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『珠生、社会人一年目の夏』〈11〉
ホテルのラウンジにて、フェルディナンド王子と露草宮をお送りするささやかな会が催された。
時折つっかえつっかえしつつも、フェルディナンド王子は日本語を使って、今回の催事に対する謝辞を述べた。そして、スウェーデン行きを快諾した常盤への期待を述べ、今後の親密な付き合いを望む旨を熱く語り、最後に深々と礼をしたのである。
珠生は彰の隣で拍手をしながら、フェルディナンド王子の姿を見守っていた。すると王子はまっすぐに珠生の方へと歩み寄ってきて、ぎゅっと珠生と彰の手を握りしめたのである。
「えっ」
「沖野珠生くん、斎木彰くん、ありがとう」
「あっ、いいえ! とんでもないです……」
フェルディナンド王子の澄み渡る青い瞳に突然間近で見つめられ、珠生はたじろぐばかりである。だが彰は爽やかに微笑んで「光栄です、陛下」と流暢な英語で述べた。彰は英語まで堪能なのかと衝撃を受けつつ、珠生も彰を見習って、なんとか引きつった笑みを浮かべてみた。
その時ふと、珠生はフェルディナンド王子の霊気の匂いに違和感を感じ、ぴくりと鼻をひくつかせた。珠生の手を握る大きな手から感じる何かに、珠生の中の妖の血がかすかにざわめく。
――この人、家系のどこかに妖がいたんだ。
王族の血筋であるはずだが、王子の中には確かに妖の血の気配がある。いつどこで妖の胤が混じり込んだのかは分からないが、それならば、視えすぎる目のことも、他の妖にちょっかいを出される理由も、分からなくはない。ひょっとすると、今後王子が狙われる頻度は増えるかもしれない――これは、莉央と藤原にしっかりと伝えておかねばと、珠生は思った。
そのあと、王子は陰陽師衆一人一人と握手を交わし、一言ずつ言葉を交わし始めた。ミーハーな五條などは目をキラキラさせてはしゃいでいる。他の女性職員たちからも黄色い声が上がるが、王子は嫌な顔ひとつせず丁寧に陰陽師衆と接している。彼の気さくな人柄を微笑ましく見つめながら、珠生は隣にいる舜平にさっき気づいたことを話してみた。
「そうなんや。……へぇ」
「ん? まさか舜平さん、もう気づいてたとか?」
「いや、あの人と初めて目が会うた時、なんかハッとしたような顔でこっち見てはってな。なんでやろうって思っててんけど……」
「舜平さんの霊気は美味そうだからなぁ、ついつい反応しちゃったのかもね」
「……美味そうて。お前ら俺をどんな目で見てんねん」
「ふふっ」
王子が舜平の気に反応してしまった気持ちは、よく分かる。
舜平の霊気は大きくて強く、穏やかな波のような包容力がある。ここへきた当初、王子はひどく不安げな顔をしていた。何か頼れるもの、導いてくれるものを探してもがいている……舞台の影から王子を見たとき、珠生はそういう印象を抱いたものであった。
見たところ、王子の霊気の中に潜む妖気の気配は、どことなく危うい。今後この妖気の育ち方によっては、王子はまた悩ましい思いをするかもしれない。
そういう不安定な揺らぎを抱える者が、舜平の泰然とした霊力にもたれかかりたくなるのはよく分かる。舜平のそれは、どっしりと佇む大樹のような、優しい力だからだ。
――昔から、変わらないなぁ。
王子と握手を交わしながら英語で会話している舜平の後ろ姿を見つめながら、珠生はふとそんなことを思った。
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そして、王子と露草宮は陰陽師衆に手を振りながら、ホテルの玄関前に止められた黒塗りのリムジンに乗り込んでいった。藤原と莉央もそれに同乗し、主賓が去っていったことで、その場の雰囲気が一気に弛緩してゆく。
