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十、危機と後悔
午後八時。
舜平と珠生は、黒塗りの公用車で、松ヶ崎にある珠生の自宅へと戻って来た。
崎谷宗喜は、例の地下施設で預かることになった。
鞍馬の神域で過ごしていた間、虎たちの神気で心身が満たされることにより空腹などを感じなかったようだが、下界に降りた途端、宗喜はふらりと意識を失ってしまったのである。
地下施設の中には医療設備の整った部屋も完備されているため、今夜一晩はそこで体調の回復を待つことになった。宗喜の身柄を治療班の職員たちの手に委ねたのち、二人はしばしの休息時間を得た。
珠生は宗喜に付き添うことになっており、舜平はこのあともう一度鞍馬へ行くことになっている。まだ山に残っている彰や湊、そして先に鞍馬へ入っていた敦らと合流し、検分にあたることになっているのだ。
なんだかんだと、朝からずっと動きっぱなしだ。珠生と二人きりになるとホッとして、かすかな疲れを感じてしまう。珠生のマンションの駐車場に車を停めながら、舜平は小さくため息をついた。
「疲れたよね。コーヒーでも飲んで行く?」
と、珠生がシートべルトを外しながらそう言った。急な泊まりの仕事となったため、着替えを取りに戻って来たのである。
ここへ来る途中、小さな定食屋で軽く食事は取ったものの、確かに一息着きたい気分ではある。このあと珠生を事務所へ送り届け、そのまま鞍馬へと取って返すことになっているためあまり時間はないが、舜平は頷きつつこう答えた。
「……せやな。ちょっと休ませてもらおかな」
「うん。先輩たちの分もコーヒー淹れるから、差し入れに持ってって」
「おう、ええな。あいつらも喜ぶやろ」
そんなことを話しつつ部屋へ上がり、しんと冷え切った部屋にエアコンを入れる。珠生がいそいそとキッチンで立ち働いている姿を眺めつつ、舜平はダイニングに腰を下ろした。
「先生、まだ帰ってこーへんのかな」
「んー、まだなんじゃない。相変わらず毎日遅いしさ」
「そっか……」
二人の関係を話す……今朝方珠生とそう話し合ったばかりということもあって、舜平はやや緊張していた。
「緊張しすぎ。大丈夫だよ、どうせまだ帰ってこないから」
と、キッチンから、笑いを含んだ珠生の声が聞こえて来る。舜平は頬杖をつき、コーヒーを淹れる珠生の姿を見つめた。
白いワイシャツと黒いネクタイという格好でキッチンに立つ珠生の姿を見ていると、心が和む。ついさっき、宝刀を握りしめて戦う珠生の姿を久しぶりに見たせいか、いつもよりも日常を色濃く感じるような気がした。
戦いの場にある珠生の姿には凄絶な凄みがあり、そしてとても美しかった。ひらりひらりと舞うように剣を振るう珠生からは、漲るような生気を感じたものだった。
解放された珠生の妖気を、久々に肌で感じた。その時の感覚を思い出すと、妙な興奮が湧き上がってくる。なぜだか唐突に珠生に触れたい欲求が高まって、舜平はかたんと椅子を引いて立ち上がった。
「ちょ、何してんだよ……」
「ちょっとだけや」
舜平はキッチンに入り、後ろから珠生をぎゅっと抱きしめた。冬の空気の匂いを含んだ髪の毛に鼻先を寄せ、その柔らかな感触に頬ずりをする。
「……まだ、ちょっと気が騒いでんな。落ち着かへんのか」
「あ……うん、ちょっとね。宝刀出すの、久しぶりだったしさ」
「せやんな」
「ちょっ、と……待ってよ」
白い耳の裏やうなじに唇を滑らせると、珠生がくすぐったそうに身じろぎをした。甘えを含んだ眼差しを迷惑そうな表情に乗せ、珠生が後ろを振り返る。
「舜平さん……だめだって」
「お前の匂い、めっちゃ好き」
「ぁ……ん」
耳孔を舌先でくすぐりながらそう囁くと、珠生が身体をふるりと震わせた。コーヒーの香りが満ちるキッチンの中で、舜平は珠生のしなやかな身体をぎゅっと強く抱きしめる。
「だ、だめだって……! こんなことしてたら、俺……っ」
「こんなことしてたら……どうなんの?」
「舜……っ」
舜平は珠生の腰を引き、正面からぐいと抱き寄せた。そういうやや強引な動きに、珠生はぽっと頬を染め、潤んだ瞳で舜平を見上げている。
