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十一、御所の妖

  「やぁ、珠生」 「あれ? 佐為?」  御所に到着し、車を降りると、嗅ぎ慣れた匂いが珠生の鼻孔をくすぐった。珠生と薫を迎えにやってきた敦とともに砂利を踏んで奥へ進むと、夜闇に溶けるような黒い着衣に身を包んだ彰が、ひらりと手を振っている。ここ最近顔をあわせる機会が減っていたため、彰と会えるのは純粋に嬉しい。 「仕事、休みなのか?」 「ああ、珍しくね。今夜と明日一日オフなんで、ちょっとこっちの様子を見にきたのさ」  そう言って彰は微笑み、さらりと珠生の髪を撫でた。  そしてふと、その背後にいる薫へと、視線を送る。 「あ……お、お久しぶりです……」 「やぁ、君か。大きくなったね、見違えたよ」 「は、はい……」  薫と彰は、面識があるようだ。珠生が問いかけるように彰を見上げていると、彰は「水無瀬楓が死んだあの場所で、この青年とは顔を合わせたことがあるんだ」と説明した。そして、「業平様の求めに応じて京都へ来たんだろ? 立派になったじゃないか」と言って、和やかに微笑んでいる。  けれど、彰の目はまるで笑ってはいない。冷静に、慎重に、薫の気を探っている様子である。  そんな目つきで眺め回されては、薫が萎縮してしまうに決まっている。珠生はさりげなく薫の隣に立ち、「天之尾羽張の一件、手伝ってくれるんだ。だから今日は見学に連れてきた」と言った。 「そう、助かるよ。ここいらの妖がすっかり影響を受けてしまって困ってるんだ。ま、珠生を見てもらえばよく分かるだろうけど」 「は、はぁ……」 「俺のことはどうでもいい。妖はどこに?」  そう言いつつ、珠生は鼻をひくつかせて妖の気配を探る。北北西と南東の方角に、大小の凶々しい気配を感じた。そして、その妖を追って動き回る陰陽師らの気配をも同時に感じる。京都御所は広い上、霊力を使って妖を討伐でいる人材は数が少ない。苦戦しているようである。 「おいお前ら、いつまでのんびり喋っとんじゃ。どう動く」 と、敦が拳をぼきぼき言わせながら準備運動を始めている。広島弁を喋る坊主頭の大男にも、薫は若干引いているようだ。珠生は小さくため息をついた。 「南東の小さい方は向こうに任せよう、墨田さんはそっちに加勢を。でかい方を俺がやる」 「了解。……しっかし、千珠さまモードの珠生くんもええもんじゃなぁ。その上から目線な喋り方、たまらんわ〜」 と、素直に返事をした直後、敦は普段通りセクハラめいた笑みを受かべて、ニヤニヤと珠生の全身を眺め回している。珠生がギロリと容赦なく敦を睨みつけると、敦は両手を挙げて「おおっと、怖い怖い。そんな怒らんでもええじゃろ」と言っておどけている。 「はいはい、チャラチャラしない。油断すると喰われるぞ」 「はぁ? 相手は小物じゃろ。縁起でもないこと言うなや」 と、彰にまで脅かされて、敦はようやく真面目に動き始めた。  敦が駆けて行く背中を見届けたあと、珠生もまた気配のする方向ヘ走り出した。一瞬遅れて、薫も珠生について走り出す。  ここへ薫を連れてきたのは、のんびり見学をさせるためではない。珠生と彰で、彼の能力を直に見るためである。  近々そういう機会を作る予定でいたのだが、タイミングよく御所内に妖が出現したため、ここへ連れ出すようにと彰から指示を受けたのだ。  走りながら、珠生はちらりと薫を見た。身体能力はいかほどのものなのかと観察する。  薫は只人であるため、跳躍力などは珠生や深春に遠く及ばないであろうが、砂利を蹴って身軽に駆ける速度はなかなかのものだ。もう少し速度を吊り上げたらどうなるかと、珠生は少しスピードを上げる。  だが、薫は特に動じることもなく、珠生と一定の距離を保っている。そして彰も、薫の後ろにぴったりとつけ、珠生と一瞬目線を合わせて頷いた。それを見届けた珠生は、前方に目線を向ける。妖の気配が近い。  ぬる…………と、踏んだ砂利が異様な粘液に包まれていることに気づく。珠生は立ち止まり、サッとあたりを窺った。  築地塀や松の木々にも、同じようなものが付着している。包み込まれている、と言ったほうが正しいかもしれない。黒ずんだ粘液の中で、じわじわと松の木が枯れていく様を見て、珠生はすっと目を細めた。 「……こんなところに、巣を作るつもりだ」 「え?」  不意に薫がそんなことを呟くものだから、珠生は横顔で後ろを振り向く。薫は黒い粘液をじっと見つめ、今度は数メートル先の暗がりをじっと見据えている。 「どうしてそう思う?」 と、彰が静かな声で薫に尋ねた。彰に話しかけられて驚いたのか、薫はぴくっと肩を揺らした。