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八、家でくらいは
「はぁ……疲れた」
「せやな……。まともに家帰ってこれたん久しぶりやし、コーヒーでも淹れよか」
「うん、ありがとう」
着替えを取りに帰ることはあっても、シャワーを浴びてすぐにまた出ることが多かった。二週間近く主が留守がちだった部屋はしんとして暗く、いつになく散らかっている。
キッチンで舜平がコーヒーを淹れているあいだ、珠生はリビングに置かれっぱなしだったシャツの類を拾い集め、洗濯機に放り込む。そしてカーテンと窓を開け、部屋に風を通した。
じっとりと湿った夏の気配とともに、ほんのりと涼しい風が吹き込んでくる。珠生はしばらく何気なく外を眺めていた。
「どした?」
「え……? ああ、いや。なんでもない」
振り返ると、香ばしいコーヒーの香りが部屋の中に漂っていた。それぞれのマグカップには、ブラックコーヒーとカフェオレが満たされている。珠生は礼を言って、舜平の斜向かいに腰を下ろした。
ふたりとも、しばらく無言のままコーヒーを口にする。そして同時にため息をついたタイミングで目線が合い、同時に微笑った。
「美味しい。ああ〜〜……ホッとする」
「そうやな。ようやく帰ってきたて感じすんなぁ」
「うん……」
両手でマグカップを包み込み、珠生はまた窓の外を見やる。近くからか遠くからか、聞こえてくる虫の声がずいぶん大きくなってきた。
「あの子、これからどうなるのかな」
「まぁ……しばらくは入院せなあかんやろな。頸椎捻挫、肋三本、手首にもヒビ入ってたわけやし、精神的な混乱も大きそうやったし」
「だよね……。まったく、自分の甥っ子になにやってんだか」
保護された駒形孝顕は負傷し、意識を失っている状態で発見された。宮内庁の息のかかった近江八幡市総合医療センターに搬送され、強固な監視のもと特別室に入院している。
一度目を覚ましたものの、孝顕は今自分が置かれている状況がまったく理解できない様子で、軽いパニック状態を呈していた。一旦鎮静剤を投与の上、佐久間が自白術をかけて情報を抜いたのだ。
「見た目は十代だけどあれだよな、駒形司って孝顕くんの父親の腹違いの兄弟やろ? つまり叔父と甥っ子っちゅーことやん。……あかん、これは禁断の関係……」と、口元をワナワナさせながら報告した内容はこうだ。
駒形孝顕にはやはり異能がある。それも、本人が扱いきれないほどの霊力量だ。だがその霊力は、すべて司が奪い取っていたらしい。これまで駒形は妖を喰らうことで生きながらえているような状態だったが、ここ最近はずっと孝顕の霊力に依存していたようすだ。
しかもその方法は、口づけや口淫による摂取。未成年である孝顕は、駒形の行為に性的なニュアンスを強く感じ取っていたようだ。催眠にかかったような状態で、孝顕は何度も駒形への恋慕の気持ちを口にし、駒形の行方を案じていた。
だが、駒形にとって、おそらく孝顕はただの餌。去り際の仕打ちはあまりにも酷かった。孝顕が意識を取り戻した時には、きちんとしたメンタルケアを受ける必要があるだろう。
「そのあと、霊力を封じて忘却術で全てを忘れさせられる……ってとこだろうな。先輩ならそうするよね」
「ああ、そうなるやろな。あの家に戻されたとしても、あの子にはあんま良うなさそうやけどなぁ」
海外で幼子を買う父親、若い男に溺れ金を貢ぐ母親——いびつな家庭で、よく非行に走らず成長したものだと感心すると同時に、こんな環境下で霊力が目覚めてしまったことを哀れに思う。きっと、誰にも相談できない不安や恐怖を抱えていたに違いない。孝顕が駒形にすがりたくなる気持ちは、珠生にはじゅうぶん理解ができる。
