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六、接触

「あの……すみません」  部活を終えて帰宅している途中のこと。  駒形孝顕はふと誰かに声をかけられた。  暮れなずむ夕暮れ時。濃い影が長く伸びる、逢魔時に。  夏で野球部を引退した孝顕は、放課後はいつも図書館で受験勉強に励んでいる。  塾に通う金ならいくらでも両親からせびれようものだが、親に頼るのは抵抗がある。自分の力で東京の大学へ進学する権利を得たい。自分の力で、司とともにあの家から出たい——その一心で、熱心に勉学に励んでいた。  野球部の仲間たちの進路はさまざまだが、大学受験をする生徒が大半だ。だが、孝顕のようにハイレベルな大学を視野に入れているものはほんの僅かであるため、勉強に対する熱の入れようには温度差がある。そのせいなのかなんなのか、最近はあまり遊びにも誘われなくなった。  だが、逆にそっちのほうが都合がいい。断ってばかりだと罪悪感がある。ここ最近は、放課後はいつもひとりだ。  その日も十八時の閉館ギリギリまで過去問を解いていた。  だが、司書に「暗くなる前に帰りなさい」とせっつかれ、ユニフォームではなく参考書の詰まった重たいスポーツバッグを斜めがけにして外に出た。  学校のすぐ隣にある図書館だ。同じように帰路につく制服姿の生徒の中に、見知った顔がないわけではない。だが孝顕は誰にも声をかけず、ポケットに手を突っ込んで道路を歩いた。  この辺りは気が滅入るほどの田舎だ。  見渡す限りの田んぼの中を真っ直ぐに伸びる道路は、果てがないように長い。そのくせ、その先にあるのは緑の濃い山である。自然が多いといえば聞こえはいいが、ようは自然しかないただの田舎だ。  夕暮れ時に似合いのひぐらしの声を聴きながら、孝顕は自分の影を見下ろしながら歩いた。普段は自転車通学だが、今朝の大雨でバスを使ったためだ。  交差した道路を左に折れ、しばらく行くと、山を切り崩してできた住宅地がある。田舎には不似合いなようなモダンな作りの家がずらりと並び、その途中にはひと気のない児童公園。  遊具の影だけが存在感をあらわす公園を過ぎ、ゆるやかな山道をぬけたところに孝顕の自宅はあるのだが——  普段は誰もいないその道端で、突然見知らぬ男に声をかけられたのだ。  孝顕はぎょっとして、弾かれたように後ろを振り返った。 「えっ……俺、っすか?」 「あ……すみません、いきなり声をかけてしまって」  ぎょっとしつつ振り返った視線の先に佇んでいたのは、黒いスーツ姿の若い男だった。視界を曇らせるきつい夕日の中にいてもなお、はっとするほどの眩さを身に纏っているかのような、華やかな美形である。  どこからどうみても、この辺りに住む住人ではない。  ——だ、誰やこの人……。 「いえ……何ですか」  相手の様子を窺いつつ低い声で返事をすると、スーツの青年はふわりと柔らかな苦笑を浮かべた。 「以前、仕事でお世話になった方のお宅を探していたのですが、道に迷ってしまって」 「はぁ……」 「駒形さんのお宅がどこにあるか、ご存知ありませんでしょうか?」 「えっ……」  孝顕は息を呑んだ。  普通であれば、父の客だと考えるだろう。だが、そうではない気がする。  この青年からは、以前孝顕を苦しめた妖たちと、どこか同じ気配を感じるのだ。どこか浮世離れした容姿といい、夕日を吸って妙に艶めいて光る瞳といい……何かが、おかしい。  そこはかとなく漂うあやしい空気——それは、司のそれともよく似ている気がした。  ——誰や、この人……。  相手の出方を窺うべく、孝顕は低い声でこう尋ねた。 「駒形はうちです。……うちの誰に用があるんですか?」 「ああ……失礼いたしました。僕は、駒形本家の皆様に大変世話になっていたもので」  ——本家と繋がりがある人。……ってことは、この人にも『霊力』があるってことか?  なるほどそれならば、司と似た雰囲気を感じるのも頷ける気がした。  