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十一、漣立つ
「久しぶり。今日はスーツじゃないんだね」
「ええ、わたくし、今日は佐為様より琵琶湖のヌシ様への使者となるよう言いつかっておりますので、びじねすまんの正装は場違いかと考えまして」
「確かに……取引先へ挨拶に行くわけじゃないもんね」
ピシッとしたスーツ姿の蜜雲が、葉っぱを化かした名刺を手に琵琶湖の主のもとを訪れるという絵面は面白くはあるけれど、あやかし相手にビジネスマナーは通じないだろう。
蜜雲が使者として遣わされる先は、琵琶湖・南湖のヌシの元だ。
名を、彌土路 という。
湖幅の狭まったところに琵琶湖大橋という巨大な橋が架かっており、琵琶湖はその橋を境に北湖・南湖と区別されている。琵琶湖は南北に長い形をしており、面積は滋賀県の六分の一を占め、北湖と南湖とでは湖底の地形も生態系もかなり異なる。
北湖のほうが圧倒的に面積が広く、深度は平均104mほど。ちなみに今、珠生たちがいる南湖の深度平均は4m程度、深いところでも10mはいかない。
北湖は駒形が潜伏していると思われる最有力候補地だ。以前、舜平たちが検分に赴いた竹生島も北湖にある。
北湖は南湖にくらべてあまりにも広く、そしてあまりに深く、しかも駒形に勘づかれてしまう可能性も高い。
そんな場所で氷牢結晶の術式をいきなり試すには危険であろうということで、まずは京都からもほど近い南湖にて訓練が行われることになったのだった。
「彌土路っていう妖は、蜜雲よりも長命なの?」
「そうでございます。彌土路はわたくしが佐為様と契約を交わす前から、すでに畿内にて名を轟かせておりました。かなりの大妖怪でございます」
「へっ、そうなんだ。すごい長生き……って、蜜雲もだけど」
「ふふ、何度か唐橋のたもとで酒を飲み交わしたこともございますので、彌土路とは知らぬ仲ではありません。そういう意味でも、わたくしにお任せいただくのが良いと思います」
こともなさげにおっとりと微笑む蜜雲だが、言っていることのスケールが大きすぎて感心するしかない。
「その彌土路ってのは、なんのあやかしなん? 琵琶湖やし、南湖やし……ビワコオオナマズあたりやろか」
湊が細い顎を撫でながら蜜雲に尋ねた。身につけた真っ黄色のライフジャケットがまぶしい。
蜜雲は手にした扇を優雅に開き、口元を隠しつつ目を細めた。
「おっ、さすがは湊様。博学ゆえの鋭いご指摘でございますな」
「まあ、ここ最近琵琶湖に出ずっぱりやしな。そらちょっとくらいの知識はつくわ」
メガネをクイッと押し上げながら飄々と答える湊である。珠生も琵琶湖についてはずいぶん学ぶこととなったが、湊のことだ、きっと自分なんぞよりもよほどディープな知識を集めているに違いないと珠生は思った。
「彌土路殿は大蛇でございますよ」
「へぇ、大蛇か……。そういえば、唐橋には大蛇や龍神、ムカデなんかの言い伝えが色々あったな」
「その通りでございます。また、北湖のヌシはビワコオオナマズの化身である、と聞いたことはあります。が、まだ確認は取れておりませんな」
ここ数ヶ月、ずっと北湖一帯を調べていた蜜雲と右水、左炎でさえもヌシの正体が掴めない。彌土路との対面は、琵琶湖のもっと深部から情報を得るためという目的ものあるのだ。
蜜雲いわく、彌土路は平安時代からずっと、南湖から瀬田川を治めてきた。
瀬田川とは、琵琶湖から京都・大阪へ流れ出る唯一の河川だ。京都に入ると宇治川に、大阪へ流れ込めば淀川と名称を変えながら琵琶湖からの水が届いていく。