救いなのは、孝顕が成績優秀だということだ。推薦で東京の大学がほぼ決まってるため、関西を離れるにはいいタイミングだろう。
孝顕の父親……駒形憲広にもこれから宮内庁から聴取がなされることになっている。現在は”買い付け”という名目でフィリピンに渡っているが、実際何をしにいっているのかわかったものではない。
田舎町にある駒形家の巨大な屋敷には、強固な結界が貼られていた。二重、三重と、司が念入りに施していたようで、あの地域からなにも感じ取れなかったことにも合点がいく。
ここまでは用心深く行動していたようだが、宮内庁の突入の際には慌てて逃げた痕跡があった。霊力の残滓がくっきりと残っていたのだ。
鼻のきく珠生は、右水と左炎とともに駒形の行方を追いかけていた。琵琶湖の北へ北へと逃れてゆく駒形の気配を、確かに追いかけていたはずだった。
だが、米原市に入る手前あたりで、ふっつりと気配が途絶えた。まるで、琵琶湖の底へと逃れて行ってしまったかのように。
さすがの珠生も琵琶湖の中へ突入することはできない。水上、もしくは水中での戦闘となると、かなりの準備が必要だ。琵琶湖の北側は水深100メートルを超える場所もあるらしく、うっかり引き摺り込まれでもしたらこちらの負けだ。
いざとなれば、五百年前、瀬戸内の海を凍らせてみせたあの大技がある。とはいえ、どこで誰が見ているかもわからないこの現代において、何の下準備も無しに戦闘をおこなうことはできないのだ。いざというときに備えるための諸々の調査、下準備などなど……何かと多忙を極めた二週間だった。
「五百年前はよかったよね。動画撮られて拡散されるような心配もなかったし。漁師さんたちも海神を恐れて船を出すことはなかったから、スムーズにことが運んでさ」
と、珠生はラグマットの上に脚を投げ出し、後ろ手をついて天井を仰いだ。空になったマグカップを手にキッチンに立っていた舜平が、そんな珠生を見て少し笑った。
「懐かしい話持ってくるやん」
「だってそうだろ。……やれやれ、スマホなんかが普及するから俺たちの苦労が増えるんだ」
「何言うてんねん」
そのままばたりとラグマットに仰向けに寝転んだ珠生の隣に、舜平が戻ってきた。もぞもぞと舜平の膝の上に頭を乗せて目を閉じ、ため息をつく。長い指に髪の毛を梳かれる感触があまりに心地よく、うっかりするとそのまま眠ってしまいそうだ。
「けどまぁ、今は氷牢結晶の術も、使える術者があんまりおらへんからなぁ……修行せなあかん」
「そっか……また忙しくなるね」
「駒形もこっちのそういう事情なんかもよう知ってるやろし、あえて琵琶湖に誘ってんのかもしれんな」
「……こっちがバタバタしてる隙に、また何か仕掛けてくるつもりかな」
本来の駒形の目的は祓い人の抹殺のはず。薫からの報告で『祓い人は全員殺す』とはっきりと名言している。
駒形はもはや、人よりは妖に近い存在と考えた方が都合がいい。神出鬼没な上に、得体の知れない不気味な術をまだまだ隠し持っていることだって考えられる。
「念の為、拓人と薫の監視は強くするて高遠さん言うてはったな」
「薫くんには深春がついてるからいいとして、拓人……さんも大変だよね。とっくに祓い人は解体されてるのに、こっちの監視下で軟禁状態だし」
「せやなぁ。……とはいえ、昔楓と組んで騒動起こした張本人やから、危険視されるのもわかんねんけど」
駒形は目的を着々と果たし、これまでも数人の人死を出してしまっている。薫と拓人はこちらの保護下にあるものの、宮内庁特別警護課としての——いや、都の陰陽師衆としての威信をかけて駒形を捕縛せねばならないのだと、陰陽師の血筋の仲間たちは過熱している。
