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三、訪れる変化
「うぅ…………ハァ、もう……」
一方その頃。
葉山は起き上がることさえ難しいほどの体調不良に苛まれていた。吐き気を催してトイレへ立つものの、うまく嘔吐することもできず、不快さと息苦しさが募っている。
この不調を感じ始めたのは、二週間ほど前だっただろうか。その時はまだ、食べ物の匂いに違和感を感じる程度だった。軽い胸焼けを感じ、その日の食事は早々に切り上げた。
疲れか、風邪か……睡眠不足による軽い不調は日常茶飯事であったため、葉山は普段通りの生活を続けていた。警察への捜査協力にも、普段通り出向いていたのだが……。
ここ数日で、一気に具合が悪くなった。欠勤はこれで三日目だ。今日も、珠生らと共に奈良へ趣き、正倉院の御開封の儀に参列する予定だったというのに。
――やっぱりこれ、どう考えても……。
この異変の意味するところに、気づけないほど鈍くはない。葉山はそっと下腹を押さえ、洗面所のシンクに手をついた。目の下に隈の浮かんだ自分の顔は青白く、まるで重病人のようだ。
葉山は深呼吸をして、シンクに置いた妊娠検査薬に目を落とした。
そこには、陽性反応がくっきりと浮かび上がっている。
「やっぱり……。でも、いつ? 避妊はちゃんとしてたつもりだったけど……」
日数を逆算し、葉山ははっと目を瞬く。
――そうだ、あの日だ。彰くんが久々にまともな時間に帰ってきたから、一緒にご飯食べて、つい盛り上がって……。
葉山は頭を押さえた。
あの日、酔っ払いのからみ酒で、ぐいぐい彰に迫ったのは自分である。夜勤明けで妙なテンションだった彰も、おそらくはかなり酔っていたはずである。
酔って甘えん坊になる彰が可愛くて、久しぶりにのんびり過ごせる時間が新鮮で、幸せで……。
「……いい年して、私ったら……」
以前、先に子どもを作ればいいじゃないか、と既成事実を迫ってきた高校生の彰を、冷たく突っぱねたことを思い出す。あの時は、偉そうに大人ぶったことを言っていたというのに……。
二人は婚約しているとはいえ、まだ正式に籍を入れてはいない。しかも、同じ家で暮らしているわけでもないのである。
常盤莉央がスウェーデンでの任務に就いている今、葉山は以前よりも多種多様な案件に関わるようになっていて、とても多忙だった。そして彰は彰で、医師免許を取得して二年目の春。京都大学附属病院で、日々様々な患者たちに向き合う日々だ。忙しくないわけがない。
彰は器用な人間だし、表面上は何においても余裕があるよう見える。だが、医師としての人生を歩み始めた今、様々な困難を感じているようだった。
陰陽術や剣術で様々なものを叩き伏せ、闇へ葬る仕事をしていた頃とは、訳が違う。いわば、これまでとは正反対の生き方をしているのだから、当然といえば当然であろう。彰にとっての理想と、医療現場の現実との間にも乖離があるようだったし、『今の自分がそれをどうこうできる力もない』ということを、歯がゆそうに語っていたこともあった。
彰の人生にとっても、今が一番大切な時期だ。葉山はそれをよくよく理解している。だからこそ、こういうことはもう少しあとで……と考えていたのだが。
「……次、いつ会うんだったかな。ええと……」
這うようにベッドに戻り、充電ケーブルに挿しっぱなしだったスマートフォンを開く。今頃、珠生らは奈良に到着している頃であろうか。年長者である自分が彼らを取りまとめねばならなかったのに……と、思うように動かない肉体を歯がゆく思う。
「……ん?」
彰からのメールが入っていることに、葉山は気づいた。『当直終わったから、今からそっちに行く』という、普段通りの簡素なメッセージだ。
「今から……か。どうしよう、なんて言えばいいのかしら」
京大病院から北山の官舎までは、バイクでほんの十分程度の距離だ。スマートフォンの時刻から鑑みるに、彰はすでにすぐそこまで来ているということになるだろう。