だが、孝顕の父親は分家だ。そんなところへわざわざ尋ねてくるのはどうしてだろう。ただ単に勘違いをしているだけなのか、それとも、何か別の意図があるのか……。  ——司さんを探してるんちゃうやろな……。  ふっと湧き上がった疑惑。孝顕はポケットの中でぐっと拳を握りしめた。まだそうとも決まったわけでもないのにそう思い込んでしまったせいか、青年を見る目つきが険しくなる。 「うちは分家です。本家は京都にあると聞いてますけど」 「ええ、存じています。京都の御本家のほうはもう後継者がおらず、今は名前が残っているだけですね」 「……それが?」 「御分家の皆さまにも、一度ご挨拶申し上げたいと思っていました。近くを通りかかったもので、寄らせていただけたらと思ったのですが……」  ——分家と本家がほとんど断裂状態やってこと、この人は知らんのか……?  じっと青年の顔を観察しても、表情におかしなところは感じられない。本家と分家が互いに卑下しあっていたことなど知りもしないのだろう。孝顕だって、本家のことはただの親戚だと思っていたのだから。  孝顕はやや警戒を解き、改めて青年に向き直った。 「うちは、本家とはほとんど付き合いがないです。急に挨拶に来られても困るだけやと思いますけど」 「……そうなんですか?」 「父親はただの骨董商やし、母親は専業主婦みたいなもんなんで」 「そうですか。……なるほど、そういうことでしたら、僕みたいなのが押しかけるのはご迷惑ですね」  あっさりと、青年は引き下がった。つい手を差し伸べたくなるような柔らかな苦笑はそのままに。  そして「では、これで失礼します」と一礼し、さっさとその場から立ち去ろうとする。孝顕はつい、青年を引き止めていた。 「あの……!」 「……はい?」 「その、本家に世話になったってことは……あなたにも、変な力があるってこと、ですか?」 「……」  孝顕の言葉を聞いてか、ただただ人の良さそうだった男の顔に、すっと怜悧さが宿る。猫のような大きな瞳でじっと見据えられ、孝顕は思わずたじろいだ。 「……ご存知なんですね」 「えと……まぁ、はい。親はそういうの気味悪がってて、本家に近づくなていうて……」 「ああ……なるほど。そういうことでしたか。その割には、君は随分霊力のコントロールがお上手ですね」 「えっ……」  そう言って、青年ら唇を弓形にしならせる。  ついさっきまでとは違い、その美しい双眸には圧力があった。全てを見透かされてしまうような居心地の悪さを感じ、孝顕は一、二歩後ずさる。 「コントロール……て。俺は別に、なにも」 「そうですか? 君にも我々と同じ異能があるように感じますが……気のせいでしょうか」 「……さあ……」 「さすがは駒形家。御分家にも資質のある若者がいるのだなと感心していたんですよ」  青年はゆっくりと孝顕に近いて、表情を探るようにじっと下から見上げてくる。  孝顕よりも頭ひとつ分は背が低く、体格もほっそりとしているというのに、この視線の圧はなんだろうか。 「し、知りません、そんなこと」  かろうじて喉から搾り出した声は細く、情けなく、まるで自分の声ではないようだった。だが青年はあいかわらず孝顕から視線を外さない。 「そうですか。君のような若者が分家から出たとなれば、二十年前に亡くなられた最後の御本家当主、司さんもさぞかしお喜びになるのではないかと思ったんですが」 「……え?」  耳を疑うような言葉が、青年の可憐な唇からさらりと流れる。 「司さん……? 亡くなった……?」 「ああ、二十年も前のことですから君は知らないですよね」 「……いや……はい、まぁ……」  ——司さんて……? 同姓同名の誰かか? ……亡くなった? どういうことだ?  ぐるぐるぐる、と不穏な疑問が胸の内をかき乱す。  だが、心のどこかで、「ああ、やっぱりそうなのか」と、妙に納得している自分もいて、それがよりいっそう孝顕を混乱させる。  ——やっぱり……って。俺はなんでそう思ったん? 死んでるって、誰が? 