531 / 533

十二、北湖のヌシとは

彌土路(みどろ)殿、おひさしゅうございます」 「これはこれは蜜雲殿。いったいなんの御用かな? 妙な人間どもを大勢引き連れて我が湖へやってくるとは、ちと無粋ではありませぬか?」 「大変申し訳ございませぬ。不躾を承知の上で、彌土路殿にお尋ねしたきことが」 「ほう?」  ふたたび平安装束姿に戻った蜜雲が、彌土路に恭しく首を垂れた。  そしてまずは、琵琶湖を騒がせている件についての詫びを述べ、とある人間が北湖に潜んでいる可能性について説明する。その人間がいかに人と妖にとって危険かということを語る蜜雲の口調はおっとりと静かなもので、やや妖気を張り詰めさせていた彌土路も落ち着きを取り戻しているように見えた。  だが、表情はどことなく胡乱げなままである。 「……なるほど、それで北湖のヌシの気配が妙だったのだな」 「ほう、北湖のヌシの気配……でございますか?」 「永き眠りについておることは知っていたが、眠っていても水を通じて伝わってくる気配はあった。それがここのところいやに静かなように思えてな」  彌土路は懐手をして、すいと北のほうを見やる。  珠生もつられてそちらを見るも、今はただ、もったりと霧を含んだ闇があるだけだ。ぽつん、ぽつん、と琵琶湖のいちばんくびれた部分に渡る琵琶湖大橋のライトが、うすぼんやりと光っている。 「北のヌシの姿は、わしもここ数百年は見ておらん。あやつは巨大な白い大鯰でな、名を天螭(あめのみずち)という。夜な夜な生真面目に湖の底を泳ぎ回っておったよ。湖が澱まぬようにと、漁をする人間のためにな」 「ほう……それはそれは」  蜜雲が、少し驚いたようにため息をつく。そばで聞いていた珠生も、北湖の主が人間のためにそこまでしていたということが意外に思えた。まるで、守り神のような振る舞いだ。  すると、いつの間にやら隣に立っていた湊が、ゆっくりと頷きながら腕組みをしてこう言った。 「なるほど、全層循環を促してたってことか。さすがは琵琶湖の主さんや」 「え、なに? ぜ、全層……?」  あまりもマニアックな言葉が湊の口から飛び出し、珠生の頭上にはクエスチョンマークが浮かんだ。 「全層循環。前も言うたけど、北湖の深度は深いところで100メートル以上ある。琵琶湖は海と違って波がないやん? 深い部分では水が動かへんから、そこだけ酸素の消費が進んでまうねん」 「ああ……そうか、風の影響なんかも受けなさそうだね」 「表水層は、春から冬にかけて湖水の温度が温められる。その間も、深水層は冷たいままやろ。そうして琵琶湖が二層になることを水温躍層ていうねん」 「ほう……それで?」 「でも冬になると、温められた表水層の温度が冷えてくる。すると、深水層の湖水と混ざり合うようになる。晩秋あたりから、深水層の酸素濃度は一番低くなんねんけど、そうして酸素を含んだ表水層と深水層の湖水が混ざり合うことで、琵琶湖の酸素濃度が一定になんねん。その現象が、琵琶湖の全層循環や」 「へぇ〜」  さすがは湊というべきか、思った通り、琵琶湖のことをかなり深くまで学んできているようだ。すると、彌土路が興味深そうに湊を見上げ、黒い瞳をきらりと光らせた。 「ふむ、貴様。なかなかの博識」 「ありがとうございます」 「そこの小僧が言うように、湖は水が動かねば死んでしまう。水が死ねば湖を糧にして生きる人間たちが死ぬ。そうならぬように、天螭は自らのの巨体で流れを作り、豊かさを守ってきた。……だが」  彌土路は星のない夜空を見上げ、黒目がちな双眸をゆっくりと瞬いた。 