部屋は酷い有様だし(いつものことだが)、げっそりとやつれたような葉山の顔もこれまた酷い。葉山は枕に顔を埋めて、はぁ〜と深いため息をついた。こんな酷い姿で妊娠を告げることになるなんて……と、理想と現実の落差にがっくりきてしまう。
その時、鍵が回る音がした。そして、がちゃりとドアが開き、彰が入ってくる気配がある。葉山は寝室にこもった状態で、彰の足音に耳を欹てた。
「葉山さん? ベッドにいるの?」
ひょいと寝室に顔を覗かせる彰は、当直明けとは思えないほど普段通りの爽やかさだ。ヘルメットで乱れた髪をかき上げながらこちらに歩み寄り、長い脚を組んでベッドサイドに腰を下ろす様もすこぶる格好がいい。
布団から目だけを出して彰を見上げ、「おかえり」と葉山は言った。彰は心配そうに眉をひそめながら葉山の額に手を置き、「ただいま」と言った。
「珠生に聞いたんだ。ここ二、三日、体調不良で休んでるって」
「あ……そ、そう」
「どうしてすぐ僕に連絡をくれなかったんだい? すぐに駆けつけたのに」
「あなたは今、それどころじゃないでしょ。担当してる患者さんだってたくさん……」
「それはそれ、これはこれだよ。色々買って来たから、冷蔵庫に入れとくよ。おかゆか何か作るね」
「……うん。…………あの、彰くん」
いそいそとキッチンへ向かおうとする彰のシャツを、葉山はぐっと掴んだ。彰は切れ長の目を瞬いて、今度はベッドサイドに跪き、葉山の顔をじっと覗き込んだ。
「どうしたの?」
「……あのね、彰くん。…………私」
「うん?」
「……私、妊娠してるみたい、なの」
「…………えっ……?」
彰が、きょとんとした顔をしている。
この八年の付き合いの中で、彰がこんなにも無防備な顔をするのは初めてだ。思いがけず可愛らしい顔をするものだから、こんな時だというのに、葉山はきゅんとしてしまった。
「え……? 妊娠、って……」
「さっき、検査したの。……陽性反応が出たわ」
「ってことは……、え、子ども……? 僕らの……」
「うん、そうよ。……彰くんと私の、子どもができたの」
「……」
彰はまつ毛を震わせながらゆっくりと目を瞬き、壊れものを扱うように、葉山の身体にそっと触れた。葉山がもぞりと起き上がると、彰は葉山の下腹のあたりを食い入るように見つめている。そして、信じられないといった表情で、葉山を見上げた。
「僕らの、子……」
「ええ……そうよ」
「本当に……」
ベッドサイドに跪いたまま、彰は恐る恐る、葉山の下腹に手を伸ばした。かすかに震える白い指先が、色気のない濃紺のジャージに触れようとして、躊躇うようにまた引っ込む。
葉山は彰の手を取って、ふわりと自分の腹に触れさせた。まだ、拍動さえ感じ取れないほどの小さな命。その気配を探るように、彰は葉山と手を重ねたまま、しばらくじっと押し黙っていた。
「信じられない……僕に、こんな……」
やや掠れた声で彰はそう呟き、ぎゅっと唇を引き締めた。顔を上げた彰の眦は、ほんのりと朱色に染まっている。
凛とした双眸には涙が揺らめき、今にもこぼれ落ちそうに潤んでいる。声を詰まらせる彰の姿を目の当たりにして、葉山まで涙ぐんできてしまった。
葉山はくすんと鼻をすすって、彰の頭を軽く撫でた。さらりとした鳶色の髪の毛の柔らかさに、愛おしさがこみ上げる。
「……パパが若いから、すごく心強いわ」
敢えて張りのある声でそう言うと、彰はようやく表情を綻ばせた。
それと同時に、白い頬を一筋の涙が伝う。
いつもは多弁な彰が、今日はえらく言葉少なだ。形のいい唇から小さく漏れる、不規則な吐息。嗚咽をこらえているのかもしれない。葉山はそっと、彰の涙を指先で拭う。指先を濡らすその涙はとてもあたたかく、彰の心の震えが伝わってくるように感じられた。
「うん……頑張る、頑張るよ。任せといて」
「ふふっ……」
彰は立ち上がってベッドに座り、ぎゅっと葉山を抱きしめた。葉山もまた、しっかりと彰を抱き返す。彰は葉山の肩口に顔を埋めて、かすかに肩を震わせていた。
過去の殺戮、過去の罪。
