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『珠生、社会人一年目の夏』〈10〉
「ん、ちょっ……せんぱい……だめだよっ……」
「いいじゃないか、ちょっとだけでも……ね?」
「やだよ……だって、俺っ……」
「大丈夫だよ、珠生……。僕に身を委ねてごらん?」
「あっ……」
舜平が部屋へ戻ると、薄暗い部屋の奥からいかがわしい声が聞こえてきた。
慌てて部屋の奥へと駆け込むと、上半身裸の彰が、あろうことか珠生の上に覆い被さり、ワイシャツを脱がそうとしているではないか。珠生は珠生で、「いや、だめ」と言っている割には、本気で抵抗する意思はなさそうだ。というよりも、眠気が優ってそれどころではないという雰囲気である。
そして、その隣の壁際のベッドでは、湊が平然とした顔でスマートフォンをいじっている。
目の前に広がる光景に、舜平は思わず「どういう状況やねん!!」とツッコんだ。
「先輩の脱ぎグセ、お前もよう知ってるやろ」
と、湊が淡々と返事をした。
その声に反応した彰がゆっくりと舜平を振り返り、獲物を見つけた肉食獣のような目つきで、ニタリと笑う。
「舜平……おかえり」
「おう、ただいま。……どうでもええから、珠生の上からどかんかい!! ったく……毎回毎回、ええ加減にせぇよ」
「いやだよ〜〜僕は珠生が不足しているんだ。なんだよなんだよ、舜平ばっかり珠生を独り占めしてさ。不公平じゃないか!!」
「不公平もクソもあるかい! ていうか、俺かてそんな会えてへんっちゅうねん!! ただでさえ最近こいつも忙しくて、」
「はぁ〜〜〜? でも僕より会ってるだろ!? たまには僕も珠生という癒しを堪能したいんだよ!!」
「お前には葉山さんがおるやろ!! それ以上珠生にセクハラしたら、葉山さんに密告 んぞ!」
「どーぞご自由に〜。葉山さんは、僕と珠生が仲良くしてると機嫌がいいんだ。だから何の問題もないね」
「……葉山さん、確実にそうやんな……」
と、湊の小さな呟きが聞こえてくるのを無視しつつ、舜平はなおも珠生のワイシャツから手を離そうとしない彰の手首をガシッと掴んだ。珠生は、自分の腹の上でそんな騒動が起きているとはつゆ知らず、といった表情で「ん〜〜」と平和な声をたてながら寝返りを打った。
「もう十分堪能したやろ、そろそろ離れろや!」
「いやだね。キスさせてくれたら離れてやってもいいけど」
「は? なんで俺がお前とチューせなあかんねんキモッ!!」
「はぁ? 誰が舜平としたいって言った!? ……ああ、でも前したよね? 僕ら」
「うぇっ、思い出させんなドアホ!!」
「んふふ〜〜いいよ、舜平が自分から僕にキスしてくれたら、珠生から離れるよ? どうする〜〜?」
と、意地の悪い笑みを浮かべる彰に、舜平のこめかみにも青筋が浮かぶ。
「先輩……よっぽど職場でストレス溜まってんねやろうな……」
という、湊の物悲しげな呟きが聞こえてきた。
舜平ははぁ、と盛大にため息をつき、ベッドに膝をついて上がりこむと、がしっと彰の細い顎を掴んだ。そして酔いのせいでうるうると潤んだ彰の目を、強い目つきでじっと見つめる。
「……しゅ、舜平……?」
「そんなに俺とキスしたいなら、してやるわ」
「えっ、あっ……」
舜平はやおらずずいと自分から彰に顔を近づけた。すると彰は長いまつ毛をふるりと震わせて、恥じらいを見せるかのように目を伏せた。しおらしい反応を見せられたことで拍子抜けした舜平は、彰の顎を掴んでいた指の力をふと緩めた。するとその拍子に、彰の目がきらりと光った。
「隙あり!!」
