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九、少しずつ

 ずん……と重い響きが道場の床を揺らす。  畳の床の上では、墨田敦が呆気に取られたような顔で仰向けに転がっている。そして、背負い投げを決めた当の本人である薫も、まだどこか信じられないといった顔だ。 「……い、一本!」  そして、審判を務めていた佐久間もまた、一瞬何が起きたのかわかっていなかったらしい。慌てて右手を高く掲げ、張りのある声音で薫の勝利を告げた。  今日は、特別警護担当官だけの訓練日で、自由組手を行っていたところだ。  仲間内だけという気楽さもあり、毎回あみだくじで対戦相手を決め、トーナメント方式でその日のトップを決めるという方法をとっている。  だいたい、毎回勝ち残るのは珠生・舜平・敦・深春の四人(参加していれば藍沢要も)だ。参加状況によって変化はあれど、お決まりのようにこのメンバーでその日の勝者を争う形になる。ちなみに今日は、舜平は県警本部の応援で不在だし、珠生も若手の指導という立場でここにいるため、勝負には不参加だった。  そういうわけで、今日の敦は勝つ気まんまんだった。指導役の珠生に向かって『俺が勝ったら、また珠生くんと勝負したいのぉ! な〜〜久しぶりにええじゃろ〜?』と暑苦しく迫られていたのだが……なんと、今日は薫が敦に勝利した。  このひと月あまり、徐々に徐々に体術スキルを伸ばしてきた薫が、満を持したかのように敦に勝ったのだ。  しばらくしんとしていた道場がにわかにどよめき、「おお〜!!」と野太い声があちこちから上がる。  そして天井を見上げていた敦もようやく起き上がり、「う、はぁ〜まじか」と言って自らの坊主頭を押さえた。 「あっ……。失礼しました」  ようやく我に返ったらしい薫が敦に手を差し伸べ、敦はその手を取って立ち上がる。そして互いに一礼し、「ありがとうございました」と礼を述べ合った。 「まっさか君に投げられるとは思わんかったけえ、油断したのぉ! いやー、びっくりしたわ」 「あ、はぁ……。ちょっと隙が見えたので、ここだ、と思って技をかけてみたんです」 「なるほどなぁ、ほんまやられたわ。次は油断せんけぇな!」 「はい、次もよろしくお願いします」  緊張感と興奮に満ちていた道場の空気があっという間にゆるんでゆく。傍へ避けながら笑顔で会話を交わし合っている薫と敦を壁際から眺めつつ、珠生も内心驚いていた。  薫はこの集団に対して常に遠慮を感じていた様子だが、ここ最近、急に一皮剥けたような勢いが出てきたように感じていた。また、今日組み合ったメンツも彼にとってはやりやすいこともあったのかもしれない。  敦との試合までにすでに三人を相手に勝利していて、敦との対戦までにちょうどよく身体も気持ちもあたたまっていたようだ。  敦は、普段の言動こそ軽薄・軽率でどうしようもないところがある男だが、戦い慣れた手練れだ。やたら筋肉を育てたがる敦に比べれば、体格だって薫のほうがずっと未完成なものであることは間違いない。  ——頭の回転、スピード、身のこなし……薫くんにはセンスがある。確実に力をつけてきてるな……。  腕組みをして顎を指先で撫でながら、珠生は冷静に薫の動きを観察していた。敦に油断があったとはいえ、組手において手を抜くような男ではないこともわかっている。  一瞬の隙。それを見逃さず、格上の敦相手にどう攻めれば良いかを一瞬で見極め、あの体躯を投げ飛ばしたのだ。 「へぇ〜、やるじゃん。薫のやつ」 「あ、深春。いつから来てたの?」  不意に横で深春の声がして少し驚く。いかんいかん、自分も油断していたな……と反省しつつ、珠生は隣に立つ深春を見上げる。深春は私服姿で、今日は組手に参加するつもりはなさそうだ。 「ちょっと前。今日残業になっちゃってさ、遅れた」 「そっか、お疲れ。深春、薫くんに体術教えたりしてるの?」 「まぁ、たまに? といっても、実際手合わせしたりしてるわけじゃなくて、柔道とか剣道とかプロレスの動画見ながら解説したりとかな」 「プロレス……」 「その成果かなぁ? すげーじゃん、墨田さん投げ飛ばすなんて」 「うん、すごかった。動きに無駄がないし、すごく集中して敦の動きを見てたしね」  深い頷きとともにそう評価すると、深春が誇らしげな笑顔になる。その表情にこれまでと違うものを察した珠生は、目を瞬いた。 「その顔を見るに、薫くんとはうまくいってるって感じかな?」 「顔? え、俺、そんな顔してた?」 「なんとなくだけどね」 「へぇ〜、珠生くん。そういうのわかるようになっちゃったわけ? すげーじゃん」 「うるさいな」  色恋に鈍い珠生を知っているからか、明らかにからかうような口調である。珠生はむっとしつつも、深春のリラックスした表情に安堵もしていた。 