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二、知ってはいけない

「そう……変なものを見ることは、すっかり無くなったんですね」  孝顕の膝に頭を載せたまま、司は静かな声でそう言った。  白い絹糸のような髪の毛に指を通しながら、孝顕はひとつ頷く。すると、灰色の瞳がゆっくりとこちらを向いた。  高校に上がる前。父親の、反吐がでそうなほどの悪趣味に気づいたあたりから、孝顕は妖しいものを見るようになっていた。  孝顕の家は古くからこの土地に鎮座した日本家屋だ。なにやら県の文化遺産に登録されていると聞くけれど、広すぎて暗く、どこにいても薄ら寒いようなこの家を、孝顕は心底嫌っていた。  以前はもっと、この家は栄えていたという。今よりも多くの人間がこの家に住んでいて、この広さに見合うだけの活気に満ちていたらしい。  だが今は違う。普段家人が寄り付かない場所からは電灯が外され、そこにはいつでも闇がある。長く光の差さない場所にはじっとりとした陰気がこもり、そのせいで余計に人が寄り付かないという状況を生んでいる。  家中のそこここに居座る闇。部活を終えたあと、夜遅くに風呂場やトイレへ行く時、否応なしにその闇のそばを通らねばならない。別段暗闇が怖いと言うこともなかったし、それまでは特に何も気にしたことがなかったけれど――ある日、孝顕は暗闇の中に何かの気配を感じた。  受験を控え、夜遅くまで勉強していた。そろそろ寝るかと思い、ベッドに入る前に用を足しておくかと、孝顕は北側の最奥にあるトイレへと向かった。トイレ自体はリフォームが施され、明るい。以前ここに住んでいた亡き祖母も使いやすいようにと工夫がなされている。  だが、そこへ向かうまでの廊下は夏でも何故だかじっとりと冷たくて、いつもどこか陰気だ。普段は「じめじめして嫌やな」くらいの感覚だったけれど、その日ばかりは、いつも以上に空気が重い気がしたのだ。  呼吸がしにくい、息ぐるしい……孝顕はふと立ち止まった。  何もかも絡め取ってしまいそうな粘度を孕んだような闇の奥から、ふと名を呼ばれた気がして振り返る。  ――こうけん……  気のせいかと思った。だがそれは、かぼそく消え入りそうな子どもの声だと、なぜだかすぐに分かってしまった。  ひた、ひた……と壁の奥から聞こえてくる小さな足音。そして苦しげな吐息の音。  金縛りのように全身が硬直していた。身体が動かないことに、より恐怖を煽られる。  自分の心音と、浅い呼吸音だけが耳にこだまし、冷たい汗が全身から噴き出す。  直後、暗闇の中で赤い目が開いた。  瞳が赤いのではない。どろりと白目が充血し、真っ赤な血の色に染まったおぞましい眼(まなこ)だ。  孝顕は悲鳴をあげ、転がるようにその場から逃げた。  その日ばかりは部屋の明かりを煌々とつけたまま布団にくるまり、震えながら朝を待ったのだ。  嫌な予感がする――そういうとき、孝顕は必ずおぞましい何かを見た。幸い、そういったものたちは明るい場所を嫌うのか、昼間であるとか、二十四時間電気をつけっぱなしの孝顕の部屋までには現れない。  気のせいだ、疲れているんだ、ストレスだ……と理由をつけて、それらの存在から目を逸らし続けてきた。  だがあの日。初めて司と出会い、貪るようなキスを浴びせられたあの日から、孝顕は恐ろしい物を見ることがなくなったのだ。  あのじっとりとした不気味な気配を感じることがなくなって、塞ぎがちだった情緒は徐々に落ち着き、身体の調子も良くなった。部活の方でもずいぶん調子を落としていたけれど、ようやくこれまでのような……いや、これまで以上の動きができるようになってきたのだった。  この変化は、司によってもたらされたに違いないと確信した孝顕は、一週間後にまた司のもとへ忍んでいった。鍵のスペアはとっくに作ってある。  