飄々とした薄笑みの仮面の下で、彰が前世の罪を悔い続けていることを、葉山はよく知っている。そんな自分が、現世でごく当たり前の幸せを享受していいのかどうか自問自答を続けていることも、葉山はよく理解している。
しかし同時に、彰が葉山との穏やかな家庭を望んでいることも、分かっていた。
現世であたたかな家庭に育ったこと、優しい母を早くに亡くしたこと、残された父を喜ばせたいということ――前世では手に入らなかったものばかりだったからこそ、現世において、それらを何よりも慈しみたいという彰の想いも。
そして、次世代に命を繋ぐことへの、憧れにも似た強い願いも……。
「……ちょっと、待ってて」
ぎゅっと葉山を抱きしめていた彰が、鼻をすすりながら立ち上がった。玄関の方で何やらごそごそと取り出す音が聞こえてくる。
ほどなく、彰は白い封筒を手に戻って来た。目元を赤く染め、どことなくはにかんだような笑みを浮かべながら、彰はもう一度ベッドに腰を下ろした。そして封筒の中から一枚の紙を取り出して、葉山に渡す。
「これ、高校を卒業した頃から、ずっと持ってたんだ」
「あ……これ……、婚姻届?」
それは、きれいに折りたたまれた婚姻届だった。
丁寧に畳まれた折り目がうっすらと色褪せたそれをゆっくりと広げてみると、そこにはすでに、彰の名前や住所、そして証人の欄まで記載済みだ。藤原のサインが書かれている。
「高校を出た頃から、ずっと、持ってたの……?」
「うん、そうだよ。いつでも渡せるようにと思って」
「……まったく、あなたって人は」
十八歳の彰が役所へ婚姻届を取りに行き、生真面目にこれを書いたのかと思うと、胸の奥がくすぐったいような気持ちになった。
八年越しの婚姻届を膝に広げる葉山の手を、彰は力強く握りしめる。
そして、どこまでもひたむきな眼差しで、葉山の瞳をまっすぐに見つめた。
「僕と、結婚してください」
彰が高校生の頃から、何度となく告げられてきたプロポーズの言葉。
その時々の彰の表情は、いつもどこか冗談めいた雰囲気を漂わせていたものだが、今の彰の目つきは、必死ささえ感じさせられるほどに真摯だった。
熱い視線で射抜かれながらの、まっすぐなプロポーズ。
これまではずっと、年齢や仕事を理由にはぐらかし続けて来たけれど、今はもう、断る理由など、もはやどこにも存在しない。
「……はい。喜んで」
照れくささを感じながらも、葉山ははっきりとそう応じた。
すると彰は、これまでに見たことがないほどの眩い笑顔を浮かべ、ぎゅっと葉山を抱きしめた。
「……ようやく、OKがもらえた。はぁ〜……長かったなぁ。口説き落とすのに人生の半分くらいかかった気がする」
「いや……半分は大げさでしょ」
「気分的にはそんな感じだよ。……はぁ……もう……どうしよう。こんなことってあるんだな……信じられない」
「いつになく語彙が貧困ね」
「だって……奥さんと子どもが同時に出来たんだよ? はぁ……すごい……すごいよ」
「ねぇ、今は、何を感じる?」
「……そうだなぁ」
葉山にそう問われ、彰は少し身体を離す。
そして間近で葉山を見つめながら、清々しい笑顔を浮かべて、はっきりとこう言った。
「すごく、幸せだ」
「ふふっ……そう。私もよ」
「……はぁ……もう、ほんとに、嬉しすぎる。彩音、愛してるよ」
「よく知ってるわ」
「あははっ、ブレないなぁ。そういう照れ屋なところも、すごく好きだよ」
「ふふ……いつもの彰くんに戻ったわね」
葉山がそう言って微笑むと、彰は無邪気な子どものような表情でにっこり笑った。そしてすっくと立ち上がり、「すぐに新居を探さなきゃ。それに、出産準備もしなきゃいけないな。あ、その前に葉山さんのご両親にご挨拶に行って……」とテキパキ行動を開始し始めた。
張り切っている彰の姿が微笑ましく、どうしようもなく愛おしい。
優しい幸せを噛み締めつつ、葉山はそっと、下腹に手を添えた。
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