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十三、湖面の氷
「氷牢結晶 ! 急急 如律令 !!」
佐久間が琵琶湖の水面に人型の形代を飛ばし、ふわりと着水すると同時に舜平の声が高らかに響く。
刹那、ビキビキビキと湖の水面が歪に盛り上がりながら氷を形成してゆく様を、珠生はフェリーの屋根の上から彰とともに眺めていた。
「舜平! もうちょっと力をセーブするんだ! 海と違って湖面には波がないから、もっと抑えた力で一定に霊力を注げ!」
「了解!」
腕組みをした彰の声に応じた舜平が力を絶ったのか、凍りかけていた湖面がパキンと解ける。再び佐久間と舜平が同じ行動を繰り返すと、直径十メートルほどにわたって、さっきよりも格段になめらかで平坦な氷の層が湖面を覆った。
「おお〜、懐かしい!」
感心した珠生が声を上げると、印を結んで湖面を見据えていた舜平がちらりと目だけで珠生を見上げ、「緊張感なくなるからやめえって」と文句を言ってきた。
そのやりとりを聞いてか、彰がふっと声を漏らす。声にやや笑みを残したまま、また鋭く指示を飛ばす。
「よし! 次は同時に形代五枚を飛ばせ! ここからどこまで範囲を広げられるかやってみたい」
「応!」
彰の指示通り、形代がひゅんっと暗い湖面の上を滑るように飛んでいく。
水面にふわりと浮かんだ形代には複数人の陰陽師たちの力が込められており、遠隔で術式を発動できる仕組みになっている。
ちなみに、その発案者は湊だ。
転生者はともかく、現代人としてこの異能を受け継いできた術者たちはまだこういった術式に不慣れだ。貴重な霊力を無駄なく結界術などに注ぎ込めるよう、湊が提案して高遠たちが形にしたものである。
舜平、敦、佐久間といった手練れの三人が術式を練り、若手かつ術式発動に不慣れな現代陰陽師たち五人が力を注いで氷牢結界を成す。
現代人の若手の中に加わっているのは薫だ。緊張した面持ちで、印を結んで湖面を睨みつけているのだが……。
ズン! と低音が響き、あべこべに屈折した氷柱が突如湖面に突き上がる。
「おい薫! もっと霊力セーブせぇ!」
「す、すみません!」
「うわぁ〜あそこに珠生くんいたら串刺しだったよ〜? 相田くんに怒られるよ〜怖いよ〜?」
「うぅ、ごめんなさい!」
敦と佐久間にちくちくからかわれながら薫は冷や汗を流しながら力を調節しているようだが(舜平が「そこ! うっさいんで黙っててもらえます!?」と佐久間を叱る声も聞こえてくる)、なかなかうまくいかないようだ。
平坦になるどころか、ビキ、ピシッ! と不穏な音を響かせながら氷柱はさらにメキメキと成長していて、若手陰陽師たちが少し引いている。
「薫の霊力量はやはり豊富だが、僕らの術式とは多少相性が悪いようだね」
と、彰がぽそりと珠生に呟く。
「……そうなのかなぁ。頑張ってるみたいなんだけど」
そう返しつつも、珠生はハラハラしながら修行の様子を見守るしかない。とはいえ、確かに戦いの最中に足元から鋭い氷柱に突き上げられるのは恐ろしすぎる。
彰は腕組みをして「深春とセットで攻め方で使った方がいいのかもしれないな……」とぶつぶつ呟きながら思案を巡らせているため、珠生はすとんとフェリーの甲板に降りて湊の隣に立った。
湊はタブレットを手にして湖面を見つめたまま、「さすがの先輩も、薫の使い方には苦労してはるみたいやな」と言った。
「そうだね……。物理攻撃しかできない俺にはよくわかんないけど、祓い人が陰陽術を使うのは、やっぱり難しいのかなぁ」
「まあ、向こうは基本強い妖を飼って操ってなんぼやしな」
かつて能登で戦った水無瀬楓のことを思い出す。
楓は深春を妖として扱い、深春を操り珠生に深傷を負わせたのだ。また楓は、使役していた阿修羅という巨大な幼犬に自分を喰わせた。
薫は彼らのように妖を使役した戦いを経験したことはないようだが、ひょっとするとそうした戦い方のほうがしっくりくるのかもしれない。
「でも、あいつも俺も、ここでやってくならそれなりに陰陽師衆の人らと共闘できるようにならないといけない」
「み、深春……いつの間に」
ふと気づくと、深春が珠生の背後に立って修行の様子を眺めている。
今回、深春は珠生同様、戦闘要員として氷上に立つためにここにいる。それは舜平も同じだが、皆が氷牢結晶を使えるようになるまでは経験のある舜平が引っ張らねばならないため仕事が多い。
今も声を張って、皆に力の注ぎ方を指南している。深春は誰ともなく陰陽師衆の面々の背中を見つめながら、決意のこもった口調でこう言った。
「薫は、俺よりも強くそう考えてるみてーだしな」
「そっか。……そうだよね」
おそらく薫は、深春とこちらの世界で一緒に生きていきたいのだろう。
そのためには、祓い人としての血塗られた歴史をすべて捨て去り、陽のもとを歩み続けてきた都の陰陽師衆として居場所を得たいと考えているに違いない。
薫が深春に見せる執着の片鱗を耳にしている珠生からしてみれば、その気持ちはじゅうぶん理解できる。