再び現れた孝顕を見て、司は「また来たんですね」と、たいして驚く様子もなくそう言った。  あやしい物を見ることがなくなったことについて早口で問うてみると、司は意味深に微笑んで「君にはそんな力、必要ないでしょう?」と言うのだ。  そして司は、孝顕になぜそんなものが見えてしまうのか、不気味なものたち正体についてなど、いろいろなことを教えてくれた。  駒形嫡流の人々には皆、『霊力』という異能が備わっており、その力を操ることで不気味なもの――妖を退治する生業についているのだということも、生まれて初めて知った。  これまで平凡に暮らしていた自分に備わりかけていた力、それは駒形本家特有のものだと知って驚いたが、同時にとても誇らしい気持ちになった。特殊な力もなく、幼い少年少女で遊ぶ卑しい父親や、若い男に狂っている馬鹿な母親とは違う人間なのだと。能力を秘めた自分は、本家に近い存在なのだと思えたからだ。  そして司もまた、本家の人間。力と知識を持つ、美しい存在だ。  孝顕に真実を教えてくれ、恐怖と困惑で硬く縮こまっていた心を解きほぐしてくれる誰かと、孝顕は初めて出会った。  司曰く、孝顕の霊力は目覚めたばかりで制御ができない。その力を司が吸収することによって、霊力の暴走を抑えているのだ、と。  今は部活や学問に集中したい孝顕にとって、妖を見ないで済む日々はありがたい。さらには「力を抑えてもらうため」という名目のもと行われる性的な行為も、今の孝顕にとっては離し難いものとなっている。  司と話していると、家族のことでささくれていた心が凪いでゆくような気がするし、同時に、司の微笑みに胸を高鳴らせてしまう自分もいる。……司もまたただの人間ではないと、頭の片隅では理解しつつも。  だが、司の正体を知ってしまえば、彼はきっとここからいなくなってしまう――何故だかはっきりとそう確信できる。  知りたいけれど、知ってはいけない。  知らなくてもいい。  孝顕の力を吸収することで、病がちな身体を保つことができると、彼は優しく微笑んでくれた。司の力になれることが誇らしかった。  この時間を、もはや手放すことなどできやしない。 「……司さん」 「はい?」 「親父とは……最近、会うた?」  そこで気がかりなのは、父親と司の関係だ。あの好色な父親が、司を前にしておとなしくしているわけがない。そういう想像をしてしまうと居ても立っても居られない。妖を見ることがなくなり恐怖からは逃れたけれど、軽蔑している父親への嫉妬心で、心が焼け焦げそうだった。 「いいえ。会ってませんよ」 「ほんまに? あいつ、家におってもすぐこっちに引きこもったりするやん。司さんに手ぇ出してんちゃうかなて思うと、俺、」 「ふふ……僕を心配してくれてるの?」  司は孝顕の膝枕からゆっくりと起き上がり、少し乱れた紺色の浴衣を直す。ほっそりとした首筋にきれいな線を描く鎖骨の下にはうっすらと赤い痣。ついさっき、孝顕がつけた痕跡だ。 「君が心配しているようなことは、一切ありませんよ」 「……ほんまに?」 「ええ。僕がここに来てから、ずいぶん時間が経っていますからね。最初は……まぁ、そういうこともありましたけど、憲広さんもすっかり僕には飽きたんでしょう」 「……最初は……」 「匿っていただいている身なので、何をされても文句は言えません。それに、ずいぶん前の話です」  白いまつ毛を伏せ、右手で左襟に触れているだけなのに、その姿はひどく妖艶だ。否応なしに、獣のような父親がこの白く清らかな肉体を蹂躙している様を想像させられてしまい、無意識のうち、怒りと悔しさのあまり奥歯をきつく噛み締めていた。 「……なぁ、これからもここにいなあかんわけ?」 「ええ……まぁ、もう少しは」 「俺な、東京の大学受験すんねん」 「へぇ、そうなんですね」 「東京、一緒に行かへん?」 「……え?」  