余談だが、関西人同士の軽口における常套句として、滋賀県民が『琵琶湖の水止めたろか』と口にすることがある。実際、琵琶湖から流れる瀬田川には南郷洗堰という堰があり、ここで琵琶湖からの流水量を調節しているのだが、ここを堰き止めてしまえば本当に京都・大阪には本当に水が届かなくなるらしい。
そして琵琶湖と瀬田川の境目付近には、日本三名橋の『瀬田の唐橋』がかかる。古くは日本書紀にも登場する古い橋だ。
「唐橋を制するものは天下を制す」とまでいわれるほど、京都へ通じる軍事・交通の要衝であることから、幾度となく戦乱の舞台となった。琵琶湖経由の水路ルートよりも、瀬田の唐橋経由の陸上ルートの方が早いとする「急がば回れ」のことわざの語源としても有名だ。いまも現役の橋として地域に親しまれている。
約千百年前、朱雀天皇の時代。
龍神が大蛇に化身して唐橋に横たわり、大蛇に恐れを見せなかった武将・藤原秀郷を見込んで、三上山の大百足退治を依頼した——という言い伝えがある。
その後まもなく龍神はひとつの玉を産み、高天原へと昇った。残された玉から生まれたのは、翡翠色の鱗を帯びた大蛇だった。その大蛇こそが彌土路。南湖のヌシである。
「この百年あまり、彌土路殿は眠りについておりました。……ですが、こたびの騒ぎで、ようやく眠りから覚めたようでございます」
「僕らのせいで安眠を妨げてしまって本当に申し訳ないな。とはいえ、いいタイミングだ」
腕組みをして蜜雲の話に耳を傾けていた彰が、ほっそりした唇に笑みを浮かべた。
「もし彌土路の協力が得られるのなら、僕らにとってこれ以上有利なことはない。頼んだぞ、蜜雲」
「御意」
彰の前に、茜色の平安装束姿の蜜雲がうやうやしく跪く。かつてのように黒い衣を身につけてはおらず、現代の若者らしい軽装に身を包んでいても、蜜雲に傅かれる彰の姿には威厳がある。
とその時、ぶわ……と生暖かく湿った風が船上を舐めた。
ものの数秒のうちにあたり一面が灰色の霧に覆われ、波のないはずの湖面に、ざざ……ざざ……と白波が跳ねている。
「……なんだろう、この気配」
「わからないが、かなり大きなものが真下にいる」
手すりに駆け寄り、水飛沫が立つ湖面を覗き込むが、そこにあるのは黒い水だけ。
だがその刹那、ずん……と重くのしかかるような濃密な圧迫感が船を包み、突き上げるような波が船底を揺さぶった。珠生は咄嗟に膝をついて体勢を低くし、白く霞んだ視界の中に視線を走らせた。
ァオオオオ……ウゥウウウウ……
湖底の底から湧き上がる不気味な声が、空気をビリビリと震わせる。
直後、ズズズ…………!! と足元から地響きのような音が轟き——……突如としてフェリーの舳先が大きく跳ね上がった。
フェリーの前方に集まっていた陰陽師衆らの騒然とする声を耳にした瞬間、珠生は迷うこともなく手のひらから宝刀を抜いた。突然の攻撃を受け脳裡に浮かぶのは、駒形の薄笑みだった。
真珠色に輝く宝刀から生まれた風に乗った珠生の気が、甲板上の霧を勢いよく薙ぎ払う。
するとどっぷりと水をかぶった船上のあちこちで「大丈夫か!?」「しっかり掴まれ!」と無事を確認し合う声が聞こえ、仲間たちの姿が見えた。
——舜平さんは無事だ。湖に落ちた人もいない。
視界がクリアになり、暗がりの中に舜平の姿が目に映る。足を滑らせたらしい深春を脇に抱えて手すりにつかまっている舜平の姿を見て安堵した珠生は、たんっと軽く地面を蹴って、フェリーの後方に二本突き出した煙突の上へと跳び上がった。