暴れ回る霊力を示すかのような鋭い氷柱は徐々に尖りをなくしつつあるが、小山になったりぽっかりと空洞をあけてみたりと落ち着かない。
やがて舜平の「ちょっと休憩しよ」という声とともに、湖面をまだらに覆っていた氷は姿を消した。
張り詰めていた空気が弛緩すると、ぱちぱちぱち、と気の抜けたような拍手が背後から聞こえてくる。
「なんともまぁ、面妖な術を使う。おもしろいのぉ」
蜜雲の用意した;緋毛氈(ひもうせん)の上で盃を傾けながら、彌土路はすっかりくつろいでいる。
和装の彌土路と平安装束の蜜雲がにこにこしながら酒を酌み交わしているその場所だけ、やたらと雅な雰囲気だ。
「わしの湖を好き勝手に凍らせよって。あちこちくすぐったくてかなわんわ」
そう言って、彌土路は細っこい首筋をぽりぽりと掻いている。すると湊はきらんと眼鏡を光らせ「ほう……? 湖と感覚がつながってんのか……?」と独り言を呟いた。
「痒いところはわたくしが掻いて差し上げましょうか?」
と、蜜雲がにこにこしながら狐らしく尖った爪をシャキンと見せると、彌土路は渋い顔をして「いい、いい。実際痒いわけじゃない」と言う。
それを耳に挟んだ湊が途端に興味を失うのがそばにいて伝わってきて、珠生はちょっと笑ってしまった。
「なんや、えらいあそこだけほのぼのしてんな」
「あ、舜平さん」
そこへ、タオルを首にかけた舜平が珠生のそばへやってきた。
水面に近いところにいるため、頭からぐっしょり濡れている。黒髪は濡れそぼり、私服の黒いTシャツが逞しい肉体に張り付いているようすを目の当たりにして、珠生はすこしどぎまぎしてしまった。
「びしょびしょじゃん。寒くないの?」
「暑いくらいやわ。まぁ、みんなちょっとずつ扱いに慣れてきたっぽいから、もう一息やな」
「薫くんは、どう? 先輩は攻め方に回そうかとかぶつぶつ言ってたけど……」
「せやなぁ……今はちょっとずつ形にはなってきてるけど、いざ実戦となったら気持ちも揺らぐやろし、そうなると術も崩れる。……そこはちょっと気になってる」
「なるほどね」
甲板に薫の姿を探してみると、彰と深春とともに何か話し込んでいる姿が見えた。表情はあいも変わらず硬めである。
気がかりだが、珠生がどうにかしてやれる問題でもないため、見守るしかない。
「……ほう、ほうほう。貴様も転生者か。なんと豊かな霊力」
「うわっ!!」
ふと気づくと、舜平の背後に彌土路がいる。
小さく尖った鼻を舜平に近づけてすんすん匂いを嗅ぎながら、「ほう、なるほど」と顎を撫ぜた。
「近っ……びっくりしますやん」
「貴様の豊かで力強い霊力を持っているようだな。……喰えばわしの力が倍増しそうな」
「は!? 喰う!?」
「ふふ、戯れよ。……しかし……ふうむ……これはなかなか」
黒目がちな大きな目でぎょろりと舜平を見上げ、細く赤い唇を吊り上げて、彌土路はニヤリと笑いながら舜平の周囲をぐるぐると回りはじめた。
「貴様が一番美味そうだな。……ふむ、酒によく合いそうな」
「ちょ……何言うてんねんこいつ。おい蜜雲、なんとかせぇよ」
「まぁまぁ、彌土路殿は転生者が珍しくて興味津々なのです。ちょっとくらい齧らせて差し上げてもよいのでは?」
「齧ってええとこなんてないねんけど」
舜平がまとわりつく彌土路を見下ろして渋い顔をしている。
舜平の霊力の素晴らしさを知る珠生としては彌土路の気持ちもわからなくはないのだが、大事な舜平を彌土路に齧らせるわけにはいかない。
ぐいっと舜平の腕を引いて背中の後ろに庇い、珠生は彌土路ににっこりと微笑んだ。
「いけませんよ、彌土路様。この陰陽師は俺のです」
「貴様の……? ふぅむ、なるほど。半鬼半人の貴様は、こやつの霊力の味がわかるのか」
「ええ、わかります。いくら彌土路様でも、この男の霊力は渡せませんよ」
「ほう」
しげしげと彌土路が珠生をじっと見つめる。
心底興味深そうに珠生の瞳を見つめ、赤面している舜平を見上げ、また珠生を見て、彌土路は深々と頷いた。
「そういうことか。恋仲か」
「!? な、なんでわかんねん!?」
「ふん、ねっとり混ざり合った貴様らの気でわかる。このわしの目を侮ってもらっては困るな」
「ふ、ねっとりて」
と、復唱しつつ笑う湊を舜平がじろりと睨んだ。
「非力な人間どもの恋路を邪魔する気はないが……それにしてもうまそうな匂いだ」
「彌土路殿、酒が回るとすぐ人を食おうとする癖は治りませぬなぁ」
と、蜜雲。
「ふん、人など食わぬ。今や神に近きこの身に、妙なものを混じらせたくないのでな」
そう言って、彌土路はまた緋毛氈の上にすとんとあぐらをかいた。くいっと美味そうに酒をあおって、「……良い酒だ」と満足げなため息をつく。
そのとき、ぱんぱんと彰が高らかに手を叩き、皆の注目を集めた。
「さぁ、次は氷上での戦闘訓練だ! ほら舜平、いつまでも珠生にベタベタしてないで準備だ」
「なっ……ベタベタなんてしてへんやろ! ったくどいつもこいつも……」
ぶつぶつ文句を言いながら、舜平がデッキに戻っていく。
その背中を見守りながら、珠生はふっと苦笑した。
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