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五、穏やかな夜

 珠生が風呂から上がると、リビングで舜平がラップトップを開いていた。今日の報告書を書いているのだろう。調査内容と所見については、できるだけその日のうちに文書化し、クラウドに上げておかねばならないのだ。こういうところはやはりお役所である。 「お疲れ。できた?」  舜平のぶんまで冷たいアイスティーをグラスに注ぎ、リビングのローテーブルであぐらをかいている舜平のそばに置く。ふと顔を上げた舜平も、珠生を見て微笑んだ。 「お、ありがとう」 「報告書、まだかかりそう?」 「いや……ま、これでええやろ」 「どれどれ」  舜平の隣にクッションを置いて座り、ラップトップを引き寄せて文面に目を通す。舜平の文章は簡潔でわかりやすい。 「今日は竹生島(ちくぶしま)近辺か……。ずいぶん遠くまで行ってたんだ。長浜市って、結構北の方だよね」 「そうやねん。高速はそんな混んでへんかったけど、それでもまぁ、遠いわな」 「だね」  竹生島は奥琵琶湖に浮かぶ周囲2キロほどの島だ。島名は「神を(いつ)く島」に由来し、音が変じて「ちくぶしま」となった。琵琶湖八景にも数えられる風光明媚な地で、古くは平家物語にも登場している。  近江八幡市付近で駒形司の行方を追うかたわら、琵琶湖の妖に妙な動きがないかどうか調査している。駒形は妖を喰らって生きながらえている上、妖を傀儡として使役する術さえ使う危険な男だ。琵琶湖を縄張りとする妖の動きにも注意を払わねばならない。  琵琶湖の歴史は古い。40万年前から現在の位置にある日本最古の湖であり、世界に20ほどしかない古代湖のひとつでもある。生物学的にも貴重な固有種が生息する特別な湖だ。五百年前、珠生が千珠として生きていた頃からずっと変わらずそこに佇み、仄暗く揺らめく深い水面の下に数多の命を飲み込んできた。  竹生島の付近には古戦場もある。大海へ流れ込む川とは違い湖は水の循環が少ないため、気候によっては、戦で命を散らした武者たちの骸が湖の中を回遊したとも言われている。深い水の中に囚われ、成仏する機会を失った武者たちの魂は、今もなお深い水の中を漂い続けているのだ。  そして、その怨念を喰らうのが妖だ。平安後期から江戸初期にかけて、琵琶湖に澱む隠の気に引き寄せられ、多くの魑魅魍魎が跋扈したという。そのせいで障りが多く発生し、琵琶湖周辺に住む人々が心身を病むことが頻発したため、都の陰陽師衆が目立って暴れていた妖らを一掃したという記録も古文書に残っている。 「俺まだ現地には行ったことがないけど、『近江国風土記』は大学んときに授業で読んだな」 「ん? なんやそれ」 「知らないの? 竹生島のなりたちについて書いてあるんだよ」 「へぇ、どんなん?」 「神同士が高さ比べをして、負けたほうの神が怒って相手の首を斬ったんだって。んで、その時落ちた首が竹生島になったってやつ」 「へぇ……そらまた物騒やな」  奈良時代から『神々が棲む信仰の島』として大切にされてきた歴史があり、神社と寺がそれぞれ一つずつある珍しい場所だ。  ひとつは『宝厳寺(ほうごんじ)』。この寺の本尊は弁財天で、厳島、江ノ島とともに三弁財天と呼ばれている。  そして神社のほうは、龍神、市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)宇賀福神(うがふくじん)浅井比売命(あざいひめのみこと)の四柱を祀る。この社の名は、『都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)』といい、ちなみに市杵島比売命は弁財天のことである。  パワースポットとしても有名な場所で、実際かなり霊威の高い場所だ。