珠生は今も昔も陰陽師ではないためか、熱くなっている皆のことをどこか冷静な目で見ている。とはいえ今は組織の一員だ。もちろん駒形のことは捕まえなければと思っている。だが、時折わずかな隔たりを感じるのもまた事実だ。
純粋に小細工なしで、駒形司と一騎打ちをしてみたいという気持ちが、日に日に大きく育っている。戦闘種族としての鬼の血が騒いでいることは自分でもわかっている。罪悪感も感じている。……だが、自分が戦うことで駒形を捕えることに大きく貢献することができるのだから——と、揺れる感情を押し殺しているのだ。
不意につんと眉間を突かれた。
珠生ははたと我に返って、舜平を見上げた。
「……って、やめよや。家でまでこんな話」
「あ……ああ、うん。だよね……」
珠生は身体を起こし、ぽすんと舜平にもたれかかった。舜平の腕に包み込まれながら目を閉じていると、だんだん気持ちが落ち着いてくる。珠生は深く息を吐いた。
「……こうやってくっついてると、眠くなってくるな……」
「寝てもええけど、シャワー浴びたいて言うてへんかった?」
「あー……そうだった。めんどくさいから一緒に行こうよ」
「めんどくさいからて」
めんどくさすぎてひとりでは重い腰が上がらないのだ。珠生の正直すぎる申し出を聞き、舜平はからりと笑った。
「せっかくやしお湯張ろか。だいぶ疲れてるやろ、お前も」
「うん……そだね」
「ちょっと待ってろ、準備してくるから」
「ん……」
自分も疲れているだろうに、舜平は笑顔を残してバスルームへと消えていく。風呂掃除をしている物音をゴロゴロしながら耳にするうち、珠生はふと、大学生の頃の千秋の言葉を思い出した。『いーわねー、あんたはラブラブでー。年上の優しい彼氏羨ましーなぁー』……というものだ。
「……うーん……俺ばっかり労われてる場合じゃないな。俺も舜平さんを労わないと……」
「ん? なに?」
「あっ……いや別に。お風呂、ありがと!」
労うといってもなにをすればいいのやら……と考えていたところに、舜平がもどってきた。
ひょいと身体を起こし、珠生は舜平に礼を言う。すると舜平はこともなげさげに「おう」と言って微笑み、しゅるりとネクタイを外しながら、キッチンのカウンターの上に置いていたスマホをチェックし始めた。
どこか疲れた横顔で、スマホ片手にシャツの襟元をゆるめてゆく仕草が、何だか妙に色っぽいものに見える。珠生はごくりと喉を鳴らし、舜平の姿に見惚れていた。
——労いになるかわかんないけど……。
さっきは下心なく入浴に誘ったけれど……ちょっとくらいなら、いやらしいことをしてもいいだろうか。
忙しくてセックスをする暇もなかったし、きっと舜平だって溜まっているはずだ。口で、手で、舜平のものを慰めたなら、労いになるだろうか。
——って、俺が欲求不満なだけかも……?
「珠生?」
ぽうっとなりながら舜平に見惚れていたのがバレたらしく、気づけば目の前に舜平がしゃがみ込んでいる。何だか恥ずかしくなって、珠生はふいと目を逸らした。
「な、なに」
「あのなぁ、そんなエロい目で見られたら困んねんけど」
「なっ!? エロい目……!? 俺が……!?」
「疲れてるやろから今日はやめとこかなて思ってたけど……。いいん? しても」
「えっ……」
ぽ、と頬が熱くなる。気恥ずかしくて目の奥が熱いけれど、おずおずと視線をあげて舜平を見上げてみた。すると、さらりと頬を撫でられて、そのまま軽く唇同士が重なった。……たったそれだけで、身体の奥底に火が灯る。
「俺も、したい、な……」
間近で見つめられながらそう呟くと、またさらに身体中が熱くなってしまう。
優しく微笑む舜平と過ごす甘い時間が何よりの癒しだな……と、改めて思う珠生だった。
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