「うおっ!!」
「いっただっきまーす!」
どん、と素早く胸を押され、舜平は後ろによろけて自分のベッドに座り込んでしまった。すると彰はがばりと珠生の上に覆い被さり、あやしい笑みを浮かべてそのままキスを――
と思ったら、珠生はごろんと寝返りをうち、彰の唇は珠生の枕の上に虚しく落ちた。
「んー……もうのめないよぉ……ふへっ……」
そして珠生は幸せそうにそんな寝言を呟き、またすやすやと健やかな寝息を立て始めた。
舜平はホッとしつつ、彰に文句を垂れてやろうと身構えていたのだが、彰は一向に顔を上げない。覗き込んで見れば、彰は珠生の枕に顔をうずめたまま、そのまま熟睡している様子だ。舜平はやれやれと溜息をついた。
「……ほんまにストレス溜まってんのかもな」
「そうなんやろな、酒癖の悪さに拍車がかかってはるわ。で? 藤原さんとは話せたんか?」
「おう。……これで俺も、また珠生と戦える」
「……そっか。なんや昔に戻ったみたいやな」
「ほんまやな」
湊はそう言って、舜平を見遣ってにっと笑った。いつも無表情な湊だが、今ばかりはなんだかとても嬉しそうである。
それもそうだろう、と舜平は思った。
千珠、柊、舜海は、五百年前からずっと、共に同じものを守って来たのだ。
様々な思い出が胸を巡り、懐かしさがこみ上げる。舜平もまた、湊に向かって笑ってみせた。
「珠生には、すぐ言うん?」
「いいや。諸々片付いてからな。今の職場も、すぐに辞められるわけじゃないし」
「ほな、俺も黙っといたるわ」
「そうしてくれ」
湊は共犯者めいた笑みを浮かべて、またスマートフォンの方へと目を落とした。
珠生のベッドに潜り込んだままの彰の身体をごろんと隣のベッドに転がして、舜平は珠生のベッドに腰を下ろした。
「ん……」
頭を撫でてやると、珠生は心底気持ち良さそうな笑みを浮かべた。眠っていても、舜平に触れられることを喜んでいるように見え、その愛らしさに顔が緩む。
「……すぐ、そっちに行くからな」
珠生の寝顔にそう囁きかけ、舜平はそっと立ち上がり、シャワーを浴びるべくバスルームへと向かった。
+
そしてその次の日の朝。
眩い朝陽を受けてきらきらときらめく琵琶湖を眺めつつの、朝食バイキング。
和食洋食の両方が選べるようになっており、品数もかなり豊富だ。カウンターの中ではコック帽をかぶったシェフが二人いて、軽妙な手つきでオムレツを作っている。
作りたてのふわふわなオムレツを皿に盛ってもらいながら、珠生はふわーと大欠伸をした。
――あー……また夜の記憶がない。まぁ、おとなしく一人でベッドで寝てたし、舜平さんも隣のベッドで普通に寝てたし、別に変なことはしてないだろうけど。
必死に昨夜のことを思い出そうとしても埒が明かず、珠生は早々に記憶を辿る努力をやめた。というよりも、二日酔いの頭痛がひどく、のんびり考え事をしている余裕などないのである。
運良く、胃のもたれやむかつきのようなものはなかったため、珠生は美味い朝食をしっかりと腹に収めてゆくことにしたのだ。
しかし、おなじテーブルについている彰は相当つらそうである。
珠生が持って来たオムレツの匂いを嗅ぐやいなや、うっと呻いて口を押さえた。
「珠生……よくそんなものが食べれるね……」
「んー、なんかお腹は減ってるんだよね。昨日あんまり晩御飯食べれなかったのかな」
と、珠生は彰の目の前で、サラダやトースト、ベーコンやオムレツなどをもりもりと口にして、のんびりした口調でそう言った。
彰はワイシャツ一枚に黒いスラックスという格好で、テーブルに肘をつき、はぁと重たいため息をついた。湊が持って来た水ばかりをがぶがぶと飲んでいる。