フェリーは、なおも激流に弄ばれる木の葉のように揺れている。煙突の上などさらに足場が狭く危険に違いないのだが、すぐにでも高い位置から敵の出所を探りたい。片手に宝刀を握りしめ、もう片方の手で煙突の縁を掴みながら、珠生は大型フェリーの全体へ視線を巡らせた。
すると。
「ほう……ほうほうほう? なんだ貴様、妙な気配だな。人間……か?」
もう一本の煙突の上に、黒っぽい着物に身を包んだ何者かが、懐手をして立っている。船の揺れなどまるで感じさせない静かな佇まいで、長い髪と着物の裾を風にはためかせながら。
低音なようでいて澄んだ声。男のものか、女のものかもわからない中世的な声音が、轟々と吹き荒む風と水音を切り裂くように、まっすぐ珠生の耳に届いてきた。
「……あなたは誰だ」
「ふん、人間風情に名乗る名などない。だが……妙だな、これまでに嗅いだことのない匂いだ。水に沈めて殺したあと、ゆっくりと味わってみようか」
「!」
ニタ……と笑う口が、大きく裂けた。
そこから覗くのは血に濡れたような赤い舌。それはみるみる長く伸び、先端が二つに裂ける。
——蛇……! ってことは、これが……!?
「お待ちください、彌土路殿」
そのとき、巨大な白い狐が珠生の背後に現れた。
珠生の三倍はあろうかという巨躯に、たっぷりとしなるふさふさの尾をたなびかせ、蜜雲はいつもより数段低い声音で相手を制止する。
「ん……? その姿、ひょっとして蜜雲殿か。ずいぶん大きゅうなられましたな」
「大変ご無沙汰をいたしております、彌土路殿。突然縄張りを騒がせてしまい、申し訳のうございます」
蜜雲の姿を認めたらしい彌土路の全身から、刺すような圧が消えてゆく。
すると同時に揺れに揺れていた琵琶湖の湖面も急に静かになり、さあ……っと霧が消えていった。
チカチカっとフェリーの電灯が何度か点滅し、再び点灯した。彌土路の妖気で、照明までやられていたようだ。
「珠生殿、下に降りましょう。ここでは話しにくうございますので」
「うん、まぁ……そうだね」
「わたくしの背に乗られますか?」
「い、いや大丈夫。それはまた今度……」
化け狐の姿の蜜雲を目の当たりにするのは久しぶりだ。ツヤツヤの毛に覆われた背中に乗ってみたい気はするけれど、今はそれどころではない。珠生はひょいと煙突から飛び降りた。
3メートルほどはある煙突から飛び降りた場所には、すでに陰陽師衆らが集まっていた。初めて珠生の身軽さを目の当たりにする術者もいたらしく、「おお〜」とのんきな声援が聞こえてきて、珠生は恥ずかしくなってしまった。
「……ほう、ほうほう? 見れば見るほど面妖な人間……いや? 人間じゃない? なんだこの小童は」
「うわっ、いつの間に!」
気づけば真後ろに彌土路がいて、くんくん、すんすんと珠生の匂いを嗅いでいる。みたところ珠生と背丈は同じくらいで、青ざめた白い肌に振り乱した長い黒い髪がひどく不気味だ。
だがその黒い髪は、照明に透けたところが鮮やかな翡翠色にきらめいている。
深い緑色をした着流の上に、漆黒色の羽織を身につけた彌土路だ。さっきは蛇のように大きく裂けていた口元は、なにごともなかったかのように普通の人間のそれと同じ形をしている。
だが、顔面を隠す幾筋かの前髪の下から覗く大きな黒目の中に、小柄な容姿には似つかわしくない強大な妖気がぐるぐると渦を巻いているのが垣間見えた。
——……この妖は強い、間違いなく。もしまともに戦闘になったら互角か、あるいは……。
無意識に相手の妖力と自らのそれを天秤にかけていたそのとき、ふたたび平安貴族の姿になった蜜雲がしずしずと歩き寄ってきた。
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