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十二、少年の言葉

   一方その頃、珠生は宮内庁京都事務所の地下施設にて、手当を受ける崎谷宗喜の姿を見つめていた。  この地下施設には、こうして保護された人間が休息を取るための部屋も用意されている。そこは病室というよりも、むしろグレードの高いホテルの一室のような雰囲気で、ベッドも大きく布団もふかふかだ。特別警護担当課には一体いかほどの国家予算が割かれているのだろうかと、ふとそんなことも頭をよぎる。  治療班の手当てを受けるために、宗喜は衣服を着替えをさせられることになったのだが、あちらこちらに土汚れの見える長袖Tシャツを脱がされた宗喜の身体には、深く黒ずんだ痣がいくつもいくつも見受けられた。  予想はしていたことだが、いざ本当に傷跡を見てしまうとショックだった。宗喜の痩せた身体や、度重なる殴打によって色素沈着を起こしたかのような、黒い傷跡……それらは珠生の心をも深く傷つけ、やるせない気持ちにした。  葉山を中心とした三人の術者が傷を癒した結果、宗喜の肌はほぼきれいなものになったけれど、宗喜の心に穿たれた傷は、今後完全に癒えることはないだろう。いっそのこと忘却術を施したほうがいいようにも思えたが、宗喜は、右水と左炎を忘れたくないと強く訴えている。記憶を消すことはないだろうが、宗喜の傷を癒すにはどうしたらいいだろう……と考えながら、寝巻きに着替えさせられ、ベッドで眠る宗喜の顔を見つめた。 「ん……」  夜半過ぎ、ついうとうととしていたらしい。宗喜の眠るベッドサイドに座って頬杖をついていた珠生だが、少年のかすかなうめき声にハッとした。  慌てて顔を覗き込んでみると、宗喜がもぞもぞと寝返りをうっているところだった。眠る宗喜の横顔はまだまだあどけなく、可愛らしいものである。  ベッドの上に腰を下ろし、眠る少年の黒髪をそっとかき上げてみる。珠生の指先が触れたことで何か刺激を受けたのか、宗喜はぴくりと身じろぎをし、ぱち、ぱち……とゆっくりと瞬きをした。 「あ……起こしちゃったか」 「……あ……」  寝ぼけ眼で珠生を見上げる少年の目に、徐々に力が戻って来る。宗喜はがばりと起き上がり、きょろきょろとあたりを見回した。そして、ベッドの上に腰掛けている珠生を慎重な目つきで見つめつつ、訝しげな口調でこう言った。 「さっきの人……」 「うん、そうだよ。気分はどう?」  珠生は宗喜に、常温の薄めたスポーツドリンクを渡し、ゆっくり飲むように指示した。肉体は治癒しているものの、宗喜の内臓はここ一ヶ月間固形物を胃に入れていない。ゆっくりと回復させていく必要があるのだ。  ベッドに上がり、宗喜の背中に手を添えながら、ゆっくりとそれを飲ませる。初めは戸惑う様子を見せていた宗喜だが、久方ぶりの水分を乾いた身体が欲するらしく、いつしか自らベットボトルを両手で握り、ごくごくとそれを飲み始めた。 「あぁ、ゆっくり飲んで。……そう、そう。上手だよ」 「っぐ、んく、ん……」 「今はこれだけしかあげられないんだ。ごめんね」 「ううん……はぁ……」  宗喜はぷは、と息を吐き、それからゆっくりと珠生の方を見上げた。やや訝しげな宗喜の眼差しに気づいた珠生は、安心させるようににっこりと微笑んでみる。すると、血の気が失せて白じろとしていた宗喜の頬に、さっと赤みがさす。 「あ、あんた……人間なん?」 「んー難しいところだけど、まぁ、一応ね」 「ふーん。……なんとなくやけど、普通の人じゃないってことは、分かる」 「そう……」  神域で過ごすことによって高まった宗喜の霊力は、まだそのままにしてある。そのため、珠生の気を読むこともできているのだろう。  右水と左炎と今後も会いたいというのなら、宗喜にとってこの力は必要なものだろう。だだ、後天的に身についた力をコントロールするためには、それなりの修行が必要だ。宗喜にその覚悟があるのかどうか、しばらく様子をながら、意思を確認していかねばならない。  ふと、珠生は深春のことを思った。  深春はひどい環境で育って来たにも関わらず、今はしっかりと自らの足で立ち、デザイナーになるという目標に向かって前向きに進んでいる。かつては深春にも不安定な部分はたくさんあったし、そこを敵に狙われたこともあった。けれど今は、深春は明るく生きていてくれている。前世からの過去を知る珠生にとっては、深春がただそこで普通の生活を送ってくれているだけで、救われる気持ちになるのだ。  ――宗喜くんは、どういう生き方を望むんだろう……。  物珍しげに、ちらちらと珠生を見やる宗喜の視線に気づき、珠生は微笑みながらこう言った。 「俺も高校生の頃に力が目覚めたんだ。ほんとに色々なことがあったから、今すぐ説明するのは難しいけど、ほんと、普段はただの人間だよ」 「……そうなんや。人間とちゃうから、顔とか……きれいなんかと思ったけど……」 「顔? あははっ、ううん、顔は多分関係ないかな」 「ふうん……」  軽く声を立てて笑う珠生を見つめていた宗喜だが、はたと我に返ったように目を瞬き、ぷいと俯いてしまった。