「数百年前の合戦のおり、ここいらはひどく騒がしくなった。あまたの武者が湖に沈み、穏やかな水面が血の色に染まるほどだった。わしも天螭も腹を立てたさ。わしは武者どもにいけずをする程度で気晴らしをすることもできたが、天螭はわしよりもずっとずっと北の湖を愛していた。だからこそ長い眠りにつくことで、自ら怒りを鎮めようとしたのだよ。あの力をもって怒りに任せて暴れれば、この湖……いや、畿内もろとも消し飛ぶほどの力があると、己で理解していたからだろうな」  静かだが凄みのある彌土路の声だ。語りに耳を傾ける陰陽師衆はみな息を潜めて、固唾を飲む。  それに、改めて危機感を煽られる話だ。  もし、駒形が天螭を操ろうとしているとしたら……。  鞍馬寺の神使だった右水と左炎をたぶらかしたように、天螭をそそのかし、その手中に収めていたら——……?  ぞっとしているのは珠生だけではないだろう。彰や舜平の表情もひどく険しい。  いまだゆらゆらと大きく揺れるフェリーの甲板には、不気味な静寂が広がっていた。 「……その天螭ってやつのとこに、あんたが様子見に行ったりできねぇの?」  静寂を破ったのは、あっけらかんとした深春の声だった。  きょろ、と彌土路の瞳が動き、まっすぐに深春を視線で捉える。  陰陽師たちをかき分けて前に出てきた深春は、普段と変わらぬ軽い歩調で珠生のそばまで歩を進め、彌土路とまっすぐに相対した。  きょろ、きょろと、彌土路の瞳が訝しげに動く。 「……ほう? 貴様も妙な気配を纏っているな」  そう言って彌土路は深春に近づくと、すんすんと鼻をひくつかせる。濡れたワカメのような長い前髪の隙間から覗く真っ黒な瞳に動じる様子もなく、深春はごく自然体だ。 「潮の匂い。雄大な大地の香り……ほう、珍しい」 「あんたら昔からの知り合いなんだろ? それならさ、あやしい人間にだまくらかされてねーかどうか見に行って……」 「ちょっ……こら、深春!」  大妖怪を前にしてあまりに軽い深春の態度を見かねて、珠生はその言葉を遮った。  何を考えているのか、彌土路の瞳がぬらりと不気味に動く。  そのそばで、平安装束姿の蜜雲がたらたらと冷や汗をかいている。  ここ南湖は彌土路の手のひらの上だ。もし彌土路を怒らせてしまえば、何をされるかわからない。  さっきはギリギリ耐えたけれど、フェリーをひっくり返すことも容易いだろう。それだけじゃない、ここにいる全員を湖の底まで引き摺り込むことだって、彌土路にとっては朝飯前なのだ。 「ふん、畏れを知らぬ愚かな人間め。……だが、面白いことを言う」  ぴりりと張り詰めていた空気が、思いのほかのんびりとした彌土路の声で一気に弛緩する。  珠生は目を瞬いて、尖った顎を撫ぜている彌土路を見つめた。 「お、怒らないのですか? 人間に舐めた口をきかれたのに」 「腹は立つが面白い。そこの鬼といい、さっきの博識小僧といい、この混血の小童といい……蜜雲殿、最近はこういう妙なのが大勢いるのか?」 「いえ、たくさんはおりませぬよ。ここにいるものたちは転生者で只人ではありませぬゆえ、彌土路殿のような大妖怪との対話にも慣れているのです」 「転生者? ほう……ほうほう、おもしろい。輪廻を繰り返した人間たちか」 「さようでございます。わたくしも一度は主を失いましたが、またこうして出会い、お仕えすることがかないました」  蜜雲はたおやかに微笑み、しずしずと彰の背後に回り込む。そして、腕組みをしたままだった彰と笑みを交わした。 「彌土路殿。