だが、存外しっかりした声で、こう答えた。 「僕は……妖に触れると、分かるんです。そいつが、何を考えてるのかってことが」 「……へぇ、すごいじゃないか。それは、祓い人全員が持ち得る能力なのか?」 「い、いえ……全員ではない、と思います。ただ、そういう人は多かったです」 「なるほど。だから祓い人は、妖を使役する能力に長けていたというわけか」 「……そうですね。そう言って、差し支えはないと思います」  背後で交わされる彰と薫のやりとりを聞きながら、珠生は胸の前で柏手を打った。そして、手のひらから真珠色に輝く宝刀を抜く。すると薫から「わぁ……すごい……!!」と感嘆の声が聞こえてきた。 「巣、か。……まぁ、天之尾羽張がこの地下にあるんだ。ここら近辺は魔境の匂いがプンプンしてる。それに引き寄せられて来たんだろう」 「……ええ、そうみたいです」 「君は、やろうと思えば、この妖を使役できるのかい?」 と、彰がもう一度薫に尋ねた。さっきよりも、何やら妙な含みのある声音に聞こえ、珠生は彰を振り返った。 「え……ええと、それは、どういう……」 「水無瀬楓は、鎖のような呪具を使って深春を支配しようとしていたね。ああいったものを使わなければできないのかなと思ってね?」 「えっ……いえ、あれは特殊なもので……。力の強いものはああいう呪具を使わないと、縛れないんです。普通は、祓い人の血を使って妖に(しゅ)を与え、縛りつけ、そこから契約を結ぶかどうか決めるという感じで……」 「(しゅ)……ね、なるほど。この大きさの妖はどうだ。君の身一つでも、やれると思うか?」 「……わ、分かりません。もう何年も、霊力を使っていませんし……」 「やり方は覚えている?」 「は、はい……一応」 「そうか」  彰は一体何を考えているのだろう。珠生はそれを尋ねてみようとしたけれど、もうそんな時間はない。  珠生らの気配に気づいた妖が、ぬうっと身体を起こす気配を感じる。ざわざわ、びちゃびちゃ……とあたりを包み込む粘液にさざ波がたち、激しくこちらを威嚇し始めている。 「……そういう話は後でのんびりやれ。こいつは俺が斬る」  刃を中段に構え、静かに妖力を解放する。琥珀色の瞳に光が宿り、青白い炎が珠生の足元を静かに焼いた。  その瞬間、暗闇にぎょろりと目が生まれた。  直径が珠生の身長ほどもある大きな赤い目が、まっすぐにこちらを睨みつけている。珠生を敵とみなしたのだろう。粘液を走る漣は更に激しさを増し、地面を覆う玉砂利が震えるほどだ。  相手から迸る警戒心と威嚇の圧に、ざわざわと鬼の本能が歓喜する。  珠生はうっすらと笑みを浮かべた。 「佐為! 薫を連れて下がれ!!」  彰に向かってそう叫ぶや否や、珠生は軽く地を蹴って飛翔した。すぐ脇にある築地塀の上にひらりと飛び乗り、その上をまっすぐに走っていく。  向かう先には、あの赤い大きな目。黒い粘液がざわっとひときわ大きく波打ったかと思うと、まるで大波のように珠生に向かって押し寄せて来た。  珠生を叩き潰そうと襲いかかってくるそれをひらりと避ければ、ドォン……!! と激しい音を立てて築地塀が瓦解する。国の最重要文化財を破壊され、湊や高遠あたりが見たら真っ青になってしまいそうな風景だ。  だが、鬼の血が騒いでいる今の珠生にとって、そんなことはほんの瑣末ごとだ。いかにも楽しげな笑みを浮かべつつ、珠生は軽々と塀を蹴って跳び、身体をひねり、空中で襲いかかってくる妖の触手をやすやすとかわしている。  そしてとうとう本体の頭上にまで到達した珠生は、膝を深く曲げて全身をバネのように使い、ひときわ大きく(くう)へと飛んだ。 「……悪いが、ここで死ね」  これから消えゆく存在に贈るにしては、あまりに情のない言葉を手向け、珠生は両手で柄を握り、一気に宝刀を振り下ろした。  ギャァァァァ…………!!! と、耳を劈くような咆哮をあげながら、妖の巨体が斃れていく。  宝刀で袈裟斬りにされた部分から、赤黒い粘液が破裂するように溢れ出し、珠生は紙一重でそれを避けた。そして一旦砂利の上に膝をつき、すぐさまそこから飛び去れば、びちゃびちゃ……と湿った音を立てながら、妖の頭部が倒れこんで来る。  ズゥゥン……と重い振動と共に妖は倒れ、黒い煙を上げて溶けてゆく。  その飛沫が及ばない場所まで後退した珠生は、ぶんっと宝刀を振り、刀身に付着した妖の血肉を払った。 「す……すごい……」  しんと静けさを取り戻した御所の中、薫のつぶやきが聞こえてくる。  だがその時、もう一体の妖の気配が爆発的に巨大化するのを、珠生は感じた。

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