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十六、懐かしい気

   ――楓、拓人、まってよぉ……!  薫にとって、二人は幼い頃から兄のような存在だった。薫の二歩三歩前を、肩を並べて歩く二人の姿が、記憶の中に蘇る。  だが、いつからだっただろう。楓はひとり、どんどん先へと歩いてゆくようになった。薫を振り返ることもなくなった。拓人と笑い合うこともなくなった。日毎に禍々しいものを瞳に燃えたぎらせるようになった楓の横顔は、まるで別人のように恐ろしかった。  ――これが、本当の俺や  突き飛ばされ、手の甲を踏み躪られながら、泣きながら楓を見上げた。楓は細い唇に邪悪な笑みを浮かべながら、薫の頬をつま先で蹴飛ばした。倒れこむ薫を、拓人はずっと無表情に見下ろしていた。眼鏡の奥の冷えた瞳が、動揺を表すかのようにかすかに揺れていたのは、見間違いだったのだろうか。  深春を縛り、暴行し、声高に笑う楓の姿。  そして、最期に見た、楓の後ろ姿――  前世の記憶に侵されて、現世の『楓』は死んでしまった。少なくとも、薫の知る楓はあそこまで非道なことができる人間ではなかったはずだった。  ――いや……僕が、何も見ようとしていなかっただけだったのだろうか……。  楓は、多くの陰陽師を傷つけた。深春のことも、珠生のことも、彰のことも、そして、拓人の実母・水無瀬菊江を使って、舜平のことさえも……。  目の前にいる彼らは笑っているが、本心ではきっと、祓い人のことを許せているわけがない。許せるはずがないではないか。  止めて欲しいと思った。暴走した楓のことを。  ただ、一縷の希望も抱いていた。珠生に倒された楓が、以前の楓に戻ってくれるのではないか……と。  だが、楓は死んだ。存在ごと、消えたのだ。  無理もないことだ。あれだけの騒ぎを起こし、多くの血を流させてしまったのだから。  ――しょうがないことだった。……僕は、楓の罪を償うためにも、ここで………… 「はぁっ…………!!」  薫は目を開いた。  全身が冷たくこわばり、ひどい汗をかいている。真っ暗闇の中で見た懐かしい夢は、まるで悪夢のように混沌として、昏い。重たく瞬きをして、呼吸を整えて、ようやく薫は、自分がどこにいるのかを思い出す。 「んー……」 「あ……深春」  ――そうだ、僕は昨日、妖を……。そのあと、深春の前で泣いちゃったんだっけ……  ゆっくり思い出される記憶を手繰り寄せつつ、薫の腕にくっついて眠っている深春の寝顔を見つめてみる。胎児のように、ぎゅっと丸まって眠る深春の姿は、普段の堂々とした態度が嘘のように頼りない。それはまるで、固く自分の身を守っているようにも、誰かの庇護を求めているようにも見える。  ――夜顔……の生まれ変わり。佐々木猿之助に利用されて、たくさんの人を殺した半妖……。  高校を卒業してすぐ、薫は古文書で一通りの過去を学んだ。複雑な裏日本の歴史を知ることが第一歩だと、藤原に言われて。  ――五百年前も、悪い大人に利用されて。現世でも、楓に利用されて……。ひどいめにあったはずなのに。……どうして深春は、誰よりも僕に優しいんだろう。  お前をほっておけないと言ってくれた深春の微笑みが、どくんと薫の胸を騒がせた。隣で眠る深春のぬくもりはあたたかく、どこか儚い。このぬくもりだけは、なんとしてでも穢してはいけないような気がして、薫はそっと、深春の髪の毛に触れてみた。 「……やわらかい」  黒髪の癖っ毛は、思った以上に柔らかく、ふわっとしている。軽く指を絡めてみると、指先がくすぐったかった。 「……のすけ……」 「えっ? あ、ご、ごめん。起こしちゃっ……」  深春はまだ、目を閉じている。掠れた声で呟いた誰かの名前を、夢の中で呼んでいる。  じっと深春の様子を見つめていると、すう……と深春の眦から涙がこぼれた。こめかみへと流れてゆく透明な涙を、薫はとっさに指先で受け止めた。とても、熱い涙だった。 「……とうのすけ……どこ、どこにいるの……? どこ……?」 「……藤之助」  ――夜顔の、育ての親の名前だ。……その人は、転生していないんだよね……  亡き親を求めて泣く深春の姿は、哀れを誘う。いじらしくて、不憫で、薫まで泣きたいような気持ちになってしまう。薫には、親を求める子どもの気持ちが分からないというのに。  祓い人の里では、子どもは生まれるとすぐに親から離され、一箇所に集められて育てられていたからだ。  薫は、自分の親が誰かを知らない。知る必要もないと思っていた。楓がいて、拓人がいて、妖がいて……それだけ。それだけが世界だと思っていた。薫の世界は、それで完結していた。  五百年も前に途切れた絆に今も縋って、涙を流す深春の気持ちは分からない。でも、何とかしてやりたいという気持ちは強く感じる。深春の涙を止めてやりたい、自分が、深春を支える存在でありたいと。  腕を伸ばして、深春の頭を手のひらで抱え込むように、抱き寄せる。こうして身体を寄せ合ってみると、深春は思ったよりもずっと痩身だった。深春はもっともっと、逞しい身体をしていると思っていたのに。  それに気づいてしまった途端、薫の胸はまたどきどきと妙にざわめき始める。