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八、神使の虎
鞍馬寺の本殿金堂の前には、広い前庭がある。
石でできたその地面には大きな円形の模様があり、そしてその円の中心には六芒星が描かれている。これは”金剛床 ”と呼ばるもので、「中心にある六芒星の上に立てば、宇宙エネルギーが受け取れる」という説で人気のパワースポットだ。
珠生らはあえてその六芒星の上を通ることは避け、本殿金堂の前へとやって来た。
日はすっかり暮れていて、吐く息は白く空へと登っていく。ぱっと見たところあやしいものはいない様子だが、珠生を妙に緊張させる空気が、ぴりりと張り詰めている。
――何か、いるのか?
本殿の前に立って両脇を見ると、そこには狛犬ではなく、”阿吽の虎”が鎮座していた。
虎は毘沙門天の神使であると言われている。一説によると、鑑禎上人が毘沙門天に救われたその日が、寅年、寅の月、寅の時刻だったことに因んでいるらしい。
どことなく愛嬌を感じさせる独特のデザインだ。少し丸みを帯び、筋骨隆々としたいでたちの虎である。
「……?」
阿吽の虎を見上げた瞬間、珠生はぴりりと痺れるような不穏な痛みを肌に感じた。しかし、素早く視線を巡らせてみるも、あたりには何もいない。
ざわざわ……と山の樹々が風にざわめく。本殿に灯る明かりが、ちかちかと点滅した。
――何だ、この感じ……。
「これは……」
異変を感じ取ったのか、舜平が訝しげな声を出す。珠生はゆっくりと四方に目線を配りつつ、「……何か、感じない?」と尋ねた。
「何か……って」
舜平がそう言い終わらないうちに、ごぉぉ……ごごご……という風の唸りが聞こえて来た。それはいつしか地響きとなり、珠生らの立つ場所をずずず……と震わせ始めた。
「……何や、これ」
「おかしいな……。何か、来るぞ」
いよいよ尋常ではない不穏な気配に、珠生の瞳が鋭くなる。珠生はすっと手袋を外し、胸の前で合掌した。
すると掌の中から、真珠色の光を湛えた直刃の剣が、ゆっくりと姿を現す。その柄を掴んで一振りすると、ふたりの周囲をきりもみしていた空気の渦が、珠生の放つ気によってぶわりと歪んだ。
その瞬間、地響きの中に、獣の唸り声のようなものが入り乱れた。珠生ははっとして、吸い寄せられるように”阿吽の虎”の方を見遣る。
『禍々しい……気。鬼……神域に鬼がいる…………』
『鬼だ……。我らの神域に、鬼がいるぞ…………』
「……え?」
次の瞬間、ザザザザ……!! とひときわ強い突風が、珠生の身体を弾き飛ばした。
「珠生!!」
舜平の声さえも掻き消してしまうほどの地鳴りと、ごうごうと轟く風の音。ついさっきまであたりを照らしていた人工の光は次々と消え失せて、あたりは夜闇に包まれた。
そんな中、珠生は風に煽られつつも空中でひらりと身体を一回転し、ふわりと四つ足で地面に着地した。刹那、ずん、ずん……という重い足音が境内を揺るがせ、ぼんやりとした青白い光が、本殿の前にふたつ、浮かび上がる。
「……何だ、これは」
”阿吽の虎”が、動いている。
青白い光を纏った二体の虎が、台座の上から地面の上へと降り立っているではないか。
グルルルル……と低く唸りながら珠生を威嚇する二体の虎と視線が絡んだ瞬間、珠生は思わず目を瞠った。
――これは、神気……。
虎たちが全身から放つ気は、まぎれもない神気であった。
毘沙門天の神使たる一対の虎が、珠生を敵とみなして威嚇しているのだ。
『我らは鞍馬を守護するもの……。神域を穢す鬼は、喰い殺すが道理……』
『卑しき鬼よ……ここを立ち去れ……!!!』
二体の虎が、珠生の方へと躍りかかった。珠生はとっさに地を蹴って高々と跳躍すると、一体の虎の背を蹴り、本殿の屋根へ着地する。しかし虎は空中で体の向きを切り返すと、弾丸のような速度で珠生に向かってくるのである。珠生はとっさに宝刀を構えたが、毘沙門天の神使に刃を向けていいものかと、心にさっと迷いが差した。
「縛道雷牢!! 急急如律令!!」
「舜平さん……!」
鋭い歯牙が珠生に襲いかかろうとした瞬間、舜平の作り出した金色の牢獄が、一体の虎をその術内に捕えた。すると、もう一頭の虎は舜平のことをも敵とみなしたらしい。牢から片割れを救おうとでもいうのか、膝をついて印を結ぶ舜平の方へ鋭い視線を向けたのである。
――危ない……!!