私はこの蜜雲の主、一ノ瀬佐為と申す者。何卒、私からもお願い申し上げる」  彰が一歩進み出て、彌土路の前で片膝をついた。  それに倣うように、陰陽師たちが一斉にその場に跪く。珠生もはっとしてその場に跪くと、湊も素早くそれに倣い、数秒遅れて深春も頭を低くした。 「今、北湖に潜んでいるであろう人間は、非常に危うい存在です。なんとしても、天螭殿にその者を近づけるわけにはいかない。心清らかな天螭殿を唆し、この土地に甚大なる危害を加える可能性があるのです」 「人間……ねぇ。人ごときがどうやって天螭を唆す?」 「恥ずかしながら、その者は我らと同じ陰陽師の血を継ぐ者。外法(げほう)を使い、何をしでかすかわからない。我らはその者をこの手で捕らえ、裁きを下す義務を負うています」  彌土路は腕組みをし、彰を睥睨しながら「ほう」と唸った。 「して、そなたらはこのわしに何を望む」 「我らに貴方のお力を貸しいただきたい。古よりこの湖を守護し、人々に豊かさをもたらしつづけてきた彌土路殿の素晴らしき御力を」 「……ふぅむ」  闇の中に立ちこめる霧を払うかのように、彰の声は凛と響いた。  まっすぐに彌土路を見上げる彰の視線を受け止める彌土路の瞳が、わずかに揺れる。 「どうか、お頼み申す」  彰が頭を垂れると、全員がそれに倣う。  すると彌土路は、「……やれやれ」と呆れたように呟いた。 「突然現れて何を言い出すかと思えば。……まぁ、よい。わしも暇をしておったからな」 「……本当ですか? 我らに力を貸してくださると?」  顔を上げた彰が念を押すように尋ねると、彌土路はこっくりと頷いた。 「よいと申しておる。天螭のことは、わしも少し気になっておったし」 「ありがとうございます……!」  いつになく、安堵が強く滲む彰の声だった。  珠生もほっとして、詰めていた息をようやく吐き出す。船上の空気がにわかに希望を孕んだものになり、仄暗く感じていたフェリーの灯りさえも明るさを増したように思えた。  彌土路はジロジロと深春を凝視し、そして珠生を見て、今度は彰を眺め回す。  そしてまた尖った顎を撫ぜて、「転生者、ねぇ……」と呟いた。 「貴様らの妙な気配、なるほどそういうことであったか。特に気味の悪い、貴様」  つん、と白い指で指された珠生は、立ち上がって肩をすくめる。 「え、あ、はい……てか、気味が悪い……?」 「霊気、神気、鬼気が混ざりあった人間など初めて見た。薄気味悪いのう」 「はぁ……」  若干悪口を言われた気はするが、妖に気遣いを求めるほうがどうかしているので受け流す。  珠生が苦笑すると、彌土路はぱちりと大きな目を瞬いて深春に視線を移した。 「で、そっちの無礼者はなんだ? なんの妖だ?」 と、今度は深春を指差す。深春は困惑顔で珠生を見やり、「何って……何?」と首を傾げる。 「彼は燕の妖です。かつて能登を支配していた雷燕という妖の子でございますよ」  蜜雲がおっとりとそう説明すると、彌土路は「ふうん、燕か。雷燕……どこかで聞いたような」と空を仰いだ。 「時間もありませぬので、今宵は彼らの鍛錬の様子を肴に酒でもいかがですかな? わたくしが申すのもおかしくはございますが、なかなか面妖な術を使う者たちですので、彌土路殿の目にも楽しいかと」  蜜雲がぬっと袖口から丸い酒甕を引っ張り出すと、わかりやすく彌土路の目がきらめいた。  いったいどういう仕組みになっているのかと珠生が目を丸くしている横で、彰は「やれやれ、僕らの訓練が酒の肴か」と苦笑した。

ともだちにシェアしよう!