珠生は苦笑しつつペットボトルの蓋を閉めると、改めて宗喜に尋ねてみた。 「ねぇ、宗喜くん」 「なっ、なに……?」 「俺に、色々教えてくれるかな」 「色々って?」 「あそこでどう過ごしていたのか、とか。これまでに家で何があったのか、ってこととか」 「……」  珠生の問いかけに、宗喜の表情がさっと陰りを帯びる。珠生はもう一度宗喜の背中に手を添えて、こわばった横顔に声をかけ続けた。 「はっきり言わせてもらうと、君は今後、親元から離れて暮らすことになると思うんだ」 「……え」 「身体の傷、記録させてもらった。数日のうちに、児童相談所の人が君に話を聞きに来ると思う。君を保護するために」 「そっか……ふうん」  宗喜はまるで他人事のようにそう言うと、ぎゅっと握りしめていた拳を緩めた。そして安堵するようにため息をつき、静かな口調でこう言った。 「神頼みせぇへんくても、俺、親から離れられるんや……知らんかった」 「……」  珠生は思わず、宗喜の背中に手を添えた。泣きたいのか、笑いたいのか……複雑な表情を浮かべる宗喜の横顔が、あまりにも危うく見えたからだ。 「……うちの父さん、会社の偉い人やねん。仕事忙しいとかで滅多に家に帰ってこーへんけど、なんか……たまに会うと、めっちゃ緊張して、どうしていいか分からへんくなるっていうか」 「そうなんだ……」 「俺を殴るのは、母さん。母さんな、父さんのことめっちゃ尊敬してるみたいで、『お父さんが恥ずかしくないように、いつも一番でいなさい』って、いっつも俺に言うてて」 「……うん」 「でも俺、がんばったけど、いっつもいっつも一番なんてとられへんし……友達とも、遊びたいし。三年生の夏頃やったかな、塾サボって、友達と遊んでてん。……そしたら、母さんが俺のこと探しに来て、引きずられて家まで戻って……そっから、めっちゃ、殴られるようになって……」 「……そう」  再びぎゅっと布団を握りしめる宗喜の拳を、珠生はぎゅっと握りしめた。宗喜は俯いたまま、淡々とした口調でさらに語った。 「でも俺……友達には知られたくなかってん。家で母さんに殴られてんのとか、絶対に知られたくなかった。せやし……いつも、『元気なやつ』でいようって思ってた。そうやって人気者っぽい顔してたら、俺……俺は、そういう人間なんやって、かっこいい人間なんやって、思えるような気がした。家で毎日母さんに殴られて、縮こまって我慢してる情けない俺じゃなくて、もっと……つよくてかっこええ男なんやって……」 「……うん」 「でも、たまに、もう無理やなって。爆発しそうになること何回もあってん。でも、結局なんもできひんくて、学校か家にしかおるとこなくて、どうしょうもなくて。……けど、鞍馬山の遠足の時、ここはすごく願い事が叶う場所やって先生や女子に聞いて……それで」 「家に帰りたくないって、願ったの?」 「……うん」  宗喜はこっくりと頷いた。話しながら泣いてしまうのではないかと思ったが、宗喜の目はただただ疲れ、十二歳とは思えないほどに諦観に満ちている。珠生の手の中に収まる小さな手は、ひんやりと冷えていた。 「そんでな、俺、友達になんや話しあるって呼び出されて、森の方へ行ったんやけど、なんか……めっちゃ霧出て来て。なんかぞわぞわして、寒くて……はようみんなのおるところに戻ろうって思っててんけど、歩いて来た時には階段とかあったはずなのに、それもなくなってたし、景色とか変わってて……怖くなって」 「そう……」 「うん。そしたら、追いかけて来るような足音が聞こえて来たん。何やよう分からへんけど、お寺でおばあさんに怖い話聞いとったし、あぁ、これがおばあさんの言うてはった鬼なんやって、怖くて、めっちゃ逃げたん。でもな、なんか急に足元がふわって抜けてしもて……気づいたら、あったかくて、真っ白い部屋の中におった。そこで俺、右水と左炎と会ってん」 「白い部屋……か。そこで二か月も過ごしていたってこと? 退屈じゃなかった?」 「え? 二か月?」  不意に宗喜は顔を上げた。きょとんとした表情である。  珠生が小首を傾げると、宗喜はさらにこう言った。 「そんなに時間経ってるとは思わへんかった。なんていうんやろ……まだ、三日くらいかなぁて」 「え? そうなの?」 「うん。なんか、ずっとふわふわした気分、っていうか。いつでもウトウトしてる感じって言うんかな。でもあんたが来て、右水たちが急に落ち着かへんくなって、外に飛び出してってしもて。その時初めてふわっと霧が晴れて、外の景色が見えてさ。右水らが心配やから俺も行かなあかんなと思って、外に出てみたんや」 「そうだったのか……」 「あ……そういえば。もう一人の子、どうなったん?」 「え?」  宗喜がふと口にしたその台詞に、珠生は目を瞬いた。宗喜はじっと珠生を見上げて、こう言った。 「俺いがいにも、もう一人子どもがおったやろ?」

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