しかし緩みかけた空気を締めるように、ぱんぱんと高遠が手を打った。
「はい、みんなお疲れ様〜! 午後から出勤の人は、そろそろ職場の方へ行ってくださいね。オフの人は……ふふ、何を隠そう、実はこのホテル、正午までは我々の貸切だ。ランチを取るなりプールで泳ぐなり、好きに過ごして行っていいそうだから、のんびりしていってくださいね」
高遠のその言葉に、歓喜と悲哀の声が入り混じる。
珠生と湊はオフであるため、なんとなく顔を見合わせた。
「舜平は? 今日日曜やし、休みやんな?」
と、湊が舜平に声をかけている。舜平は大きく伸びをしながら頷くが、「でも、夕方からちょっと出なあかんねん。実験結果見にいかなあかんもんがあってな」と言った。珠生は少なからずがっかりしたが、それを悟られぬように、つとめてさばさばした口調でこう言った。
「そっか。昼ぐらい、一緒に食べる?」
「おう、せやな。せっかく比叡山まで来たし、後でちょっと実家にも顔だそかなと思ってんねん」
「最近帰ってないの?」
「せやねん。まぁ、帰ろうと思えばいくらでも帰れんねんけど、ここんとこ忙しかったし」
「そっかぁ」
「お前も来るか? 兄貴がうっさいねん。珠生くんは元気してんのかって」
「えっ、そうなんだ。そういえば、入庁してから将太さんに会ってないかも……」
「ほな、いく? おとんとおかんもお前に会いたがってたし。その後、ついでやし家まで送ったるで」
「あ……うん。じゃあ、そうするよ」
という珠生と舜平のやり取りを聞いていた彰は、二日酔いの青い顔のまま、羨ましげにため息をつきながらこう言った。
「すっかり家族公認の仲なんだね」
「えっ!? こっ、公認とかそういうんじゃないし! ほら、宗円さんは十六夜の時とか色々お世話になったし、将太さんはずっと修行を……!」
「ふふっ、照れちゃって。かわいいなぁ珠生は。そういうとこ、社会人になっても変わってなくて、僕は嬉しいよ」
彰はぽん、と珠生と舜平の肩を叩き、意味深な目つきで舜平を見上げた。舜平が眉をぴくりと動かすと、彰はなにやら含みのある笑みを浮かべた。
「僕はもう帰るよ。ちょっと眠ってから、また病院に行かないと」
「おう、そうか。お前も大変やな」
「ん〜まぁね。でも、ちょっと楽しみも増えたから」
「楽しみって?」
「これからも期待してるよ、舜平」
「はぁ? なんのこっちゃ」
彰はバシバシと舜平の背中を叩いた後、珠生に軽くハグして、軽やかにその場を去って行った。見れば、彰が歩いていった方向には葉山がいる。彰は、ロビーのソファに腰掛けて高遠と話をしていた葉山に声をかけ、連れ立ってホテルを出ていった。きっとふたりは同じ場所に帰るんだろうな……と、珠生は思った。
「さぁてと、俺も今日ははよ帰らせてもらうわ」
と、湊がスマートフォンをいじりながらそう言った。
「なんや、帰るんか。飯くらい食っていくんかと思ってたわ」
と、舜平。
「まぁ、俺もたまには、週末にのんびり百合と過ごしたいしな」
と、湊はくいとメガネを押し上げる。
「戸部さん、元気してるの? どこで働いてるんだっけ?」
と、珠生。
「嵐山の方やで。事務職やから、週末の休みはきっちりしててな。俺とはちょっとスケジュールが合わへんねんなぁ」
「へぇ……そっか。さみしいね」
百合子と湊のことであるから、その程度のことで関係が破綻することはないだろうとは思いつつ、珠生は若干しんみしりしたような口調でそう言った。すると湊は、いつもと変わらぬ淡々とした口調で、こんなことを言い出した。
「あぁ、でも大丈夫やで。秋に結婚するから、一緒に住めるようになるし」
「そっか、それなら安心……………………えぇええ!? け、けっこん!!??」