「……僕も、昨日の夜の記憶がないんだよね」
「先輩けっこう飲んでたもんね」
「そうだっけ? こんな状態になるまで飲むのは久しぶりだからなぁ」
「……古巣に戻って、気が緩んだんですよ」
と、湊が助け舟を出してやっている。彰はぽんぽんと湊の肩を叩きながら「うんうん、そうだそうだ」と深々と頷いている。
「まったく。なんとかならへんのかな、お前の酒癖の悪さは」
と、和風の朝食を盆に並べて戻って来た舜平が、珠生の隣に腰を下ろしつつそう言った。彰はブスッとした顔をして、じろりと舜平を見つめている。
「別に、君に何かしたわけじゃないだろ? 僕はそこまで飢えてないしな」
「……」
いつぞやの忘年会で思い切り彰に唇を奪われた経験があるとは言えず、舜平は渋い顔をして味噌汁を飲んでいる。珠生はもぐもぐとベーコンを咀嚼しつつ、ふと舜平の横顔を見上げた。
「飢えてへんとかよう言うわ。お前、昨日自分が何しとったか、事細かに教えたろか?」
「えっ……? な、なんだよ、どういうこと?」
「……まぁええか。お前の名誉のためにも、黙っといたるわ。一ノ瀬佐為様の名が泣くからな」
「え? なんだよ、どういうこと? 教えてよ」
「知らん方がええで。これは貸しにしといてやる」
「ひどいな君!」
彰をからかって笑っている今朝の舜平は、なんだかいつになくすっきりとした顔をしているように見える。ここ最近ずっと舜平の表情には、うっすらとした遠慮や、正体の分からない距離のようなものが挟まっていたように感じていたものだが、今日はそういう色んなものが、きれいさっぱり消えてしまったように見えるのだ。
「ん? どうした珠生」
「えっ? いや……別に」
「お前、頭痛いとか言うてる割には、よう食べてるな」
「うん、まぁね。……ねぇ、昨日なんかあった?」
「ん? 何で?」
「なんだか……今朝はいい顔してるなと思って」
「はぁ? なんやそれ」
舜平は小首を傾げつつちょっと笑って、ぽんと珠生の頭を撫でた。心地のいい舜平の手のひらのぬくもりと、どっしりとした霊気が心地よく、珠生の表情も自然と緩む。
「そんなうっとり見惚れられたら、照れるやんか」
「……は、はぁ? 別に見惚れてないし」
「またまた、さっきからずっと俺の横顔見てたやん」
「み……見てないだろ別に。何言ってんだよ」
「ははっ」
そんな軽いやりとりに応じる舜平の笑顔が、妙に眩しい。まるで、大学生のころの舜平に戻ったかのような、屈託のない爽やかな笑顔である。
こんなふうに舜平が笑うのを見るのは久しぶりで、珠生はむずがゆく幸せな気分になった。頬がうっすら熱くなるのを感じつつ、珠生は目を伏せてサラダの残りを口に放り込む。
「相変わらず、仲のいいことで」
「ほんまですねぇ。朝っぱらから胸焼けしそうや」
「あれぇ、湊。君も二日酔い?」
「いいえ、俺はいたって健康体ですけど」
頬杖をついた彰の生ぬるい目つきと、普段と変わらぬ湊の無表情。珠生は向かいに二人がいたことを思い出し、気恥ずかしさのあまり俯いた。
その時、敦の声がレストラン内に響く。この後、露草宮とフェルディナンド王子を見送るための手順などを説明する敦の顔色も、彰に負けず劣らずひどいものであった。そういう風景が妙に懐かしく、珠生はちょっと笑ってしまった。
「ほんと、この集団って酒癖の悪い人ばっかりだよなぁ」
と、珠生が誰にともなくそう呟くと、すかさず湊が「お前が言うな」とツッコんだ。
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