二十年前って、どういうことやねん……。  ——じゃあ、俺が毎晩会ってるあの人は……何……?  込み上げてくる吐き気を、口元に拳をあててぐっと堪える。突然表情をこわばらせた孝顕を前に、スーツの男は気遣わしげに孝顕を見上げている。 「大丈夫ですか? 顔色が……。お宅まで送りますよ」 「……い、いいです。大丈夫です」 「でも……」 「大丈夫や言うてるやないですか! ……あと、うちはもう本家とは全然関係ないんで、もう二度と来んといてください……!」  くるりと踵を返し、孝顕は駆け出した。  こんな逃げ方をしては、何か知っているといっているようなものだろう……だが、今はそうすることしかできなかった。あの男の視線に、これ以上晒されたくなかった。だから逃げた。  ……そうでもしないと、これまでずっと胸の内に燻らせていた疑問という疑問を、すべてその場でぶちまけてしまいそうだった。  彼の正体について誰よりも不審を抱きつつも、司から離れられない自分を、誰にも知られたくはなかった。    +  駒形孝顕への接触が決定したのは、つい数時間前のことだった。  ずっと孝顕を張っていた調査部のメンバーからの報告により、孝顕の霊力に不自然な増減がみられると報告があったためである。 「不自然な増減って?」  珠生が湊にそう尋ねる。湊は壁面モニターに映し出された駒形孝顕の画像の隣に、パッと別の折れ線グラフを表示させた。  そして、トントンと値のピークを指して、くいとメガネを押し上げる。 「これは異能検知システムで観測した駒形孝顕の霊力の値や。普段はほぼ只人と変わらへん値なのに、野球部の合宿へ三日間参加した後、急に値が上がってるやろ」 「……ほんとだ」 「せやのに、一晩家で過ごしたらまた通常通りの値に戻る。……おかしいと思わへん?」 「確かに不自然やな。家で何したらこんなふうに霊力が下がんねん」  と、一緒にモニターを見上げていた舜平も腕組みをして眉間に皺を寄せる。  会議に上げる前に検討したいことがある、と湊に呼ばれ、珠生と舜平だけが会議室に呼び出されているのだ。 「調査を開始してから、駒形孝顕は家を開けることがほとんどなかった。せやけど、合宿がきっかけで、こういう値が出たってわけや」 「……つまり、家の中で、この子は高まった霊力を発散できているってわけか。……」  おそらく、三人それぞれが同じことを考えているという手応えがあった。  目を見合わせ、頷き合う。 「吸魂憑依の術。駒形のあの術があれば、この子の霊力を自分のものにできる」 「……そう、それや。どういう経緯でそうなったんかはわからんけど、駒形孝顕は確実に司のことを知ってるはずや」  湊が深々と頷くと、メガネのレンズがきらりと光った。 「父親は知らぬ存ぜぬやったけど、この子からは情報が得られそうやな。接触するか」  と、舜平は今にも滋賀へ繰り出していきたそうに腰を浮かせている。珠生は舜平のジャケットを引っ張って座らせると、「相手は未成年だ。まずは高遠さんの許可を得てからじゃないと」と生真面目なことを言う。 「まぁ、これまで何も状況が動かへんかったわけやし、上もすぐ許可するやろ。珠生の外見なら怪しまれへんやろし」 「……え? 俺?」 「そらそやろ。人当たりが良さそうな好青年に見えるしな、お前なら」  と、舜平も当たり前のように湊に同意した。 「それなら舜平さんのほうがいいだろ。コミュ力あるし」 「いや俺がスーツ着て近づいたら身構えるやろ。こんな大人が何の用やって」 「は? 俺も大人なんですけど」 「珠生はまだ新卒っぽい初々しさがあるし、いけんちゃう? 気弱そうに近づいてったら、駒形孝顕も気ぃ許すかもしれんし」 「え? 新卒? 俺、そんななの?」 「まぁまぁ、ええやん。若見えするっちゅーことで、適任や」  と、さらりと湊にまとめられてしまい、結局珠生が駒形孝顕に接触する運びとなったのだった。

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