珠生は地を蹴り、すぐさま舜平の前に立ちはだかった。そして、飛びかかってくるもう一頭の虎の鋭い鉤爪を、横一文字に掲げた宝刀で受け止める。
ゴォォォオ……!! と、刃と牙が交わりあった場所から、ひときわ凄まじい突風が破裂する。樹々は大いに揺れざわめき、本殿金堂がみしみしと風に煽られて悲鳴をあげる。地面に踏ん張った珠生の踵が、ばき、めき……と石を砕く。それほどまでに虎の攻撃は重く苛烈で、珠生はとうとう全ての力を解き放たんと歯を食いしばった。
胡桃色の穏やかな瞳の色が一瞬にして真っ赤に染まり、瞳孔が縦に鋭く、裂けた。
「おおおおおおおお!!!!」
まばゆい光が珠生の全身から放たれて、身のうちから生まれるつむじ風が、珠生の髪とスーツを巻き上げる。
唐突に爆発した珠生の力に怯んだのか、虎は素早く身を引いて、ふわりと地面に降り立った。そして身を低くして喉の奥を鳴らしつつ、珠生の力を推し量っているかのように、ぴたりと視線を据えている。
『……貴様は……何だ……? 人間の気と、鬼の気、……そして、神気……』
『一体、貴様は……何なのだ……我らと同じ、神の気を持つとは……』
白珞族の祖・霧島山に棲まう鳳凛丸は、かつて瓊瓊杵尊がその地の妖と交わり生まれた存在であった。そして現世にまでその血と力を繋いだ珠生は、人としての霊気・鬼としての妖気・そして神気を身に備えた稀有な存在である。
神使の虎はやや混乱しているのか、ぴたりと大人しくなった。珠生は敵意がないことを示すべく、すっと宝刀を身体に収めた。すると、ぐるぐると渦巻いていた竜巻のような風がすこしなりをひそめてゆく。
「舜平さん、術を解いて」
「で、でも……平気か?」
「俺が話す。大丈夫だから」
珠生が静かな口調でそう言うと、舜平はすっと印を解いて立ち上がった。自由になった虎はひょいとその場から後ずさり、片割れのそばでぐるると喉を鳴らしている。
「我々は敵ではありません。ただ、聞きたいことがあるだけなんです」
青い白い光をまとった一対の虎に向かって、珠生は声高にそう告げた。珠生を観察していた虎たちは、なおも警戒の姿勢をとってはいるものの、こちらを攻撃しようとはしていない様子である。
「ひと月ほど前、鞍馬で子どもがひとり、姿を消しました。彼の行方を探しています。何か知っているなら、教えてもらえませんか」
珠生は努めて穏やかな口調で、虎たちにそう問いかけた。
すると虎たちは、地を震わすほどに低い声で、こう言った。
『……人の子……あぁ、あの子のことか』
『あの子の代わりのものを、我らは返した。なぜ探す……』
「え? 行方を知っているんですか?」
虎たちが口にした内容に驚きつつも、刺激せぬよう、ゆっくりとした口調でそう尋ねる。すると二頭の虎は同時に頷いた。
『あの人の子は……二度と人里へは戻らぬよ……』
『あの子は我らに救いを求め、自ら進んでここにいるのだから……』
「……おい、こいつらは一体なにを言ってるんや」
と、珠生の傍に立った舜平が、静かな声でそう尋ねた。
「崎谷宗喜くんはこの虎の巣にいるってことじゃないかな。……じゃあ、鞍馬の鬼ってのは、何だったんだろう」
「確かに」
舜平は小さくそう言った後、虎に向かってこう尋ねた。
「なぁ、その子のこと、返してもらわれへんやろうか。その子にも親がいて、帰るべき家があるんや」
その言葉に、虎がぐるると小さく唸った。目つきがやや険しくなるのを、珠生は見逃さなかった。
『その親に傷つけられ……身も心も弱り果てた人の子を、下界へ戻せと……?』
『言うたであろう……あの子は、ここで強く念じた。帰りたくない。守ってほしい。消えて無くなってしまいたい……と』
「親に傷つけられ……。それって」
ざぁあああっと、木々の樹冠が大きく揺れた。四つ並んだ虎の目がうっそりと細まり、びゅうっと冷たい風が吹き抜ける。
『今も昔も……人は自ら増えゆくくせに、その子らをその手で殺める……』
『おかしなことだ……ならば子など作らねば良いものを……』
『この土の下で眠る幼子の魂は……自分が捨てられたことにも気付かぬまま……永遠の時を我らと彷徨う……』
『神など非力……我らはあの子らに、どんな救いもさずけることはかなわぬのだからな……』
虎たちが口にする言葉に、珠生の心ははずきりと痛んだ。それはつまり、ここ鞍馬山の土の下には、子殺しにあった子どもたちの亡骸が眠っているということなのだろう。それがいつの時代のことかは分からないが、この虎たちはずっと、亡骸と子らの無念を、ここで慰め続けているのかもしれない。
「……そういうことだよ。俺は、自分の意思でここにいるんだ」
不意に子どもの声がして、珠生と舜平ははっとした。
二頭の虎の間に、崎谷宗喜が立っている。
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