凛と猛々しい戦闘時の表情とは打って変わった、愛らしい表情だ。夜闇の中にきらめいていた真紅の双眸が嘘のように、瞳は優しい胡桃色である。
「ん……」
無言で珠生の唇を塞ぎ、両腕で珠生を抱きしめる。ワイシャツ越しに感じる珠生の肌は素直に火照り、じわっと熱を持ち始めている。そういう分かりやすい反応を受け取ってしまうと、興奮がさらに煽られる。舜平は珠生の吐息を貪るように、さらに激しく珠生の口内を愛撫した。
「ん、ふっ……ぅ……」
「こうしてるときは、こんな、可愛いのにな」
「ぁ、ン……こらっ、だめだって、いってんのに……」
「もう硬くなってるやん。口でしよか?」
「ばっ、ばか!! こんなとこで……ッ……ん」
脚で珠生の膝を割り、スラックス越しに珠生の高ぶりを擦り上げながら、もう一度深く口付ける。珠生の身体からくったりと力が抜けてしまうものだから、腕で強く抱き支えた。すると、珠生の両腕がするりと舜平の首に絡まって、ぐっと全身が密着した。
「んっ……ぅ……ん」
「……かわいい、ほんま」
「……なんだよ、きゅうに……」
「早う、一緒に住みたいな……」
吐息の隨 そう囁き、舜平はようやく唇を離した。珠生はとろんととろけた色っぽい目つきで、うっとりと舜平を見上げている。物欲しげなあかい唇は唾液に濡れ、漏れ出す吐息がしどけない。珠生のそんな顔を見ていたら、むらむらと欲が高まってしまう。
「舜平、さん……どうしてくれるんだよ、こんな……」
「こんなって?」
「したく、なるだろ……こんなキスされたら……」
「……せやんな、すまん。でも何やろ、さっき、久々に戦ってるとこ見てたせいか……なんか、無性にお前を抱きたくなって」
「何言ってんだよ、ばか……」
珠生は怒ったような顔でそう言いつつ、自分で自分のネクタイをしゅるりと緩めた。無防備に晒される、白い首筋の色香に思わずため息をついていると、珠生は舜平のベルトにも手を伸ばしてきたではないか。
「おい……」
「飲みたい、舜平さんの……だめ?」
「え!? い、いや……ちょお待てや。今はあかんやろ」
「何言ってんだよ。俺をこんなにしたのは、舜平さんのくせに……」
「そうやけど、でも……」
そうこう言っている間にも、珠生はぐっと身体を伸ばして、もう一度舜平にキスを仕掛けてきた。珠生は舜平にキスをしながら、下の方では舜平のベルトを緩め、スラックスのジッパーを下ろそうとしている。積極的にそんなことをしてくる珠生にもそそられて、そのまま口淫に甘んじようかと思いかけた矢先……。
ガチャガチャ、と玄関の方で物音がした。
二人は仰天して、大慌てで身体を離す。
「あれぇ? 珠生、帰ってるのか?」
と、珠生の父・健介がにこやかに顔を出す。そして、キッチンの隅っこで空っぽのケトルを手にした珠生と、冷蔵庫の前でいそいそとベルトを締めなおしている舜平を見て、健介は目を丸くした。
「わぁ、相田くんじゃないか。久しぶりだねぇ」
「お、お、お、おひさしぶりです……!!」
「いや〜、珠生。社会人になっても、相田くんと付き合いがあったんだねぇ」
「う、うう、うん、まぁね! ていうか、きょ、今日早いじゃん!」
「あぁ、今夜は大学の計画停電の日だから、帰らざるをえなくってね。あ、ご飯は食べて来たから大丈夫だよ」
「そ、そう……」
「いい匂いだなぁ。父さんもコーヒー、もらっていいかい?」
「うん……」
健介は平和な笑顔を浮かべつつ、手を洗いに洗面所の方へと消えていった。舜平と珠生は盛大にため息をついて、顔を見合わせる。ちなみに、仰天するあまり舜平の性器はすっかり萎えてしまった。それだけは幸いである。
「ちょ、舜平さん、ベルトの穴ずれてるから」
「あっ、しまった……!」
「け、けどまぁ、バレてないから大丈夫だと思うけど」
「おう……。しかしまじでビビった。こんなにビビったん何年ぶりやろ……」
と、コソコソ小声で会話をしながら舜平はきちきちと居住まいを正しつつ、ひたいに浮かんだ汗を拭った。珠生も改めてネクタイを結び直したりと忙しそうだ。
そんなことをしていると、よれっとしたタートルネックセーター姿の健介が現れた。部屋着に着替えて来たのかと思いきや、胸にはカードホルダーを提げたままである。どうやら玄関脇の自室で、コートを脱いで来ただけらしい。
