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十、暮れなずむ湖上にて

「うっわー! 琵琶湖でっけー!!」  深春がはしゃいでいる声を聞きながら、珠生は生ぬるく湿った風で乱された前髪を指先でよけた。  今、特別警護担当官の面々は、夕暮れ時の琵琶湖上に浮かぶ船の上にいる。  琵琶湖の南端に近い場所にある大津港から乗船したのは、一隻の大型フェリーだ。  大津港のすぐそばには京阪線の駅と商業施設があり、大きな道路も通っているため賑やかな地域である。  こんな場所で黒いスーツ男たちがぞろぞろ活動しているとさすがに目立つため、今日の探索メンバーはめいめい私服姿だ。  夏の盛りということもあって、今日の珠生はいつもより軽装だ。白いTシャツにハーフパンツといった格好だが、高校生の頃から私服にほぼ変化がない。  乗り込んだフェリーは暗い湖面上を滑るように走り出し、あっという間に湖岸から離れてゆく。  海とは違って波がないため、航行はとても穏やかだ。まだ沈んでなるものかと光を放つ大きな西日が、湖面をオレンジ色に照らしている。  フェリーの柵に腕を置き、珠生は湖上から見える大津市の街並みを眺めた。  湖岸は大きな岩で縁取られ、釣りや散歩をしている人々の姿がちらほらと見えた。  街から琵琶湖を望む景観はなかなかのものだ。湖岸沿いには遊歩道が作られ、レストランや大きなコンサートホールの灯りが、暮れ泥む景色の中に目立ち始めている。  ふと懐かしさを覚え、珠生は口元に笑みを浮かべた。  まだ高校生だった頃。舜平の卒業論文の息抜きに、ふたりでここまでドライブをしたことがあった。 「結局、ふたりで旅行は行けへんかったな」 「うわっ」  気配を消して近づいてきたらしい舜平に心を読んだようなことを言われ、珠生は驚いて後ろを振り返った。目を丸くする珠生に向かって、どこか得意げな舜平の顔がすぐそこにある。 「白浜とか行ってみたいて言うてたのにな、お前」 「よ……よく覚えてるね。もう何年も前の話なのに」 「そらな。俺、実はあのあと色々調べてん。どこ連れてったら喜ぶかなぁ、て」 「そうだったの?」  論文でずいぶん苦しんでいた様子だったのに、自分のために旅行プランを練ろうとしていてくれたとは驚きだ。珠生は苦笑して、柵にもたれて舜平を見上げた。 「あのあとも……色々あったもんね」 「……せやな」  ちょうどあの頃だ。  舜平は実家の寺で襲撃を受けて大怪我を負い、その上霊力の全てを奪われてしまった。  祓い人にまつわる事件の数々の中、珠生にとっては、あの一件が何よりもつらかった。思い出したくもないような言い合いもしてしまった。  舜平は微かに眉を寄せて目を伏せたあと、珠生の隣に立ってフェリーの柵に両手を置いた。その横顔を見上げていると、舜平の唇がふと笑みの形になる。 「今はどっか行きたいとこある?」 「今? うーん……あんまり考えたことなかったなぁ。舜平さんは?」 「俺? 俺は……せやなぁ」  フェリーの柵に軽く体重をかけ、舜平は遠くを見つめている。こしのある舜平の黒髪が、ふと吹き付けた風で乱される横顔に惚れ惚れしながら、珠生は返事を待つ。 「海外やな。だーれもいいひんプライベートビーチで、お前とふたりで一か月くらいのんびりしたい」 「海外のプライベートビーチで一か月……。すごいな、あの頃とは予算も規模も桁違いだね」 「夢のないこと言うなぁ、お前」  果てしなく現実的な珠生の返事に、舜平が呆れ顔をしている。珠生はふっと微笑んだ。 「……でも、それすごくいい。そういうのできたら、楽しいだろうなぁ」 「やろ?」  舜平はふわりと破顔して、ふたたび琵琶湖の湖面に視線を向けた。  ここは関西内陸にある湖の上なのに、空色に澄んだ鮮やかな海やどこまでも続くような真っ白な砂浜を、なぜだか易々と想像することができた。  以前”研修”で行った沖縄ともまた違う、異国の海。  裸足が細かな砂に埋もれる感覚、ひりつく日差しと、肌を濡らす海水の冷たさ。  抜けるように青い空に走る、ひとすじの飛行機雲。  そんな場所で舜平とふたりで過ごせたらどんなにいいだろう。  泳ぐもよし、波打ち際を散歩するもよし、開放的な場所で、舜平の愛撫に溺れるもよし……。 「おいおい、仕事中やっちゅうのになんちゅうゆるい顔してんねん。緊張感なさすぎやろ」  虚空に描いていたリゾートの夢が、湊の冷静な声によってパチンと弾けた。 「そんなことない……って、そっちこそなんだよその格好」  ハッとして素早く仕事の顔に戻った珠生は、湊の全身をしげしげと眺め回した。  湊は昔から大人びたきれいめの格好をすることが多いのだが、今日はハーフパンツタイプの海水ズボンに黒いラッシュガードを着用し、さらに派手なレモンイエローのライフジャケットを装備している。 「いや、そこまでする必要ある?」 「あのな珠生、琵琶湖を舐めたらあかん。海と違って琵琶湖は真水で浮力少ないし、急に深くなるところが多いねん。あんまり油断しとったらお前もハマんで? 