜平を感じていたい。  同じ京都府内にいるというのに、舜平の存在をいつになく遠く感じる。互いに社会人になったのだから、会えない時間が増えるのは当たり前のことだ。それを寂しいと思う余裕もなくここまで過ごしてきたけれど、こうして二人きりになったとき、舜平と離れるのが寂しくてたまらない気持ちになるのだ。  ――女々しいな、俺……。  そんな自分が恥ずかしいし、情けない。  でも珠生は舜平に、こう尋ねずにはいられなかった。 「……。次会えるの、いつだろ」 「え? あぁ……せやなぁ。俺、今月と来月はかなり忙しいから、多分全然会えへんと思うねん。盆休みもないし」 「あ……そっか」 「お前は?」 「ええと……」  思いの外あっさりした返事に、珠生はさらなる寂しさを感じずにはいられなかった。しかし、ここで珠生ひとりが寂しがるのはどうにも居心地が悪い気がして、珠生は何でもないふうを装いつつ、この先数ヶ月のスケジュールを淡々と舜平に話して聞かせた。まともに休みがあるのはほんの数日だが、お役所仕事の研修期間が終われば、もっと規則正しい生活を送れるはず――そんなことを舜平に話しつつ、珠生ふと出張の予定を思い出していた。 「あ……そうだ。再来月の頭に、東京出張があるんだよね」 「九月か。まだまだ暑いやろうな」 「うん。高遠さんと一緒って聞いたけど」 「……そっか」  舜平は淡々と返事をしつつ、車を珠生の自宅マンションの駐車場に滑り込ませた。  何かもの言いたげにしている舜平の言葉を待っていると、舜平はあっさりと珠生の手を離した。珠生が拍子抜けしていると、舜平はいつものように明るい笑みを浮かべる。 「その頃までには、俺も落ち着いてると思うし。また連絡するわ」 「あ、うん……」 「そんな寂しそうな顔すんなって。お前も忙しいんやから、空いてる時間があるなら、ちゃんと飯食って身体を休めろよ」 「うん……って、別に寂しそうな顔なんてしてないし」 「ははっ、せやな」  舜平はからりと笑い、珠生を愛おしげに見つめながら優しく頭を撫でた。軽く額に触れる舜平の唇を感じていると、もっと舜平の体温を感じていたくなってしまう。  しかしこれから舜平は仕事だし、あまり甘えてもいられない。珠生は振り切るように車から降りると、運転席側に回って笑みを浮かべた。 「じゃあ、またね」 「おう。お役所仕事、頑張れよ。あと英語もな」 「わかってるよ、うるさいなぁ」 「ははっ、ほなな」  舜平はぽんと珠生の頭を撫で、そのまま潔く去っていった。車の後ろ姿が見えなくなるまで見送っていた珠生は、はぁと重いため息をつく。 「……ダメだダメだ。しゃきっとしなきゃ」  珠生はばしばしと軽く頬を叩き、きれいに晴れ渡った空を見上げた。  ――俺には俺のやるべきことがあるんだ。別の道を歩いてる舜平さんに、いつまでもべたべた甘えてなんかいられない。  珠生の気持ちとは裏腹に澄み渡る空から目をそらし、珠生はマンションの中へ入っていった。

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