父親から司を引き離したい一心で、孝顕は勢いのままにそう口にした。すると珍しく、司が驚きの表情を浮かべているではないか。  普段はいつだって悠然とした微笑みを湛え、本心の読めない相手だ。だからこそ、司が見せた微かな表情の綻びにさえ、孝顕の心は激しく浮き立つ。か細く白い手首を、ぎゅっと掴んだ。 「……何で、僕と?」 「え」  色のない瞳が不思議そうに孝顕を見上げている。これまでさんざん肌や唇を触れ合わせたというのに、ずいぶんと淡白な反応である。孝顕は若干肩透かしを食らったような気分になった。 「……何でって……」 「君は若い。こんな土地はさっさと捨てて、明るい世界で生きるのがいいでしょう。東京は騒音に満ちた場所だ、色々なことを忘れるにはちょうどいい」 「けど司さんがいいひんかったら、俺はまた妖を見る。それに……司さんの身体も、弱ってまう」 「……それは、まぁ」 「ほんなら、俺らは一緒におったほうがええ。そやろ?」 「……」  沈黙の中、初めて見つけた不思議な生き物を見るような目つきで、司がじっと孝顕を見上げている。孝顕としては、これはとても理にかなった誘い方だと思うのだが、司にはあまり響いていないようだ。あまりに感情のない瞳を前にしていると、人形を相手に熱くなっているような気分になる。  そして、心の奥底にわだかまった疑問が、またぞろむくむくと湧き上がりそうになる。  ――俺のことを若いって言うけど……この人いったい何歳なんやろ。  ――本家の人やのに、こんなとこへ隠されてる理由は何?   ――それに、この場所。全く生活感がない。食事とか、トイレとか、風呂とか……そういうの、どうしてはんのかもまったく分からん。  ――この人は、何……?  ふと、きゅ……と指を握り返される感触で我に返った。空を漂っていた焦点が司に結ぶと、柔らかな微笑みが見える。 「……それもいいかもしれませんね」 「えっ……?」 「君と東京か。なかなか夢のある話ですね」 「……ほ、ほんまに?」  少しはにかんでいるようにも見える微笑は、疑念の中に沈みそうになっていた孝顕の心を浮き立たせるには十分だった。 「それなら、受験勉強をしっかり頑張ってもらわないといけないね」 「う、うん……!! 頑張るよ! 俺、こう見えても成績はけっこうええし!」 「ふふ、楽しみですね」  そう言って唇を弓なりにしならせ、司はそっと孝顕の指を持ち上げた。  指先に触れる柔らかな唇の感触だけで、落ち着いていたかに思えていた性欲に火が灯る。  小さな唇から舌を覗かせ、指先をねっとりと舐め、くっぽりと先端が口内へ飲み込まれる。ぬる、ぬると指先を抽送しながらも淫靡に濡れた舌を絡ませ、司は上目遣いに孝顕を見つめてきた。  ――……そんな目ぇで見られたら……。  ごく、と喉が鳴る。司はにぃと笑って、さらに深くまで孝顕の人差し指と中指を飲み込んだ。司から与えられる巧みなフェラチオを思い出し、再びむくむくと下半身に熱がたぎる。 「ん……司さん」 「ふふ……またこんなに大きくなった。咥えてもいいですか?」 「い……いいけど。俺ばっかり」 「それでいいんですよ。……それで」  話をはぐらかされたような気がしてややすっきりしないものの、美味そうにペニスをしゃぶる司の淫らな表情を前にしてしまえば、かすかな疑念はあっという間にかき消えてしまう。  そうして孝顕の雄を吸い尽くそうとしているときばかりは、司の頬にも紅色が差し、なんだかとても人間らしく見えて……。  ――人間らしい、て。ほな、この人ほんまはなんや言うねん……。  手のひらにすっぽりと収まってしまう司の後頭部を撫でながら口淫に酔い、抑えきれない声を漏らしながらも、いつだって頭の片隅から疑念は消えない。

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