力の弱い妖はこの手の力を忌避するが、より強く、より大きな妖たちは、強力な霊威に引かれてこの地域に縄張りを張るものもいるのだ。 「今日は特に何も起こらへんかったけどな。そうとうデカいのが何やおるな……てのはやっぱり感じた」 「やっぱそうなんだ。……どんな妖なんだろう」 「もう何百年も表には出てきてへんようやから、湖の底で自然と一体になってのんびりしてるようなタイプかもな」 「それで調和が取れてるなら、変に騒がせたくはないよなぁ……」  珠生が破壊した魔剣・天之尾羽張を手に入れ損ねた駒形が、次はどういう手を打って出てくるのか……。比叡山ではかなり深手を負わせたつもりだが、駒形の再生能力については未知数だ。もうすっかり復活して、すでに何かしらの行動に出るための下準備に出ているのか。それとも、まだ傷が癒えていないせいで静かなのか——まだ、どちらとも判断がつかない。 「駒形の分家になにかあるのは間違いないんだろうけどなぁ……」  ふと、調査中に見た駒形孝顕という名の少年の顔を思い出す。  別段何かがおかしいという印象は受けなかったものの……どうしても、彼を見ていると何か引っ掛かりを覚えるのだ。  霊力には目覚めていないということだが、彼には必ずその素地がある——珠生の嗅覚はそう訴えてくるのだが、孝顕のまわりは妙にクリアだ。低級のひとつも彼の周囲には漂っていない。  通常、視える人間の周囲には、『自分を視てほしい』と望む霊魂や、力に引かれて寄ってくる低級な妖が少なからず漂っているものだ。だがそれが不自然に存在しないので、珠生は逆に気になっている。 「駒形孝顕とは、一度面と向かって話をしてみたいと思ってるんだ」 「未成年者にはむやみに近づくなて、上から言われてんのに?」 「手がかりがなさすぎるし、もうそんな悠長なこと言ってらんないでしょ」 「まぁ、確かにな。童顔のお前が行けば、向こうもちょっとくらいは警戒を解くかもしれんし」 「誰が童顔だ」  不意打ちのからかい口調にむっとしていると、舜平はからりと笑ってラップトップを閉じた。そしてくしゃりと珠生の頭を撫で回す。 「だって、高校生の頃とそんな顔変わってへんやん」 「そんなことないし。舜平さんは毎日俺の顔見てるから変化がわからないんだ」 「毎日、か。ははっ、確かにな」 「父さんなんて、会うたび『なんかまた顔つきがしっかりして……』って涙ぐむんだぞ」 「先生もあいかわらずやな……」  折に触れて、珠生は松ヶ崎に今も住んでいる父・各務健介のもとで夕食を取ることがある。今も料理はあまりしないようだが、いつ珠生が来てもがっかりされないようにと部屋の片付けや掃除だけは頑張っている様子で、そこだけはちょっと安堵している珠生だ。 「舜平さんだってそんな変わんないけど……あ、でもちょっと筋肉ついたよね、羨ましい」 「ははっ、せやろ? 学生んときより身体動かすこと増えたしな。皇宮警察との手合わせも多いし」 「京大出のインテリだったのに、だんだん舜海めいてくるなぁ……」 「やかましい」  Tシャツから伸びる上腕二頭筋を誇らしげに見せつけてくる舜平の目の前で、珠生はあからさまにため息をついて見せた。珠生は筋肉がつきにくい体質なので羨ましいことこの上ないが、なんやかんやと言って、厚みを増して逞しくなってゆく舜平の肉体を目の当たりにするたび、惚れ惚れしてしまう自分もいるので複雑だ。  頭を撫でられながら額にキスを受け、目を閉じる。すると瞼にも唇が柔らかく触れ、頬から首筋へと舜平の大きな手のひらが滑り降りてきた。  肌を撫でられながらキスを交わすうち、互いの唾液で唇が濡れてゆく。ぐいと引き寄せられたかと思うと、舜平の膝の上に乗せられて、さらにキスが深くなる。唇が触れ合う音にも性感をくすぐられ、珠生はするりと舜平の首に腕を回した。このままもっと、気持ちいいことをしていたいと思っていたのだが……。  