セーターの色と同化している焦げ茶色のネームホルダーは、数年前に珠生が誕生日プレゼントとして渡したものだ。その時一緒に買い物へ行ったことを思い出し、こんな時ではあるけれど、舜平はちょっとほっこりした気分になった。
「いや〜しかし、相田くんも元気そうじゃないか。仕事どう?」
「あっ、はい……。あの、実は先生に話さなあかんことがあって……」
マグカップを受け取ってにこにこしている健介を相手にしていると、転職に至ってからの経緯をどう話せばいいのか分からなくなってしまう。舜平はダイニングのそばに佇んだまま、しばし言葉を選ぶように黙り込んでいた。すると珠生が、その沈黙を静かに破る。
「あのさ……再会中に悪いんだけど。俺、またそろそろ仕事に戻らなきゃいけないんだ」
「え? そうなのかい?」
「うん。俺は着替えを取りに来ただけなんだ。舜平さんも現場に戻らないといけないし……」
「現場? え? 現場って何?」
珠生の台詞を聞いた健介の頭上に、小さなクエスチョンマークが浮かんでいる。その背後で、珠生しまった、という顔をした。
やや青白い顔になっている珠生を安心させるように小さく頷き、舜平は健介に向き直った。そしてまっすぐに健介を見つめ、静かな口調でこう言った。
「実は……俺、先生にきちんと話さなあかんことがあるんです」
「えっ? な、何だい? 改まって……」
「今度、時間を取ってもらえませんか。先生にはこれまですごくお世話になったので、ちゃんと説明させて欲しいんです」
「えっ? あ……うん、いいけど……?」
突然礼儀正しくなった舜平を相手に、健介はひどくたじろいでいるらしい。ぱちぱちと目を瞬いては、たまに救いを求めるように珠生の方を見て、そしてまた舜平の方を向くなど落ち着かない。
「す、すみません……今日はほんまに、時間なくて。すみません、失礼します」
「えっ? う、うん……いいんだよ」
舜平は、珠生に「先に降りてる」と小さく言い残し、玄関から外に出た。ひやっとした空気に全身が冷えてゆくのを感じつつ、舜平はマンションの壁にどさりと背中をもたせかけ、はぁー……と長い溜息をつく。
「何してんねん俺……しゃんとしなあかんのに」
時間がないのに、健介がいつ帰って来るかも分からない場所なのに、不意に高まった性欲にまかせて珠生にちょっかいを出してしまったことを、激しく後悔する。あんなことをしていなければ、もっと落ち着いて健介と顔を合わせられたのに、と。
「あー……もう、しっかりせぇ俺。今度先生に会う時は……ちゃんとしな」
先に車に乗り込んで、後悔の海をひとり漂っていると、珠生が助手席に戻って来た。そしてやおらぺこりと頭を下げ、「ごめん」と言うのだ。
「えっ、なんで珠生が謝んねん」
「だって、現場とかおかしいよね……。まだ転職のこととか言ってなかったのに」
「ああ……いやいや、それはいいねんて。それより……俺こそ、ごめん。お前は嫌がってたのに……あんなこと」
「ううん。いいんだ」
珠生はシートに深く沈み込みながら、やれやれと溜息をついた。今日は二人とも、溜息をついてばかりである。
「父さん、すっかり挙動不審で……。『僕、何かしたっけ?』って怯えてたから、宥めてきたんだけど」
「えええ?」
「朝話した通り、俺が父さんの様子探りながら話す方がいいと思うんだ。だから……少し待ってて」
「お、おう、分かってる。……すまんな」
「ううん、俺の父親だしね。がんばるよ」
「ありがとう」
ふわりと微笑む珠生の優しさが心底愛おしいと、舜平は思った。わしわしと珠生の頭を撫でてから、舜平は気を取り直すように深呼吸をし、エンジンをかける。
「とにかく……仕事に戻るか。まだ終わってへんしな」
「うん、そうだね。行こう」
「おう」
舜平に乱された髪の毛を、無言で迷惑そうに直している珠生を横目に見ながら、舜平は車をスタートさせた。
二人の乗った黒塗りのセダンは、静かな夜の京都の街並みに、ゆるやかに溶け込んでいく。
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