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九、強すぎる力
「あんたら、誰? 何で俺を連れ戻しに来たん」
と、崎谷宗喜は険しい表情でそう言った。
その声は、微かに震えていた。突然現れた珠生と舜平の存在に、ひどく緊張を強いられているような表情である。しかし神使の虎のことは恐れるふうでもなく、むしろ彼らに寄り添うように立っているのだ。
ふと気づくと、ごうごうと吹き荒れていた風や地鳴りは、今はすっかり鳴りを潜めている。しかし少年を守るように左右に立つ虎たちの身体からは、あいもかわらず珠生らへの威嚇の念を強く感じた。
しかしここで怯むわけにはいかない。
珠生は、一歩二歩と、崎谷宗喜の方へと歩み寄った。
「……どうして、君は家に帰りたくないの?」
「どうしてって……聞いてたんやろ? あんな家、もう二度と戻りたくないねん。ここにいたほうが、よっぽど毎日気楽やもん」
「あんな家、っていうのは? 君は、ご家族から、何かひどい目にあっていたの?」
「……そんなの、あんたに何も関係ないやん。俺がここにいたらあかん理由でも、ある?」
「……」
宗喜の態度は頑なだ。この状況で何をどう説得すればいいのか、珠生は必死で考えた。
さっき虎たちが語っていた内容を思い返してみると、それはつまり、宗喜が家庭内で何かトラブルを抱えていた、ということだろう。もっと事情を尋ねたかったが、小学六年生という難しい年齢の少年が、初対面の珠生にペラペラと心のうちを話すわけもない。事実、宗喜が珠生を見る目つきには、拒絶が強く含まれている。
しかし、このまま彼を放っておくわけにはいかない。
宗喜は、あまりに長く、神域に留まりすぎた。神使の虎たちとここで過ごしていた影響もあり、彼の身体にはかなり強力な霊力が根付き始めている。だが彼の肉体と精神はまだ幼げで、ここまでの力に耐えうる器を持ち得ていないように感じられ、ひどく不安定な揺らぎを見せていた。
地の力が強い場所はパワースポットとして重宝されるが、あまりにも深く長い時間をそこで過ごしてしまえば、それは人の身心を蝕む毒となりうるのだ。
珠生が必死に言葉を選んでいると、舜平が不意に、宗喜に向かって声をかけた。
「君、随分具合悪そうやな。身体、しんどいんと違うか?」
「……別に、どうもない」
「ほんまか? ここへ来てから、飯とか色々、どうしてんねや」
「……別に、何も食べなくても平気やし。右水 と左炎 が、俺に力をくれるから」
「ん? それって、ここへ来てから何も食うてへんってことか?」
「え? うん、でも……何も問題ないんやし、別にいいやん!」
「ようないわ! そんな状態でずっとここにおってみい、お前、あっという間に死んでまうぞ!」
舜平は厳しい声でそう言い放つと、つかつかと宗喜の方へと歩み寄った。形相を変え、無遠慮に近づいてくる舜平に怯んだ表情を見せる宗喜の前に、二頭の虎がさっと立ちはだかる。
『触れるな……』
『この人の子は、我らが守護すると決めたのだ……』
「守護って……は? 何を言うてんねん! お前ら、自分らの力がどういうもんか、きちんと分かって言ってんのか!? 人間てのはなぁ、お前らと違って色々手ぇがかかんねんで!? 育ち盛りのガキを飲まず食わずでほっとくとかありえへんやろ! この子、もうふらふらになってるやん! よう見てみぃ!!」
舜平の剣幕に、虎たちが黙り込む。
そして二頭は同時に宗喜を見つめ、大きな鼻先を少年の痩せた身体に擦り寄せて、匂いを嗅ぐようなそぶりを見せている。
神使を叱り飛ばす舜平に驚きつつも、珠生は少年の顔を見てハッとした。宗喜は、突然声を荒げた舜平に怯えているようすなのである。珠生は慌てて舜平の袖を引くと、「ちょっと、落ち着けよ!」とたしなめる。
珠生の目には、虎たちがどことなく気落ちしたような様子にも見える。なんとなく気の抜けてしまう眺めだが、珠生は地面におすわりとした虎たちの前にすっと跪き、青く輝くふたつの双眸を見上げながら、ゆっくりと語りかけた。
「この人が言うように、人は気を食らうだけでは長く生きられません。ええと……右水(うすい)と、左炎(さえん)、だっけ。あなた方が、居場所のないこの子を守ろうとしてくれたことは、とても尊いことだとは思うけど、この子はこれ以上、ここに留まることはできないんだよ」
『……しかし、里に降りればこの人の子は』
『身の危険に晒される。疲弊した魂を、ここで癒さねば……』