珍しく、珠生が大声を出したものだから、そのあたりに残っていた敦や佐久間が仰天している。
そして舜平も、目をまん丸にしているのである。
「はぁ!? 湊お前、結婚すんのか!?」
「あぁ、せやねん。報告遅れて、すまんかったな」
「い、い、いつ!? いつすんの!? い、いつの間にそんなことに……!?」
「珠生、落ち着けって。……この催事が終わったら言おうと思っててん。二ヶ月くらい前かな、入庁して、ちょっと落ち着いた頃にプロポーズしたんや」
「湊が…………プロポーズ……!?」
「まぁ元々そのつもりやったし。それなら早いほうがええやろと思って」
「まじかお前!! すごいやん、おめでとう!!」
舜平と湊が爽やかに握手をしていると、わらわらと他の職員も寄ってきて、あっという間にその場はお祝いムードに包まれた。
いずれはそうなるだろうとは思っていたが、まさかこんなに早いとは……と衝撃を受けていた珠生も、ようやく少し落ち着いてきた。
すると、じわじわと湧いて来るのは、人ごととは思えないほどの感動である。
じんわりと目頭が熱くなり、珠生はぎゅっと湊の手を握りしめた。
「湊……すごい、すごいよ。おめでとう……!!」
「ありがとうな。お前には、これからも世話になると思うけど」
「うん、うん、まかしといて! って、世話になってんのは俺の方だとは思うけど」
「式は挙げるんか?」
と、舜平はすでに現実的なことを質問している。湊は軽く頷いて、こう言った。
「一応な、挙式は親戚だけでする予定や。そのあと、友達呼んで式場のレストランでパーティでもと思ってんねん。俺はそういう派手なことするんいややけど、百合がどうしてもしたいって言うてて」
「レストランウエディングってやつ? へぇ、楽しみだなぁ。どこでするの?」
「それがまだ未定やねん。そういうことも話し合っていかなあかんからなぁ」
「そうなんや。俺の高校時代の仲間が式場でカメラマンしとるから、なんなら紹介したろか?」
「えっ、ほんま?」
結婚式場でカメラマンをしている舜平の友人といえば、北崎悠一郎のことに違いない。
そしてあの式場には、今も珠生と舜平がモデルを務めたウェディングフォトが、HPや雑誌やらに掲載されているのだ。まさかあのウエディングドレス姿のモデルが珠生とは分からないだろう……が、若干複雑な思いを抱えつつ、珠生もうんうんと頷いた。
「俺もそこなら知ってるよ。すごく綺麗だったし、戸部さんと湊にも似合う気がする」
「お、そうなん? ほな、今度見学行ってこよかな。……って、なんで珠生がそんなとこ知ってんの?」
「えっ? ……いや、べつに」
「そのカメラマンと珠生も、付き合いの長い友達やからさ。そういう関係でちょっと見に行ったことあんねんな」
と、舜平が助け舟を出してくれる。珠生はほっとして、頷いた。
「うん、まぁ……そういうこと」
「へぇ、なるほどな」
珠生のぎこちない表情の中に何かしら面白そうなことを察知したのか、湊の眼鏡がきらんと光る。
「色々と楽しみやなぁ。ええニュース聞いて、俺もめっちゃ嬉しいわ」
「そうか? ありがとうな」
「なんかドキドキするなぁ……」
「珠生にはスピーチでもしてもらおかな。親友やし」
「えっ、うそ、俺できるかな。どうしよう、緊張してきた」
「落ち着けってお前。俺が練習付き合うたるから大丈夫やで」
と、そわそわし始めた珠生の頭を、舜平がからりと笑いながら柔らかく撫でる。
親友の結婚。
それは珠生にとって、初めて経験する素晴らしいニュースだ。
何だか色々なことが活発に動き出しそうな予感がして、珠生の胸はわくわくと高鳴っていた。
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