シャツを濡らす深春の涙を感じた瞬間、何としてでも深春を守らなければと強く思った。薫はもう片方の腕も伸ばして、深春の身体を抱きしめる。すると、すぐに深春の指が薫のシャツを握りしめた。幼子が、縋り付くように。 「……深春」 「ん…………」  するとその時、ぱちっと深春の目が開いた。薫はぎょっとして、慌てて深春から離れようとしたけれど、狭いベッドの中で急には身動きが取れず、間近に二人で見つめ合う格好になる。 「……?」 「あっ……あの、ごめん、なんかその……ええと……」 「……薫、か……」  深春は何度か瞬きをしたあと、ふっと脱力して枕に頭を落とした。特に嫌がるでもなく薫の腕の中に収まったまま、深春はごし……と目元を拭っている。 「ご、ごめん、あの……ごめん……なんか、あの……」 「いーよ別に。……どうせ、俺、また寝言でなんか言ってたんだろ」 「えっ? あ、……うん」 「前、珠生くんにも言われたことある。夜顔の夢を見てるんだろうって」 「た、珠生さんとも……寝るの?」  珠生には舜平がいるはずなのに、それは一体どういうことだろうかと混乱しかけていると、深春はふっと吹き出した。そして、何年か前に突然夜顔の人格に立ち戻ってしまったことがあったのだと、説明してくれた。その時深春を保護してくれたのが、珠生だったと。 「珠生くんと寝たら、舜平にぶん殴られっから。……昔から距離近ぇなと思ってたけど、やっぱ、付き合ってたんだな」 「あ……うん。すごく仲、良さそうだったね」 「いいよな、ああいうの。前世からの付き合いで、お互いを信頼できて、支え合って……家族みたいに、二人で暮らして」 「うん……。み、深春は……恋人はいないの? すごくモテるって、亜樹さんに聞いたけど……」 「恋人……ねぇ」  深春はこつんと薫の胸元に額をすり寄せ、深いため息をついた。聞いてはいけないことを聞いてしまったのかと、薫はヒヤヒヤしてしまう。こういう会話は、慣れていないのだ。 「昔は、まぁ……彼女っていうか、ヤるだけの女はいっぱいいた」 「やっ…………やる、だけ……?」 「そ。セックスするだけの女。ヤったら終わりだ。俺、こうやって誰かと寝るの好きじゃねーんだ。……あ、寝るって睡眠のほうの意味な」 「えっ、あ、そうなんだ。ごめん……!! すぐに出るから、」 「いいよ。……薫とは平気。なんか、馴染む感じがする」 「え……」 「お前の霊気が、なんとなく懐かしいからかな」  不意に目線を上げた深春と、またばっちりと目が合った。上目遣いに薫を見上げる視線は無防備で、普段のキリッとした凛々しさは鳴りを潜めている。そのせいだろうか、深春ことをとても幼く、そして身近に感じることができた。 「……そ、そうなんだ……」 「あったけー……。はぁ……仕事始めてから誰ともエッチしてなかったし、なんか……人肌って久しぶりだわ」 「エッ…………チ」 「めんどくさくてさ……機嫌取ったり、取られたり……それに、セックスなんて誰とヤっても結局同じだ。やることなんて決まりきってて……つまんねーし」 「そっ……そういう、もん……?」  誰かとそういう関係になったことも、気持ちを通わせたこともない薫からしてみれば、深春の言うことは想像することさえ難しい内容だ。目線を泳がせながら曖昧に返事をしていると、また深春が吹き出した。 「ははっ……あははっ……ごめんごめん、薫は童貞だから、こんな話嫌だよな」 「っ……べ、別に、嫌じゃない、けど……分かんないだけで」 「分かんない、か。素直だね、お前」 「……バカにしてるだろ」 「してねーよ。……可愛いなと思っただけ」 「かわっ…………」  かぁっと頬が一気に熱くなる。目を白黒させながら深春のことを見つめると、深春は妙に艶っぽい笑みを浮かべて、薫を意味ありげに見上げた。 「そんな顔すんなって。取って食やしねーよ」 「そっ、そんなの分かってるけど!! な、なんなんだよもうっ……」 「まーこれから寒くなるし、人肌恋しい時は一緒に寝てやるからな」 「こっ……恋しくなんてならないよ! 僕は別に……、」 「あ、待って。スマホ鳴ってる」 「ぐっ……」  薫の動揺などお構い無しに、深春はもぞもぞとベッドサイドに置かれていたスマホを取り上げ、メールを読んでいる。なんだかんだと言いつつ深春とくっついたままであるため、薫はそろそろベッドから出ようかと起き上がった。  ぬくぬくとしていた布団から上半身を起こすと、急にひんやり冷えた部屋の空気が肌に染み入る。薫が思わず身震いしていると、深春は肘枕をして、いたずらっぽくこちらを見上げていた。 「な、何……?」 「いーや別に」 「な、何だよ……!」 「招集かかったぞ。今からまた御所に来いって」 「えっ……」  深春とのやりとりですっかり気が抜けていたが、その言葉で再び気持ちが強張る。すると、薫の表情の変化を見てか、深春は普段と変わらぬ頼もしい笑顔を見せた。 「今日は俺もいるからさ、大丈夫だって! 舜平や湊くんも来るみたいだし、緊張することねーよ」 「う、うん……」  力なく微笑んで見るものの、しくしくと胃が痛い。  ずっとこのまま、あたたかいベッドの中にいたいと、薫は結構本気で思った。

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