「ここは霊威の高い、神聖な場所です。それに、あなた方の神気は清いものだ。でもね、それは人の子には強すぎる。長く一緒に過ごすことはできないんだ。実際、宗喜くんの状態は非常に危険です。このまま放っておけば、一週間と持たず死んでしまうかもしれませんよ」
『死……? しかしこの子は、こんなにも満たされている……』
『この子は我らに願ったのだ。ずっとここにいたいのだと……』
「彼のことは、俺たちがちゃんと保護します。家に帰りたくないという事情についても、できる限り対処したいと思っています。無理矢理連れて帰るようなことはしないから、安心して」
宗喜のほうも見つめながら、珠生はゆっくりとそう話した。するとその言葉に、宗喜の表情がかすかに動く。
安心させるように微笑んで見せると、宗喜はさっとまた目を伏せた。そして自分より一回り以上は大きな身体をした虎たちの毛並みを撫でながら、「……俺、死ぬのは嫌だな」とつぶやいている。不安げな宗喜に寄り添う虎たちの表情もまたどことなく心許なげで、突きつけられた現実に戸惑っているように見えた。
「お願いします。その子を解放してあげてください。その子のことは、俺たちが代わりに守りますから」
『……しかし』
「宗喜くんも、お願いだ。ここはね、人がいていい世界じゃない。俺たちと一緒に街へ戻ろう」
「ここにおったら……俺、ほんまに死ぬん……?」
「ああ、いずれはそうなる。俺は、君の命を無駄にはして欲しくないんだ。右水と左炎も、そんなことを望んでるわけじゃないだろ?」
「……」
「おうちのことも、ちゃんと話を聞かせてくれないかな。きっと、何か手立てがあるはずだ。それを一緒に探してみよう?」
「……でも、そっちに戻ったらもう……右水にも左炎にも、会えへんくなる……」
宗喜はそう言って、泣き出しそうな顔をした。
この神域で一体どういう生活が営まれていたのかはまだ分からないが、宗喜と虎たちの間には、確固たる絆が出来上がっている様子だった。
右水も左炎も、悪意があって少年をさらったわけではない。宗喜がここで切なる願いを訴えたから、彼らはその声に応えようと思ったのだろうから。
「大丈夫……なるべく、ここにいた時の記憶はいじらないようにする。ここに来れば、また右水と左炎に会えるようにするよ」
「おい、珠生……!」
望ましい対処法は分かっている。この少年をすぐに保護し、身に宿った危うい霊力や、これまでの記憶を全て消し去ること——それが特別警護課の中で決められたルールだ。そして霊的なことを全て忘れ去った宗喜のことは、すみやかに福祉領域に繋ぎ、彼が今後望ましい方向に成長できるよう、環境を整えていくための措置を取らねばならない。
しかし宗喜たちの様子を見ていると、それはあまりに酷なことのように思われた。珠生が無言の訴えを含んだ目つきで舜平を見上げると、舜平は「う」と呻いてうっすらと頬を染め、ため息をつく。
「……お前、また藤原さんに怒られんで。『情に脆すぎる』ってな」
「分かってる」
だがその言葉に効果はあったらしい。宗喜はさっきとは打って変わって、嬉しそうな笑顔を浮かべたのである。そして右水と左炎にぎゅっとしがみつき、彼らの青白い毛並みに頬ずりをして「よかった……」と声を漏らしている。
これでなんとか宗喜を人里に戻せるとあって、珠生はほっと息をついた。
「しかしこの虎……あんまり知能は高くないみたいやな。力はかなり強いようやけど」
と、舜平が腕組みをしつつ、低い声でそう言った。珠生は頷く。
「そうみたいだね。なんていうか……すごく無垢な感じがする」
「せやな。……なんやろ、そうなるとしっくり来ーへんな」
「え?」
見上げると、舜平は腕組みをして眉根を寄せている。珠生は舜平の顔を覗き込んだ。
「どういうこと?」
「こんなにも無垢なこいつらが、あんなよくできた偽物を作れると思うか? しかも、あの人形から溢れ出してたんは、神気やなくて瘴気やったやろ」
「……ああ、そういえば」
「誰かに入れ知恵でもされたんちゃうか……って、ふと思ってな」
「誰かって……誰?」
「いやそれは知らんけど。……けどまぁ、まずはこの子を連れ帰って栄養を取らせなあかん。そのへんの話はこれからやな」
「……そうだね」
ふと空を見上げると、さっきまで吹き荒れていた嵐が嘘のように、澄み渡った夜空が頭上に広がっていた。街から遠く離れた鞍馬山から見上げる冬空は、ちらちらと瞬く星がたくさん見える。
しかし、珠生の心は、この空のようにすっきりとはしていなかった。
この山々のどこかで、今も幼い魂が彷徨っているのかと思うと、胸がずしりと重くなる。
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