だが、舜平ははっと何かを思い出したようにキスをやめた。 「そういえば、深春は何の話しに来たん?」 「…………こういう体勢で話す感じの内容でもないんだけど」 「え? 深刻な悩みか?」 「うん……そうだね。結構悩んでる感じだったなぁ」  膝の上で抱き抱えられた状態のまま、珠生は深春と薫のことを話してみた。珠生の腰をゆったりと撫でながら相槌を打ち、舜平は「なるほどなぁ」と口にする。 「深春も複雑な生い立ちしとるからなぁ。薫は薫で闇抱えてそうやし」 「そうなんだよね……。お互いが救いになればいいなとは思うんだけど。なんのアドバイスもできなかったし」 「まぁ、恋愛ごとは外野があれこれ言うもんでもないやろ。それに深春も、お前にアドバイスとか期待してへんかったと思うで」 「はぁっ? なんだその言い草はっ。どーせ俺は口下手だよ」 「まあまあそう拗ねんなって」  むくれた珠生が舜平の上からどいてしまおうとするも、強い力で抱き寄せられてしまい、またすとんと舜平の上に着席だ。舜平は笑みを浮かべて珠生の腰を両手で抱き寄せ、ちゅっとリップ音をたてて唇にキスをした。 「アドバイスなんかなくても、お前に知っててもらうだけで、深春は安心できるんちゃうか?」 「そうなのかなぁ……」 「お前はあいつの兄貴分なんやから、もっとどっしり構えとけって」 「舜平さんのほうがよっぽどいい兄貴だろうけど。舜平さんなら、何かもっと良いこと言ってあげられそうだし」 「そうでもないて」  舜平はそう言って、するりと珠生のシャツの中に手を忍び込ませてきた。じかに肌を撫でられてしまうと、ぴくんと腰が震えてしまう。舜平にもその反応が伝わっているのだろう、唇に浮かんでいた笑みに、かすかに色気が宿りはじめる。  そうして雄をちらつかされてしまうと、珠生も弱い。あえてちょっと怒ったような顔をして見せながら、舜平の股ぐらの上で腰を蠢かせた。 「真面目な話してんのに、何硬くしてんだよ変態」 「変態っていうな。お前とくっついてんねんからしゃーないやろ」 「……そうかもだけど」 「俺らにできることは、否定せずにただ見守ってやることだけや。あいつらも子どもじゃない。自分らなりの関係を作っていかなあかん」 「うん……そうだね」  低く静かな声が身体に響いて、安心する。珠生は身体の力を抜いて舜平にもたれかかり、そのままきゅっと抱きついた。この温もりと匂いに、いつも安堵をもらってきた。  願わくば、深春にとって薫の存在がそういうものであるといい。今世でこそ、誰かに愛される幸せを感じてほしい——そう望まずにはいられない。  無言のまま舜平にしがみついていると、後頭部をゆっくりと撫でられる。まるで珠生をあやすような仕草だ。 「今日はなんや甘えん坊やな。どした」 「甘えん坊ってなんだよ。……舜平さんの匂い、落ち着くなって」 「ははっ、そうか。よしよし」 「もう、そういうのいいってば」  気恥ずかしいので抵抗してみるものの、わしわしと頭を撫で回されると、なんだかまったりした気分になる。ついさっきそういう気分になりかけたけれど、深春たちのことを思うとなんとなく、舜平に甘えながらセックスに耽るような気分ではなくなった。    珠生はひょいと舜平の上からどくと、うーーーんと伸びをして深呼吸をする。 「もう寝よう。舜平さんも移動で疲れただろ」 「そうでもないけど、まぁ、たまにはちゃんと早寝せなな」 「ほんとだよ。俺もたまにはぐっすり寝たい」 「ちょいちょいお前からも誘ってくるくせによう言うわ」 「ぐ……」  そうして本当のことを言われると何も言い返せない。  よほど変な顔をしていたのだろう、珠生の顔を見て、舜平が可笑しげに噴き出した。

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