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十八、力と信頼

  「っぐぅ…………ッ!!」  一瞬の油断の直後、薫は激しく壁に激突していた。珠生の蹴りをまともに喰らい、呼吸ができない。だがなんとか膝を折らずに耐え忍び、薫は顎を伝う汗を拭った。 「本気で来いと言ってるんだ、薫」 「っ……」  ――……本気で来いって、言われても……!  数メートル先に立つ珠生の姿が、やけに大きく見える。薫よりも小柄で痩身なはずの珠生だが、対峙してみて、初めて力量の差が分かった。  ただ自然な姿勢でそこに立っているだけなのに、この威圧感ときたらどうだろう。妖力を解放しているわけでもなく、薫に敵意を向けているわけでもないのに。 「来ないなら俺からいく」 「あっ……」  フッ……と珠生の姿が消え、気付いた時には懐に入られていた。ほぼ真下から薫を見上げる琥珀色の瞳が、光を帯びてそこにある。突き上げられた拳を(すんで)で避け、薫は地を蹴って身を翻した。  珠生の上を跳躍していたはずなのに、気づけば珠生の姿はない。ハッとして目線を上げると、すぐそこに珠生の太ももが見えた。横っ面に蹴りを食らう寸前で、薫はとっさにそれを防ぐ。だが、その動きに気を取られていたせいで、体勢を崩してしまった。  どうっと床に落ちた薫とは違い、珠生はひらりと後ろに一回転して着地する。そしてすぐさま薫に向かって殴りかかってくる拳を、すれすれのところでなんとか躱す。それだけで、精一杯だった。 「俺は、術を使ってもいいと言ったんだ! 逃げているだけでは勝負にならないだろう!!」 「っ……は、はいっ……!!」  ――でも、術を使う隙さえないのに……!!  流れるように繰り出される珠生の打撃を躱すのは至難の技だ。息をつかせぬ俊敏さで薫を追い詰めつつも、珠生は息一つ乱していない。しかも、琥珀の瞳はじっと薫の双眸を捉えていて、そこから目が逸らせない。通常、体術を使う際は相手の視線から感情を読み、先を予測するものだが、そんなことさえも許してはもらえないのだ。  ――くそっ……ッ……!! くそぉっ……!!  不意に、幼い頃のことを思いだす。祓い人の里での、訓練の日々のことを。  楓や拓人をはじめ、薫の周りには年上の子どもが多かった。年の近い子どもは少なく、訓練のときは必ず薫よりも大きくて強い相手があてがわれた。  当然、幼い薫が兄貴分らに敵うわけもない。中には、これ見よがしに薫をボコボコに叩きのめして、鬱憤晴らしをするような相手もいたくらいだ。虐げられ、足蹴にされた記憶がじわじわと蘇る。痛みと悔しさの涙に暮れながらも、ふつふつと腹の底に燻らせてきたのは、純然たる勝利欲だった。  相手に勝ちたい、強くなりたい、これ以上貶められたくない、相手を見返したい……幼い頃、密かに心で育てた小さな意地が、今ここでぐらぐらと刺激を受けている。そして同時に思い出されるのが、楓の背中だ。  暴力に甘んじることしかできなかった薫を、楓が助けてくれることもあった。まだ、楓が前世の記憶に呑まれる前のことだ。頼もしくて、優しくて、兄のように慕っていた楓。あの頃の彼の笑顔を、どうして今思い出すのだろう。  変わっていく楓を止めることができなかった。ただ恐ろしさに震えることしかできなかった己の無力さに、今更ながら腹が立つ。もし、あの時、自分がもっと大人で、もっともっと力があれば、楓があんな風に暴走することも、存在ごと消えて無くなってしまうこともなかったかもしれない。  ――僕に、力がありさえすれば…… 「うあああああ!!!」  ごぉっ……と内から湧き上がる霊力を感じた。それはこの数年、ずっとずっと眠らせ続けてきた本来の力だ。宮内庁の制圧を受けて以降、ゆっくりと育っていた薫の霊力が、唸りを上げて燃え上がる。  それを見て、珠生はとっさに距離を取った。  薫を取り巻く空気の色が、ゆらゆらと紅蓮に揺れている。  さらりとした黒髪を乱しながら湧き上がる力に包まれて、薫はゆっくりと目を開いた。瞬きするごとに、呼吸を深くする。そうして何度か自分を落ち着けようと試みるうち、ゆっくり、ゆっくりと薫を包む気が、しっくりと身体に馴染んでくるような感じがした。 「……はぁ…………は……」 「それが、お前の霊力か」 「……僕は……弱い。弱かったから、何も、できなかった」 「……」  薫は目を開き、正面に立つ珠生を見つめた。身構えるでもなくそこに立つ珠生の姿が、さっきとは少し変わって見える。  珠生の全身を包む、青白い光を感じる。それは霊気というにはあまりにも猛々しく、妖気というにはあまりにも清廉だった。  珠生の力の根源に流れるものは、紛れもなく神気だ。  それに気付いた薫は、古文書の記載を思い出していた。  千珠は、白珞(はくらく)族最後の生き残り。そして白珞鬼の始祖は、霧島連山を支配する大妖・鳳凛丸であると。  そして鳳凛丸は、神と妖が交わって生まれた存在だと……。  ただの半妖ではなく、珠生は神気を宿す唯一の人間だ。  言い知れぬ威圧感の正体も、楓が珠生を欲した理由も、今なら薫にもよく分かった。  