溺れてまうで? いくら千珠さまの力が蘇ってカナヅチ克服できたいうても大自然の力には敵わ、」 「あーーーーもう、わかったわかった!!」  放っておくといつまでも琵琶湖の危険性を語り続けるであろう湊を黙らせる。言われなくとも、そのあたりについては履修済みだ。 「言われなくても気をつけるってば。っていっても、俺たち海水……いや、湖水浴しにきたわけじゃないし。船だし」 「船いうても油断したらあかん。いつでかい妖が出てきて転覆するかわからへんしな」 「まぁ、そうだけど」  湊と話しながら水辺を見やる。  舜平はとっくに陰陽師衆の面々に呼ばれてフェリーの舳先だ。  今日は船上から氷牢結晶を使えるかどうかを実験するという目的もあり、湖上にいる。  氷牢結晶は、五百年前に使った大技の一つ。  厳島に出現した海神と戦う千珠のために、海面を広範囲に渡って凍らせて足場を作った。(『異聞白鬼譚 第五幕ー荒ぶる海神ー』参照)  水を操る海神との戦いだ。あの技がなければ、千珠は到底勝つことはできなかっただろう。  琵琶湖周辺で駒形の気配が感知されていることもあり、今回この技を使う必要性が出てくる可能性が高い。  現世では執り行ったことのない技ということもあり、現代の陰陽師衆の皆で修行をしておく必要が出てきたのだ。  その輪の中に深春と薫も加わっている。真剣な表情で舜平の説明に耳を傾ける二人の姿を見つめながら、珠生は口元に笑みを浮かべた。 「薫くん、少しずつ馴染んできた感じだね」 「ああ、せやな。器用やから、陰陽術の覚えもええようやし」 「うん、祓い人と陰陽師のハイブリッドだ。うまく力を使えたら、彼はかなりの戦力になる」  突然の彰の声に、二人は仰天し後ろを振り返った。  大きなサングラスをカチューシャにして、満足げに笑う彰がそこにいる。  白いタンクトップに黒地花柄の半袖アロハを羽織り、短パンにウォーターシューズといった夏らしい格好をした彰もまた、高校生の頃とほとんど変わらない若々しさだ。 「先輩!? 仕事は大丈夫なの?」 「ここんとこ働き詰めだったから、さすがに休めと言われてね」 「葉山さんはどうしてはるんです? 出産準備で忙しいんちゃいますの?」 「里帰り出産することになったから、その準備で実家に帰ってるんだよ。ご両親が張り切ってて、今のところ僕の出番はないって言われちゃってさ」  そう言って肩をすくめる彰が、珍しく所在なげに眉を下げている。葉山の両親には、さすがの彰もまだ遠慮があるのかもしれない。  だが湊は、こくこくと何かに納得したような顔で頷きながらこう言った。 「葉山さんなりの気遣いちゃいます? 今こっちがこんな感じやし、先輩のこと貸し出したらなあかんな〜て思わはったんちゃうかな」 「やっぱり? 僕もそうなのかなって思ってたんだ」  湊の言葉に、彰もさもありなんという顔で頷いている。……が、話の見えない珠生は首を傾げるしかない。 「そうやと思いますよ。葉山さん大事な時期やし、先輩も葉山さんの前では生臭い話せんとこって気ぃ遣ってはったと思うけど、葉山さんにはそれも筒抜けやったんちゃうかな」 「まさにそうなんだよ。せっかく前線を離れてるのに、こっちの不穏な話を聞かせたら胎教にもよくないだろうと思って控えてたんだ。けど、やっぱり気になるしね」 「そらそうですよね」  語り合う二人を前に、珠生は曖昧に頷くことしかできない。  まだ子どもはいないはずなのに、湊ときたら全てをわかっているかのような落ち着きっぷりだ。前世での子育ての記憶を思い出しているのかもしれない。  ——……あれ? 俺も珠緒と美月を育てたはずなんだけどな……おかしいな。  ひとり首を捻っている珠生を見て、湊はくいっと眼鏡を指で押し上げた。 「まぁ、俺は千珠さまのお守りもこなした大ベテランやから、こんくらいのことなら分んねん」 「怖……。あのさ、いちいち心読まないでくれる?」 「珠生は顔に出て分かりやすいからなぁ。ま、そこが可愛いんだけど」 「もう社会人なんだし、可愛いはそろそろやめてほしい」  珠生の肩を抱き、彰が軽やかに笑い声を立てる。  こういう雰囲気は久しぶりだ。緊迫した状況が続いていたけれど、学生時代に戻ったような空気感に少しほっこりさせられる。  だが、ただここで遊んでいるわけにはいかない。  今日珠生らがここへ来た理由は、氷牢結晶が使えるかどうかの確認のためだけではない。 「蜜雲、来い」  その言葉が言い終わるか終わらないかのうちに、朱色の平安装束姿の蜜雲がふわりとその場に現れた。  彰の声には気取ったところもなく、すぐそこにいる友人を気軽に呼ぶような調子である。珠生の目にはそれがとてもかっこよく見えたものだから、今後の参考にしようと心にメモった。  最近気に入っている様子だったスーツ姿に見慣れていたので、いつになく威厳たっぷりに見える。シャープな狐目ながらも穏やな面差しの蜜雲には、柔らかな色合いの朱色がよく似合っているし、烏帽子も様になっている。 「おひさしゅうございます、皆様」  恭しく頭を下げる蜜雲に、珠生と湊も会釈を返した。

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