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二、白い影
【注】
✳︎国立大学らしい名前を思いつかず、結局学校名を京都大学にしましたが、架空の京都大学です。キャンパスの位置も架空です。リアルな京都大学とはなんの関係もありません(;´-`)
次の日。
珠生は健介と京都大学洛北キャンパス内にいた。
家の中で片付けをしたり本を読んだりして地味に過ごす珠生を、気分転換にと健介が外に誘い出したのである。
その日は天気が良く、確かにとても気持ちのいい日和だった。
洛北キャンパスは京都市北区にその敷地を広げている。府立植物公園のすぐ隣に位置し、生物科学科はそこで研究や実習を行うのである。健介の自宅からもほど近い場所だ。
父親の研究や仕事内容にはあまり興味はなかったが、大学の次に案内された植物公園の中を歩くのはとても気持ちが良かったし、久し振りに絵を描きたいと思えるような美しい風景だった。そんな場所に出会えて、珠生は少なからず嬉しかった。
「いいとこだね」
ぶらぶらと歩きながら、珠生は笑みを浮かべた。健介は穏やかに微笑みながら、そんな息子を見下ろしている。
「だろ。近いし、またいつでもおいで。父さんの職場もすぐだから、家に一人で寂しかったらきてもいいよ」
「……俺がそんなことすると思う?」
「はは、しないよな。言ってみたかっただけ」
健介は楽しそうだった。こんなに楽しそうな父の姿は、見たことがない。きっと関東は水が合ってなかったんだな。と、珠生は思った。
「さて、父さん、仕事に戻らないといけないんだ。道はもう分かるね?」
「うん、大丈夫だよ」
「ごめんな、今夜は夕飯、いらないから」
「オッケー。じゃあね」
珠生は手を振りながら小走りに去っていく父親を見送りながら、羽織ったパーカーのポケットに手を突っ込んだ。
ぶらぶらと歩きながら、そこここに咲く美しい花や、その甘い香りを楽しんだ。
腕時計を見ると、針は十三時を指している。ぽかぽかと暖かい陽気だが、人気はまばらだ。
植物公園を出て鴨川沿いを歩くと、川沿いに桜が美しく咲き乱れる鮮やかな風景にはっとさせられる。五部咲きくらいだろうか、控え目に花をつける淑やかな桜の木々は、とてもきれいだ。
昨夜の雨のせいか道は少しぬかるんでいる。そのためか、ここにもあまり人気はなかった。
こんな花見日和なのに、もったいない……と珠生はひとり優雅に桜を楽しんだ。鴨川の川面にせり出すほどの見事な枝振りの桜の下で、珠生はふと立ち止まる。
「きれいだなぁ」
ひとつ、ふたつと散る、薄桃色の花弁。空は青く、澄んでいて鮮やかだ。
――あぁ、絵を描きたいな。画材を持ってくればよかった。
珠生はそんなことを思いながら、うっとりと桜を見上げた。
桜の花は全て、下向きに咲く。それまるで「ねぇ、こっちを見て」と花々に呼ばれているように感じられた。風にさらさらと花弁を揺らす様は、こちらに微笑みかけているかのようにも見えて可愛らしい。
桜に見惚れていた珠生は、ふと背後に気配を感じた。
「……?」
すうっと、冷たい風が珠生の髪を撫でるように吹き抜ける。
振り返ると、そこに白い影があった。
「……え」
桜吹雪の下、白い狩衣と銀色の髪が珠生の目に鮮やかに映った。きらきらと光を湛えてなびく銀色の美しい髪に縁取られるのは、抜けるように白い肌と、鮮やかな琥珀色の瞳。
珠生は愕然として、その姿を凝視する。
その白い衣に身を纏った少年は、珠生と同じくらいの歳の頃であろうか。珠生と同じように桜を見上げていた少年が、ふと、珠生の方を向いた。
赤い唇と赤い耳飾りが鮮やかに、きらめく。
――何……これ……。
珠生は呆然として、その風景に見惚れた。さっきまで五分咲きだった桜の花が一斉に咲きほころび、美しい銀髪の少年の頭上に桃色の花弁を花開いている。
その風景のあまりの美しさに、声も出せなかった。
しかし同時に、目に映る非現実的な風景が恐ろしくもあり、足が竦んで動かない。
――誰……?
ざあぁっと、強い風が吹いて、桜の花びらが雪のように舞い上がった。珠生がはっとして頭上を見上げ、もう一度目線を戻した時には、もうそこには誰もいなかった。
「え……?」
え、幽霊? ……嘘、まさか。
突然、ずきん、と頭が鋭く痛んだ。
思わず頭を押さえて、ぬかるんだ川辺に膝をつく。
どくん、どくん、と心臓が大きく跳ね上がる。それに同調するように、頭もずきずきと痛んだ。
何、これ……、痛い……!
あまりの痛みに、珠生はついにぬかるみの中に両手をついてしまった。脂汗が流れ、呼吸が乱れた。
目を閉じると、瞼の裏にさっきの少年の姿が浮かぶ。作り物の人形のように整った美しい顔と、彼の周りに散る薄桃色の花びらが、暗闇の中浮かび上がる。
――誰……?
「おい、どうした?」
桜の木の下にうずくまっている珠生の肩に、誰かが掴れた。
ゆるゆると顔を上げると、ひとりの男が傍にしゃがみこんで、珠生の顔を心配そうにのぞき込んでいる。
凛々しい眉と、はっきりとした力強い眼差しを受け止めた瞬間、心臓が大きく跳ね上がり、珠生の全身の細胞がざわめいた。
どくん……!
「どないしたん? 体調、悪そうやな」
聞き慣れない関西弁で自分を気遣うその男の声を聞いて、また一際心臓が派手に暴れる。
どくん……!
涙が、どっと溢れ出す。
胸が苦しくなるほどに、懐かしい。こみ上げる切なさに、唇が震えた。
――誰、なんだ……?
誰かも分からないのに、無意識に手が伸びて男のシャツにすがった。男も目を見開いて驚いたような顔を浮かべているが、珠生から一瞬たりとも視線を外さなかった。
「……お前……」
男の唇が、何かを言おうとして動いた。
しかし、それは言葉にはならなかった。
暖かくて力強い、大きな手。この、体温。
珠生はじっとその黒い瞳を見つめたまま、震える唇でその名を呼ぼうとした。知るはずもない、この男の名前を。
しかしそれは声にならなかった。
不意にふわりと唇に触れた、懐かしい感触。微かに濡れて弾力のある唇が、珠生のそれに触れている。
苦しいまでに、愛おしい懐かしさ。
身体はもっともっとと、その男の唇を求めている。酸素を求めて喘ぐように、早く早くと急くように、男の唇を欲して身体が動いて、両手で男のシャツを掴んで手繰り寄せた。
――知ってる、この感じ。
――俺はこの人を、知ってる……。
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