祓い人は、より強力な妖を支配することで、その能力を他に知らしめる。強大な力を所有し、自由に操ることこそが、祓い人としての誇りだと教え込まれてきた。  ――この人を、自分のものに出来たら……  一瞬、そんな思いが脳裏をよぎった。直後、薫は自らのそんな思考に驚いて、その願望を打ち消すように頭を振る。 「……やっと、解放できたみたいだな」 「えっ……」  珠生の声で薫は我に返り、ハッと顔を上げた。見ると、珠生が攻撃態勢を解いて、じっと薫を見つめている。 「……それが薫の、本来の力、ってことか」 「そ……そうなんですかね。僕もまだ、信じられません……」  そう呟きながら、薫は自らの手のひらを見下ろした。楓に縋ろうと一生懸命に伸ばしていた小さな手のひらも、今はきっと、楓のそれより大きいかもしれない。宮内庁の内部にいながら、過去の仲間への感傷に浸りかけていた薫は、ぐっと手のひらを拳にして、体側に引き下げる。 「体術もなかなかのセンスを持ってるし、すぐに前線に出て働いてほしいくらいだよ。ただ、祓い人時代のあの術を今後どう活かすかは、上の判断を待たなきゃいけないけど」  珠生は腕組みをしながら、薫のそばへ歩み寄ってきた。薫はとっさに身構えてしまうが、珠生はいたって自然体だ。するとその時、不意に誰かに肩を叩かれ仰天した。いつの間にかすぐそばへ近づいてきていた深春が、薫の肩に手を置いている。 「深春……」 「びびったわ。お前、力つえーんだな」 「えっ……そ、そうかな……」 「拓人よりは確実に強いよ。楓より……ひょっとしたら、上かも。自分でもそう思わねぇ?」 「いや……はっきり覚えてないんだ。あの頃はただ、変わってしまった楓のことが怖くて……」 「まぁ、それもそーだろうけど」  あの時、楓と拓人のすぐそばにいた深春は、二人の力量をよく覚えているのだろう。あの時されたことを、深春はどう受け止めているのだろうか……と、薫はふと気にかかった。 「珠生くんすげーじゃん、後輩の力引き出すとかできるようになっちゃったわけ?」なとど珠生に絡む深春の態度はどこまでも軽いので、まったく気にしていないように見えるのだが。 と、物思いに耽りかけたところで、珠生の琥珀色の瞳がすいとこちらに向けられた。薫は思わず背筋を伸ばす。  すると驚いたことに、珠生がすっと薫の方へ手を差し伸べてきた。 「……え?」 「握手、しよう」 「……あの、でも」 「昨日はごめん。薫の術の使い方を見ておきたくてあんな連れ出し方をしたのに、フォローもせず放置してしまって」 「……あっ、いえ。別に、気にしてません。それに、自分でも色々気づくことができたし……」 「うん……。俺、自分の気持ちとかうまく話すのが苦手で、直接感じ取ってもらった方が早いと思うんだ。だから……」  差し出された白い手は、男性的でありながらも綺麗な形をしていた。あの硬い拳がこの指でできているのが信じられないほどに、雅やかな指先である。  こわごわと、薫は珠生の手を握り返した。すると珠生はすぐに、ぎゅ、と薫の手を握り返す。  流れ込んでくるのは、薫に対して開かれた珠生の心だ。遠慮がちでありながらも、薫を受け入れ、導いていく役目を負っていく決意を持っていることが伝わってくる。だが同時に、その思考にもやもやと絡みついているものも、感じ取ってしまう。  祓い人への複雑な……肯定的とは言い切れない感情が、糸のように珠生の思考に根を張っている。そして、そんな想いを抱えていることに対して、薫にわずかながらも罪悪感を感じていることも。  薫は、自分からすっと手を離し、空いていた手で自分の手のひらを握りしめた。  さっきまでぐいぐい薫を攻めてきていた珠生の思考とは思えないほど、控えめかつ思慮深い感情に驚かされていた。 「……ありがとうございます」 「え? 何が?」 「いえ……。戦ってる時の珠生さんは、なんていうか、ちょっと怖いけど。……いい人なんですね」 「いい人って……。なんだその漠然とした感想」  ほっと安堵したようでありながらも、むうっと軽く頬を膨らませて文句を言う珠生の表情は、ひどく愛らしいものだった。  強大な力を持っているというのに、この素直な反応。そしてこれほどの美しい容貌となると、なるほど、周囲の人々が珠生に惚れ惚れしてしまう気持ちがよく分かる。ついでに、舜平の気苦労までなんとなく察せられてしまう。 「……僕、あなたのことは、信じられると思います。ご指導、どうぞよろしくお願いします……!」 「そ、そんな堅苦しい挨拶はいいって!」  直角に腰を折って珠生に礼をすると、途端に珠生はそわそわと落ち着かない態度を取り始めた。珠生は頬を赤らめ、緊張気味な口調で「ほら、会議もう始まってるから、行くぞ。深春も!」と、深春のシャツを引っ張って歩き出す。 「へいへい」  のんびりした口調でポケットに手を突っ込み、深春は珠生のすぐ後について歩き出す。そして深春は、不意に薫を振り返り、慣れた様子でぱちっとウインクを寄越してきた。

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