「高遠さんが言ってたけど、次の琵琶湖検分に薫くんも連れて行こうと思ってるみたいだよ」 「へぇ、そうなんだ? ……へぇ」 「まぁ……危険ではあるけど、あれ以来動きがないもんで、ちょっと上の方の人も焦ってきてるみたいだ」 「……なるほどね」  深春の表情が一転、曇る。  薫は駒形から直接『殺す』と言われたことのある身だ。駒形がターゲットとしている祓い人の一人を琵琶湖の検分に連れて行くということは、つまり、駒形を誘い出す餌……という意味合いもあるに違いない。 「とはいえ、薫くんの能力に期待を込めてるって意味もあるよ。妖の心を読む力はすごく珍しいし、貴重だ」 「まぁ……それもそうだよな。触れさえすりゃ、あれ以上手っ取り早い方法ないだろうし」 「ま、触れるところまで連れてくるのが大変かもね。俺の式が居場所は把握してるけど、警戒心が強くて接触は難しそうだし」 「珠生くんの式……ああ、白い虎。あれだろ、人間に化られるようになって絵面が腹立つって舜平が言ってた」 「ああ……そう」  モフモフの姿でも舜平は腹を立てがちだ……とは言えないので、珠生は曖昧に笑っておいた。 「薫くんが呼ばれるなら、多分深春にも声がかかるだろうから、そのつもりでいてね」 「俺も?」 「一番彼の様子をよくわかってるのは深春だろうから、高遠さんもあてにしてるんだよ」 「ふーん、そんなもん? 珠生くんがいりゃ、たいていのことは何とかなりそうだけど」  と言いつつ、深春は頬を緩めて肩をすくめた。そして、タンクトップの上に羽織っていた半袖シャツをやおら脱ぎ始めた。 「そういうことなら、俺もちょっとくらい参加してこっかなー」 「うん、そうしな…………って、ちょっ!! ちょっと待った!!」  脱ぎかけのシャツを、珠生は慌てて深春に着せる。  深春の首筋や肩口に、歯型のような痕跡を見つけてしまったからだ。ぐいぐいと深春の腕を引き、道場を出て廊下の隅に深春を押し込める。 「は、歯型があるんだけど! なんだよこれはっ!」 「歯型? ああ〜……うん、エッチんときちょっと」 「エッ…………チのときって、どんなプレイしてんだよ! 大丈夫なのか!?」 「大丈夫大丈夫。ちょっと盛り上がっちゃっただけだって」 「……本当かぁ?」  珠生の目には、ちょっと甘噛みした……という程度の傷には見えなかった気がするのだが、深春はこともなさそうに笑っている。  ここのところ笑顔も増えてきた薫は見るからに好青年だし、物腰も穏やかだ。恋人に噛み付くようなプレイをする激しさなど、微塵も感じ取れない雰囲気なのに……。  意外といえば意外だが、深春の持つ危うさのようなものに煽られて、薫が荒っぽくなるのかもしれないなとも察しはつく。とはいえ放っておくのは気がかりだ。珠生は念の為、深春にこう伝えておいた。 「あんまりひどいことされるようなら、ちゃんと言うんだよ?」 「ん? 珠生くんに?」 「俺がガツンと言ってやるから、ちゃんと相談するんだぞ!」 「ガツンって……あはっ、あははははっ、なにそれ、頑固親父じゃあるまいし!」  そう言って、深春はしばらく肩を揺すって笑う。笑いすぎて目の端に涙まで滲んでいるのを見つけて、珠生は憮然とした。 「もーなんだよ、人が心配してるのに馬鹿にして」 「はぁ〜〜笑った……。馬鹿にしてねーって。嬉しいんだよ、心配してくれるのがさ」  深春は指先で涙を拭い、ぽんと珠生の肩を叩いた。 「まぁ……今日は組手もやめとくか。道着着たら見えちゃうもんな」 「それはまぁ……ちょっと刺激が強すぎるしね」  苦笑する珠生に、深春はひょいと肩をすくめて見せた。 「そうだ、次の琵琶湖検分っていつ? 特別警戒態勢とか大げさにしなくても、俺、普通に仕事休み取るけど?」 「三日後。俺も舜平さんも、湊も行くよ」 「えっ、まじ? 上がんね、それ」 「仕事だけどね。……とはいえ、久々にみんなで動けるのは楽しみだよね。先輩もいたらなぁ」  彰の余裕めいた笑みが懐かしい。呼べば来てくれそうな気もするが、医師としての仕事もある上、もうすぐ父親になるという日も近い彰だ。珠生としても、彰をあまり危険な目には遭わせたくはない。  とそのとき、道場のほうから休憩の終わりを告げる声が聞こえてくる。珠生は道着の襟をぐっと正した。 「見学だけでもして行きなよ。その後ご飯でも食べに行こう」 「お、いいね。行く行く」 「薫くんも来るだろ? まだ一応未成年だしなぁ、どこがいいかなぁ」  深春を伴って道場に入る。まだ敦と何やら話し込んでいる薫の背中を見て、珠生は少しだけ、歯形がつくようなプレイについて妄想してしまった。  ——まぁでも……確かに舜平さんに噛まれるのは悪くはないかも……いやむしろ燃えそうだな……。  と、そんなことを考えてしまう自分に呆れ、珠生は人知れずかぶりを振った。  道場では、ふたたび活気ある声が響き始めている。

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